まがことのは




第二章








 夕方になって、祖母が雅牙をそこの公園まで送ってくる、と出かけた後で、あまり聞きたくない鳴き声がした。
「可愛い子ではないか。お主とは違って素直じゃのう」
「何しに来たんだよ」
 屋根の上から頭の上に降りてきた猫に、悪態をつく。
 家を教えた記憶はまったくないというのに、この猫はいつの間にか都雅の家を突き止めている。――初めて会ったときが学校からの下校中だった。同じところで張っていれば、学校をさぼり気味だといっても必ずその道を通るから、簡単なことではあったが。
 おせっかいな性格だからか、出会ってからこっち、この猫はなぜかしつこく都雅につきまとわろうとする。菊が飼われている家と都雅の家は、自転車で行けば二十分ほどと比較的近いせいもあるだろう。しかも恐ろしいことに、のんきな都雅の祖母と猫はもう顔なじみだった。乗られている頭が、ぐらぐらする。
 頭の上の猫は、都雅の苦い顔などまったく気づかず、平然と言った。
「お主の答えを確かめに来たのじゃ」
「答え? ……例の仕事のことか」
 どうしてこう、寄って集って人を追いつめたがるのだ。うんざりする。それに気が早くはないかと思うが――あれから二日。身の危険にさらされていると言う状況で、よく待った方だろう。
「それって、新藤って言う家か?」
「……そうじゃが」
 教えたかのう、と怪訝そうな声音で簡単に肯定されて、ますます気分が悪くなってしまった。やっぱり、こういうことになるのか。半ばあきらめも浮かんできたが、余計に嫌になる。
「それで、何か進展あったのか?」
「当たり前じゃろうが。二日も経っておるのじゃぞ」
「……はあ、左様でございますかあ」
「もっとシャキッとせんか。もともとその子――孝司というのじゃが、その子が狙われておるとは言っても、今までは直接何かをされたわけではのうてな。相手は、その子をじわじわと追いつめて楽しんでおるようだ。まず家の門が派手に破壊され、番犬が殺されて、ご丁寧に首があの子の部屋の前に置かれていたり、警備の人間が大勢怪我をして、メイドが大怪我を負い、昨日は孝司の部屋の両脇の部屋が破壊されて――まあ、大きな家じゃから部屋は山ほどあるし、使用している人間がいなかったのが幸いじゃが、そんな案配じゃな。だんだん近くなってきておることは確かじゃ。今日か明日か明後日か、そろそろ本気で危ない。じゃから急いでおるのじゃ。何より、子どもの精神に良うないと思わんか。何かが起きるのが決まって夜とあって、あの子は眠ることも出来ずにいるらしい」
「なんだそれ。別にその子が狙われてるって、決まったわけじゃねえだろ」
「いや、確実にあの子が狙われておる。何せ、わざわざ相手が、人の前に姿を見せて、言ったらしいからな」
「詳しいじゃねえか」
 都雅は疑わしげに言う。頭の上に乗られたままなので、疑惑の眼差しを向けることは出来なかったが。
「そんなの決まっておるわ。つい先刻まで、一緒に屋敷におったのじゃ。わしと孝司は親しいのじゃと、美佐子ちゃんも言っておったであろうが」
「まあ、猫ならうろちょろしてても、怪しまれやしないだろうがなあ……」
 下手をすれば自分も無事ではすまないかも知れないと分かっていて、よくも呑気に行くものだと思った。この猫は本当に、心の底からお人好しだ。貧乏くじを引きたがるタイプだ。
 やれやれ、と息を吐きながら、続けて言う。
「しかし、別に大したことじゃないじゃねえか」
 話を聞く限り、尋常でない猟奇犯罪な訳でもなし、誰でも多少無理をすれば可能な範疇だ。大がかりではあるが。上流階級の人間が恨みを買った結果の嫌がらせ、とも取れる。人の恨みというものは、高じれば、手間暇も金も厭わない程に発展したりもするものだろう。
 変なものに狙われている、なんて、美佐子も雅牙も、口を揃えて変なことを言っていたが。
「しかし、何もないところに急に現れることが出来る人間がいると思うか。素手で、家の壁を粉砕できる人間が、そうそういると思うのか」
 忽然と現れる、と聞いて霊の類かと思った。それなら、自分は専門外だ――別に扱えないこともないが、そう言って逃げる口実が脳裏に浮かんだ。 けれど、続いた言葉を聞いて、それが立ち消えた。驚きと苛立ちの混じった声が出る。
「誰か見たのか。それ、人間だと言ったな、今。幽霊でも化け物でもなく?」
 そんなことが出来る人間がいるかと言った。はっきりと。それならば、誰かがちゃんと見て覚えている。実体があって、人間にしか見えないのに、けれども人間とは思えない所業をして見せている相手を。
「人の前に姿を見せて言ったのだと、先程教えたばかりじゃろうが。被害者の何人かは、気が狂ったようになってしまっておるのだが、警備の男の一人は意識も記憶もはっきりしておったようでの。執事たちが話しているのを小耳に挟んだのじゃが、ごく普通の、人間にしか見えなかったと」
 盗み聞きした、が正解だろう。猫がうろうろしていたところで、執事も家の旦那も、さしても気にせずに話をしていただろうから、随分と情報は集めやすかったに違いない。
 けれど菊の言葉を聞いた途端、都雅の表情が険しくなった。
「…………冗談じゃねえ」
 一言吐くと、そのまま顔を背けて黙り込んでしまった。彼女の頭に乗ったままだった菊猫は、飛び降りて小さく鳴いた。首が傾き、翠の瞳が物問いたげに彼女を見上げる。
「うるせえ、冗談じゃねえぞ」
 皆が皆、相手が得体の知れないものだというのなら、そうなのだろう。加えて新藤家が絡んでいて、世間を騒がせた事件というのを、都雅は別のところから耳に入れている。多分、彼女の学校に行ってクラスメートに聞いても、知っているだろう。その事件の大きさを考えれば。つい先ごろ、財界、政界のみならず、ワイドショーやニュースなど、多方面において世間を騒がせた事件の張本人が新藤家だ。
「なんだって、選りに選って」
 そして目撃されたものが、人間にしか見えなかったとなれば……。思いつくことは、一つ。きっと、予想に間違いはないだろう。
 ただただ舌打ちがもれる。冗談ではない。
 都雅だって、自分の分は心得ている。所詮自分が、何の準備も無しに、しかもたったひとりで、太刀打ちできる事態ではない。相手を見ずとも、それくらい察しがつく。
「協会は何をしている……そこの親父は、他の誰かに警護を頼んだか? あたしみたいな類の人間に」
 協会、と何をさすことか分かりかねたようで、猫は頭を傾げたが、少し考えるようにしてから首を横に振った。
「何か言って来た者どももおったようじゃった。押しかけてきて警備がどうとか、家の者が外部と口論している節もあったが、ここのところあの家は荒れておるから、確実にそのこととも限らぬ。警察かも知れぬし。じゃが結局、どこも関わってきた様子もないようじゃ。関わらせていない、と言うべきかの」
「立ち入らせていないのか。随分な自信じゃねえか」
「何やら事情を隠しているようでもあったかのう。裏もあるようだし、あまり大層なものに、大事に取られては困るようじゃ。一応それとは別の霊能力者に、何人も頼んだようじゃが。まあ、結局、駄目じゃったのじゃな」
「我が子より対面か……?」
 嫌悪に、顔が険しくなるのが分かる。胃がむかむかする。
 何にしたって、張本人は事態を軽んじすぎる。分かっていないのだろうが、彼らにとっての問題は、家の中で起きていることよりも、社のイメージ、家のイメージ、なのだろう。
 その意地のせいでいたずらに人が死んで、外部の協力を断ったとなれば、事件が食い止められることなどありえない。拡大して更に人が死ぬ。これ以上事が大きくなって、専門組織が権威をかざして人を派遣してくるまでは、このまま。しかしそれすらも、相手が新藤家のようにそれなりの権威を持つ家が相手では、対応が遅くなる可能性が高い。事実を話すべき相手に、協力を頼むべき相手に、何も要請していないとは、何を考えているのだろう。素人なら素人らしく、専門の連中に任せれば良いものを、自分たちで解決しようとしてハズレを引いているなんて、馬鹿馬鹿しい。
 だがそんなことより、何よりも、歪曲した考え方が気に入らなかった。これだから金持ち連中は、大人は嫌なのだ。体面ばかりだ。心の中で、吐き捨てるように思う。
「じゃからのう……お主は、依頼を受けぬ方がいいかも知れぬのう」
 猫が悄然と言うことに、都雅は苦笑した。辛うじて冷笑にならなかったことに、我ながら良くやった、と思う。
「お前たちが言い出したことだろうが」
「うんにゃ……。わしらは詳しく知らなかったのじゃ。あれから様子を見に行って驚いた。これはお主に気軽に頼むにしては、大事過ぎたようじゃ」
「んなこと言っても、遅い。今更」
 吐き捨てるように言って、都雅は苦い顔をした。この猫も雅牙も、助けてくれと言わんばかりに事情を説明しておきながら、あとでやめておけと言う。卑怯じゃないか、そういうやり口は。そんなつもりは、ないのかもしれないけれど。
 それに雅牙――あの子は、「お姉ちゃんまで危ないことに」などと言っていなかったか。それが「友達に加えてお姉ちゃんまで」と言う意味なら、別に構わないのだが。「友達とぼくに加え、お姉ちゃんまで」と聞こえて仕方がない。
 あの子は決して、すぐに家に帰るとは言わなかった。どう言い訳するんだ、と聞いた都雅に、困った様子を見せた。これから新藤家へ向かうのなら、この家へ来ていたことをごまかすための言い訳など、用意する必要はないはずだ。はじめからそこにいたと言い張ればいいのだから。けれど黙り込んでしまったのは、新藤家へ行くということを、都雅へ言えないからだったのでは。
 杞憂かも知れない。でも、あの子ならやりかねない。
 そういう子なのだ、雅牙は。
 困ったように顔を洗ってごまかしている猫を見て、苦い顔をしたまま溜息をつく。緩慢な仕草でかがんで、彼をつまみ上げた。
「とりあえず、さっさと、そこに連れていけ」


 ああ、本当に嫌になる。
 どれだけ禁じても、溜息が止められない。
 久しぶりに、雅牙に会ったりしたからだ。家を思い出してしまう。大嫌いなあの家。そして、反吐の出る、あの女の顔。
 ――家族なんていらない。
 一人で生きていける。だから、必要ない。
 ――弟なんていらない。
 だって、愛されているあの子は嫌いだ。同じ親から生まれたのに、望んでこうなったわけでもないのに、あたしとは違って愛されている。……ずるいと、思う。
 ――雅牙、嫌いだ。





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