まがことのは




第一章








 夜の学校は、ただそれだけで怖い――という意識が大抵の人にはあるものだろう。それが実際に体験したことにしろ、外部から叩き込まれたイメージにしろ。
 いつも煌々と明かりに照らされ、生徒たちの笑い声が聞こえる場所から人影が消えてしまえば、そこは一変して寂しい場所へと変わる。先の見えない廊下。整然と機械的に並ぶ、教室の机。人の気配の絶えた隙間が寒々しい。窓から入るほのかな月明かりが、安心させるどころか、光りの当たらない闇を濃くしているようだった。
 そこに、急に小さな笑い声が響く。そして廊下を駆ける軽い足音。
「遅くなっちゃったねー」
「ホント、あたし電話しなきゃ怒られる」
「しょうがないよ、部活だもん」
「しゃべってただけだけどねー」
 笑いながら言葉を交わす。自分たちを励ますために明るく話しているような、妙に浮かれた声だった。廊下に遠く響く自分の足音にすら、ほんの少し、首を縮めてしまう程度の恐怖を覚えながら。
 部活に顔を出した帰りだった。三年生の冬のこの時期、毎日塾に通って、夜遅く帰って、また勉強、そればかりの生活をしていた。文芸部だから引退というようなものはないけれど、三年生はやはり主役ではない。今日は後輩が、部活で作る部誌の計画立てを助けるという名目で、部に顔を出してきた。だが、話をしていればついつい他の話題が出てくるものだ。息抜きと言い訳をして、ずいぶんと久しぶりに部活に参加したのだから、余計に。
「あ、そうだ。わたしノート忘れたから、取りに行ってこようと思ってたんだ。追いつくから先に行ってて」
 そのうち一人が、ふと思い出したように言った。笑い声とともに、明るい返事が返ってくる。
「間抜けー。早く来ないと、おいて帰っちゃうぞー」
「そんなことしたら、明日覚えてろっ」
「受けてたつ」
 軽い言い合いにお互い笑ってから、先の少女が一人で駆け出した。後ろに遠ざかっていく友人たちの声を聞きながら、廊下の反対側へと向かう。
 廊下には、ただドアと窓が並んでいる。ずらりと続く、造りが同じ教室。ふと気をゆるめれば、色々な怪談が頭を浮かんできそうになる。必死で抑えこんで、わざと別のことで意識を塞ぎながら先を急いだ。
 スリッパをぱたぱたと鳴らしながら階段を降りる。踵を踏む者が多いからと、数年前に上履きからスリッパに変えられたのだが、同時にそれは生徒が廊下を走るのを阻止するのにも役立っていた。すぐに脱げそうになってしまうので、とにかくそれだけに注意することにした。
 二階まで階段を降りた横手、右に曲がったすぐそこに、彼女のクラスの教室がある。
 一瞬、鍵が閉まっているかもしれないと思い、頬が強張るのを感じた。鍵がかかっていたら、職員室まで取りに行かなくてはならない。
 開いてて、と無意識に願って、強く力を込めていた彼女の手に、何の抵抗もせずに戸が動く。ガラガラと大きく音をたてながら勢いよく開いた。普段なら気にならないその音も、こんなにも静かだと必要以上に響いて聞こえる。
 ――やめてよねー。
 内心冷や冷やしながら、教室の中に駆け込んだ。何よりもまず明かりをつける。無機質な白い光りが見慣れた教室を照らして、ほっと大きく息をついた。
 それから、大急ぎで自分の机に駆け寄ろうとして、慌てるあまり脚を机にぶつけてしまう。ガタンガタン、と大きな音が響く。音に驚いて、遅れて痛みがあった。
「いたたたたた……。本当に間抜けだー」
 友人に言われたことを思い出しながら、自分を励ますように思わず独り言が落ちた。実は音と痛みに、飛び上がるくらい驚いたのを、ごまかすようにして。
「ノートノート……。ああーもう、どうして忘れ物なんてするのよーわたしのバカー」
 必要以上にしゃべりながら、やっとたどり着いた自分の机を乱暴にあさった。数学の宿題をしなければならないのに、どうしてよりによって、数学のノートを忘れるんだろう。その上、明日は確実に当たるから、思い出さなかったことにして帰ってしまうわけにもいかない。受験生の自覚があるのか、そんなことで高校に行けると思っているのか。きっと言われるに決まっている。されずにすむ説教を、わざわざ自分からされることもない。
 やっとノートを探し当て、彼女はホッと笑みをこぼした。肩にかけていた学校指定の鞄を開けようとした、瞬間。
 何も見えなくなった。はらりと、目の前に物が、目隠しの布でも落ちてきたかのように、突然何の音も予兆もなく、目の前が黒くなった。
 持っていたはずのノートも、それどころか自分の手も、腕も、見えない。闇の淵に閉じこめられたような、深淵へ突き落とされたような、気味の悪さ。
 ――停電?
 思って、嘘、とつぶやこうとした。けれど声が出なかった。意識が混乱する。目を見開いて、閉じてみて、何も変わらないのに気づいて余計に心が冷えた。夜の闇だって、こんなに暗くはない。
 そんな馬鹿な、と声を出そうとした。――出来ない。くらり、と足元が揺れた。まさか、今度は地震かと、さらに混乱する。力が抜けたのか地面の方が揺れたのか。平衡感覚が崩れる。
 無意識に、身をかばおうと、手を前に出す。ノートを持っていることも忘れていた。机が揺れた大きな音とともに、すぐに固く冷たい感触が掌に触れて、腕を伝う寒気(おぞけ)に身が震えた。
 再び目を閉じて、唾を飲み込む。急に貧血に襲われたようだ――座っていたわけでもないのに、立ちくらみでもあるまいし。それなのに、体が揺れる。
 まるで何かが頭の中に侵入してきて、突然感覚を狂わせようとしているみたいだと思った。視角も三半規管も、体中の血の気も、大きな掌で彼女の体から遮断されてしまったみたいだった。――そしてそれは、あながち間違いでもなかった。


「死んでしまえ」
 耳元で声が囁いた。けれど、そんな訳がない。足音がしなかった、人がいるわけがない。あんなに静かだったのに、夜だから誰もいるはずがなくてだからあんなに怖かったのに、音もたてずに廊下を歩いてその上、ガラガラとやかましい音をたてる戸を開いて教室に入ってくるなど出来るわけがない。確かに、気持ちが動揺しているけれど、混乱したけれど、そんなことにも気がつかないなんてあるわけがない。人がいることもいないことも、確かめるのが怖くて振り返ることが出来なかったけど、そのはずだ。絶対に不可能なのに……なのに。
 ――どうして声が聞こえるの?
 少女は泣きそうになりながら、必死で息を大きく吸った。
「死んでしまえ」
 再び、そして今度こそ、確実に聞こえたその声。やわらかな吐息すら、人が近くに寄り添う生暖かい空気すら伝わってきそうなほど、身近な距離で耳朶に告げられた声。
 ただ目を見開いて、動けなかった。悲鳴など出てこない。視界に自分の腕と、ノートを右手の下敷きにして机についた両手が見えているのに、暗闇から脱したことにも気がつかなかった。
 息を吸い込んだまま、吐き出すことすら出来ない。鼓動が頭の奥で、大きく響いている。
「死んでしまえ」
 再び命じてくる。二重になって響いて頭の中で反響している。
 悲しみに満ちた声だった。憎しみにあふれた声だった。明るい光を憎み、照らされる他人を憎み、あぶれてしまった自分を憎み、受け入れない相手を憎む声。
 瞬間、恐怖すら忘れて、慰める手をさしのべたいと思うほど。それが出来ないのなら、声の命ずるまま――望みをかなえてあげたいと思うほど、月明かりの誘う窓辺からそのまま、宙へ歩き出してしまいたくなるほどの――


 突然大きな音が鳴り響いた。驚きに肩が跳ねた。同時に目が覚めた……ようだった、まるで。靄(もや)がかかったように、何者かに目隠しされたようになっていた思考が、再び世界を認識した。心臓が、うるさいほどに鳴っている。
 辺りを見回すと、机の列が乱れた教室が見える。今の音。どう考えても、この室内からではなかった。それとも幻聴だろうか、それともやはり、外から聞こえた?
 それにさっき、耳元で聞こえた声――
 突き動かされるように、彼女は勢いよく後ろを振り返った。何もない。誰もいない。
 今度は急に身をひるがえして走り出した。がたがたと大きな音をたてて机を押しのける。乱暴にたてる音も、脚に当たる痛みも、列を乱すのも気にならない。でもそうやって走り寄ったものの、窓の外は暗くて見えなかった。
 懸命に目をこらしたが、それで太刀打ち出来ないのを判断すると、再び走りだす。強引に造りだした道を、今度は逆走していく。
 こじ開けるような勢いで教室の戸を開け放ち、廊下へまろび出る。駆け出すと、気持ちとはまるで正反対に、軽い音でぱたぱたとスリッパが鳴った。緊張で脚が突っ張り、思うように走れない。何度か転びそうになりながらも、それでも止まらなかった。行かなければ。
 外へ行かなければ。何が音をたてたのか、一体何がどうなったのか、確かめずにいられなかった。そうしなければならないような思いから、逃れることが出来なかった。それは恐いもの見たさなどと言うものではなく。
 何故かはよく分からない。けれど、尋常でない空気が、彼女のを突き動かしていた。
 一階へ駆け下り、外へ走り出ると、音が聞こえたと思われる方向へ首を巡らせる。黒いものが見えた。
 影になっている黒いもの。駆け寄りながらも、必死に頭を働かせて、それが何かを判断しようとして、あるものに思い至った瞬間、彼女は足を止めた。がくん、と揺れて無理矢理止まる。
 ――――人だ。
 長い髪が伏せっている顔にかかっていて、顔そのものが黒い空洞のようだった。投げ出されている体は制服を着ていて、紺のセーラー服のせいで黒い塊に見えた。スカートから見えている脚の白さが、妙に月に映えて、対比が生々しかった。そして、広がっていく黒い染み――血。
 泣きたくなった。何がどうなるわけでもないけど、大泣きして放り出してしまいたくなった。何か音が聞こえると思ったら、自分の歯がガチガチと音をたてて、頭の奥で鳴っている。
 どうしようどうしよう。
 ぐるぐるとそれだけが頭の中を回っている。泣きたい。駆けつけたはいいけれど、ここまで来たはいいけれど、こんなもの、どうしようもない。助けて、と思う。誰かどうにかして。この状況をどうにかして、助けて。
 誰か、と思った。それと同時、人の顔が頭をよぎった。親の顔でもなく、親しい友人の顔でもなく。ただ、ぶっきらぼうで、無愛想な顔が。
 けれどそれをすぐにかき消す。きっと迷惑がるだろうから。助けを考えただけでも、きっと面倒くさがるだろうから。ひらめくように思って、おかしみが沸いて来た。それに、あの人は言うに違いない。「泣いている暇があったら、考えろ」と。あの人は、自分では何もせずに怠けてただ助けを待っているだけ人が大嫌いだった。今の自分を見たら、きっと失望するだろう。
 想像でしかない物事で、勝手に思ったことでしかなかったが、一度心の中に浮かんだおかしみと、認められたいという自尊心のようなものが、動揺していた心をいつの間にか押さえ込んでいた。そして励まされた思いで、弾かれたように再び走り出す。
 元来た道を、けれどそのままたどるわけではなく、途中で曲がり、靴箱の並ぶ昇降口に出る。敷いてある簀の子を勢いよく鳴らしながら走り抜けた。スリッパのまま外に出て、門の方へ向かう。
 人手がいるのだ。だから、彼女たちに助けてもらわなければ。友人たちは先に行っていると言っていたけれど、門のところで待っていてくれているはずだ。
 誰か、倒れていた子のそばについていて、それから誰かが救急車を呼んで、それから、他の誰かが職員室に行って――
 一生懸命、自分に出来ることを考えていた。空転する思考を宥めながら、考えていた。けれどもたどりついた門のところで、その思いが止まってしまう。瞬間に、すべて消えてしまった。
 舗装された道から道へ、外部と内部の区切りをつける柱が二つ、間隔を開けて並んで立っている。たわめられた黒い門戸を片方だけ開いて。
 その門のところに、つい今見たばかりのものと同じようなものが、横たわっていた。違うのは、一つきりでないこと。そして、まるでそれがよく見えるようにと、余計な配慮をほどこされたように、門の脇に立つ街灯の光りがあること。
 虫を集(たか)らせて、じりじりと嫌な音をたてながら時折揺れる街灯の明かりのもと、友人たちと同じ数だけ、それはあった。やはり、先刻見たものと同じ染みの中に。白い光りの中で、その染みは、明かりを照り返して艶めいているように見える。赤黒く生々しく、広がり続けている。
 肩で息をしながら必死に走ってきた少女の、吸った息がヒイッと喉の奥でひきつった音をたてた。
 倒れた少女たちの手に、カッターナイフが握られている。







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