序章

 お前に出来るのなら。
 嗤う顔が見えるようだった。容赦のない声が聞こえるようだった。弱さを許さない、強者の声が。
 実際に言われたわけではない。恐ろしく、そして憎くて、話をしようとは思わなかった。顔を見るのが怖かった。それに、気づいていないはずもないと思っていた。彼女の状況、彼女が起こすであろう行動に。
 お前に出来るのなら、やってみるがいい。
 酷薄な顔で笑ったはずだ。あの人は。
 生きてみるがいい、一人で生きていけるのならと。
 甘えを許さない人だった。試すような人だった。足掻かないで泣く者を、何もしないで諦める愚かな人間を、何よりも嫌った。卑下していることを隠しもしない人だった。容赦のない人だった。
 恐ろしく、憎くて、そして哀れで悲しく――愛しい。そしてやはり何より、恐ろしい。
 思い出しながら、冴えきった小さな手を握り締めた。目の前で子どもが泣いている。雪の中に倒れた彼女の傍らで、頬を真っ赤にして泣いている。
 大丈夫よ、と笑いたかった。ごめんね、寒いねと、声をかけたかった。
 けれど吸い込む息が、乾いて冷たく、喉の内にも突き刺さる。声が音になって出てこない。ただ細く震えた。
 ――ひとりで生きていけるはずもなかった。
 一日歩いただけで、体中が痛みを訴えた。足の皮がむけ、腫れ上がり、一歩進むたびに自身の体重がかかって、骨が踵に刺さるようだと思った。地面が針の山のように感じた。吹きつける寒風が容赦なく力を奪った。
 自分ひとりでは満足に衣服を身につけることも出来ず、食べ物ですらどのように手に入れればいいのかも分からなかった。庇護され与えられ、そのかわり、知る機会を奪われて生きてきたのだから。
 外から守るようにして、その実、窮屈に閉じ込められていた場所から逃げ出してはみても、その後どうすればいいのか、まるで見当がつかない。
 それでも、足が痛いと泣く我が子を抱き、体を引きずるようにして何日も歩き続けた。
 少なくとも逃げ出さなければ、とうに終わっていたかもしれない命だった。その命がまだ永らえている。そのためには、歩き続けなければ。逃げなければ。
 だけどもう、疲れきった体に力が入らない。
 泣いているのに。白い景色の中に、くしゃくしゃにした顔は見えるのに、声が遠くなる。風が耳を叩き、音を掻き乱し、頭を揺さぶられているようだった。あやしてやる力がない。
 泣かないで。大丈夫だから。ここは寒くて痛くてつらいけれど、あの伏魔の城ではないのだから。
 ああ、だけど、ここで倒れたらこの子を守れない。この小さな命のために、歩き続けてきたのに。ずっとあの場所を逃げ出したいと思っていた、それを行動にできたのは、この子がいてくれたからなのに。
 ――ここで絶えるのなら、かわりにこの子を守ってくれる人に託してからでないと。
 何も出来ないことは知っていた。頼ることの出来る人がいないのも、判っていた。だからあの人は、できるものならと嗤うだろうと思った。今の自分を見ても嗤うだろうか。
 それでも、逃げなければならなかった。
 ――――生きるためには。
 ああだけども、自分はここで絶えてもいい。だけど、誰か。

 
 誰か。
 この命だけは。
 

 呆れたこと、と産婆が笑った。おかしそうに。
 たくさん赤子を見てきたけれど、こんなに元気の良い子は初めてですよ、と。
 大きな泣き声だこと。さすがあなたの子だわ。
 男の子はただでさえ元気で母親の手に余るものですのに、この子は特にお育てするのが大変かもしれませんよ、と言いながら、産婆は母親に生まれたばかりの子を抱かせた。湯で清められた子を抱いた途端、疲れをにじませていた顔が、嬉しそうに笑う。
 赤い顔をしわくちゃにして、拳を握り、泣き喚く我が子を見て、彼女は言った。 
 いいのよ。
 力いっぱい泣きなさい。
 この子は、力いっぱい泣いて、思い切り笑って生きていくのだもの。大きな声で叫んで、走り回って生きるのだから。そのためにこの土地で生んだのだもの。
 気持ちを抑え込まなければならないことほど、つらいことはないもの。
 自分の意志で選んで、歩いていくのよ。
 何であろうと戦い続けて、己の望む道を貫いて、懸命に生きて、優しく強くあってほしい。
 ただどうか、苦しみだけに目を向けないで、生きていければいい。
 誰かの苦しみに気づかず、見過ごすような人でなければいい。
 産婆は、互いの声すらまともに聞こえないような赤子の泣き声に笑いながら応えた。それは素敵なことですけれど、やはり周りのお人が大変ですね。追い掛け回す羽目になる男たちも、回りの女たちも。
 きっと健やかで、まっすぐなお人になることでしょう。あなたのように。
 寿ぐ言葉に、彼女は笑みを返す。ありがとう、と。


 どうか、明るく輝く陽であってほしい。
 この深緑の季節のように。さわやかな風であるように。

つづく。

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