まがことのは




第四章










 小さな音がした。軽快で短い音だった。
 夜が迫るにつれ、部屋の中には蛍光灯の光とともに沈黙が満ちていた。だからどれだけ小さな音でも、脅かすように耳に届いた。誰かが故意に叩いたとしか思えない、短く、意志を持った音。
 広い部屋の中、所在なさげに座り込んでいた少年たちがびくりと顔を上げる。音のもとを探すように、眼差しだけが部屋の中を徘徊する。
 音は、こん、こん、こん、と続いている。音の源は、入り口だった。チーク材で作られた頑丈なドアは、重層な音を響かせる。近づくなと言ったのに、誰か、夜食でも運んできたのだろうか。そう思わせるような、人為的な音。しかし、部屋の中に声がかからない。
 菊は孝司の横に座り込んで、艶やかな黒髪の間から、翠に光る瞳で戸を睨んでいる。ベッドに腰掛けていた都雅も、鋭く横目で見た。――戸の向こうに、人の気配がしない。
 こん、こんこん、こん、こんこんこん、どんどんどんどんどん!
 うかがうように、もしくはからかうように、リズミカルに戸をノックし続けていた音が、急に強くなった。声を返さない、戸を開けに来ない、部屋の中の者に苛立ったかのように。さらにノブが鳴り出した。がちゃがちゃと遠慮なく。その間も、大きな音でドアが鳴り続けている。
 そこにいるのは分かっているんだ、とわめいているようだった。まるで、人が片手で戸を叩きながら、片手でノブを動かす、その動作が見えるような音。――けれども。
 鍵などかかっていない。かけられるような鍵は、この子ども部屋にはつけられていない。家の者であるはずがない。
 何者かが、自分はここにいるぞ、と。今日こそはここまで来たぞと教えようとしている。身近に迫った現実に震える相手を想像して愉悦に浸り、嘲笑う相手の顔が見えるようだった。愉しんでいる。
 どん、どんどん。……ゴン!
 最後に、力任せに蹴りつけた、というような音がして、急にやんだ。
 ふつりと音が消えて、再び無音になる。少年たちは食い入るようにドアを見たまま、目を離せないでいた。騒々しさが消えて戻ってきた静寂は、それ以前のものよりもっと鋭いような気がする。薄くて研ぎ澄まされていて、居たたまれない。
 けれどどんなに待っても、再び兆候らしきものは起こらない。どんなに待っても――? 本当は、一分も経っていないのかもしれない。緊張が肩にのしかかってきて、長い長い時間に思えただけかもしれない。
 孝司はドアを見つめながら、懸命に助けを祈っていた。そしてずっとしていたように、自分に言い聞かせる。これは、夢だ。こんなこと、絶対に夢だ。誰か起こしてよ、と。泣きたい気持ちで言い聞かせる。とにかく、早くなんとか片づいてほしい。こんなこと忘れて、普通の生活に戻りたい。
 緊張と恐怖でぐるぐると目が回りそうだった。耐えきれなくなって、立ち上がろうとした。
「動くなって言ってんのが、分かんねーのか」
 目は一点に据えたままで腰を浮かしかけた孝司に、容赦のない声がかかる。抑え込まれた抑揚のない声が、凄みを持って少年の動きを止めた。振り返って都雅を見れば、少女の眼差しはドアをとらえてはいなかった。目は反対側の壁を睨んでいる。壁――?
 孝司の動きを察して、雅牙もドアから目を離した。同じように都雅を見て、けれども後ろから、とん、と肩を叩かれて、振り返る。
 叩かれたところに目をやると、細いものが見えた。ほっそりとした指、手首、白い腕。そこでぷっつりと切れている。肘までだけの、細く長い、しなやかな、だたそれだけの生き物のようだった。――誰かの、手首。誰もいないのに、腕だけが。ようやくそれが意識にしみこんできて、遅ればせながら雅牙が息を呑んだ。寄り添うように座っていた孝司も雅牙の視線を追う。彼は息を呑むことも出来ず、凍り付いてしまった。
 雅牙の肩に置かれた手は、パッと掌を向けた。驚いたかのように。
 おや、人違いか。
 そんな声が聞こえるような仕草だった。隣りに座る孝司と、雅牙とを、どっちだったかな、という様子で、順番に指さしていく。人差し指で、間近い距離を二度往復して、空中を踊る。
 やがて孝司の前に止まると、ああ、そうだ、この子だ、と言わんばかりに、再び掌を広げて揺れて見せた。笑っているかのようだった。
 ――遊んでいる。
「お姉ちゃん!」
 雅牙が叫ぶのと、手が孝司の首に掴みかかるのと、都雅がその手首を捕らえるのと、ほぼ同時。
 都雅は奇妙な違和感を感じていた。首にからみつき食い込む爪、目に見える指の節の感じ、なめらかな肌触り、自分の手を通して感じる冷たい体温。どれもこれも、不自然なく普通の人間の肘から先と同じ。おかしいくらい、おかしなところなどない。だが――だが、指先から這い上がる奇妙な感じは。
「幻術か?」
 しかし孝司は苦しげに顔をゆがめて、自分の首に掴みかかる手を引き剥がそうとして掴んでいる。すがっているかのようにも見えるほど、しっかりと掴んでいる。都雅自身だって同じだった。けれど、やはり幻術とはそういうものだ。
 相手の視覚に、聴覚に、触覚に、とにかくあらゆる感覚に、記憶に働きかけて、あり得ないものを、そこにあるものだと認識させる術が、幻術だ。詐術だ。手触りも体温も、相手に思い込ませるものだ。
 孝司は、そこにないはずの手をあるものだと認め、首を絞められていると認識して、勝手に呼吸を止めているに過ぎない。都雅自身、実際なら手が空を掴むはずなのに、存在しないはずの手首をしっかりと掴んでいる。それを握りつぶすことなど不可能だと、勝手に決めつけて。
 幻術とは、人の心に働きかけて、惑わせ騙す術(すべ)だ。
 ――つまりそういう類(たぐい)のやつか。
「孝司、聞こえるか。孝司」
 動揺するから、惑わされる。低く抑えて、静かな声で呼ぶ都雅に、けれど少年は反応を返す余裕などないようだった。それ以前に、聞こえてなどいないだろう。――無理もない。数日かけてため込まれた恐怖に加えて、ちょん切れた手首が唐突に現れて、自分の首を絞めているのだ。落ちつけといわれて、落ちつけるわけがない。
 無理もない。
 まず自分自身を落ち着けるように息を吐いてから、都雅は白い腕を離す。孝司と都雅の間を、不安げな目線を往復させている雅牙に、大丈夫だと眼差しで応えてから、その手を片方伸ばして孝司の目に当てる。目隠しをするように。少年の涙が、掌をしめらせた。
 触れられて、息苦しさに加え視界が闇に閉ざされて、孝司が唇をひきつらせる。恐怖を増長させるかもしれないと分かっていたが、これしかない。そして都雅自身も目を閉じる。何も見ないように。力を込めて、けれども驚かせないように、怖がらせないように気をつけて、丁寧に声を出した。
「孝司」
 場違いなほど、染みるように穏やかな声で呼びかけられて、少年がぴくりと動く。掌の下、反応を返したのが分かる。
「ここには何もない。お前と雅牙と菊と、あたし以外は何もいない。何もないんだ。お前は息が出来る。邪魔するものは何もないし、息を吸うことも、吐くこともできる」
 暗示にかけるように、ゆっくりと言い聞かせるように、言葉を吐き出していく。落ちつけ、落ちつけと念を込めて。呪文を放つ時のように、強く意思を込めて。
「大丈夫だ。あたしがいるから。守ると言った以上、守ってやる。今からあたしは手を離すが、お前は何も見ない。部屋が見えて、雅牙がいて、菊がいて、あたしがいるが、それ以外のものはなにも見ない。――大丈夫だから」
 言い聞かせているのは、むしろきっと自分自身だ。もともとこの世ならざる者は人の隙をつくのがうまいと言うのに、中でもこういったものを得意とするのは、巧妙な奴と決まっている。ただでさえ、何度も幻術を見たことがある自分が、そうと分からなかったのだ。さすがに相手は長けている。
 苦手だ。
 とにかく、こういう奴は、苦手だ。
 掌の下で、ひきつるように孝司が動いたのを感じ取って、都雅は少年から手を離した。次いで自分自身も目を開く。不安と怪訝そうな表情が混ざった顔の雅牙がいる。うかがうように見ている菊がいる。
 そして正面にいる孝司の首には、もう白い腕はぶら下がってはいなかった。それがあったはずの場所に手を伸ばして、先刻と同じように掴もうとしても、それは空気を握りしめただけだった。雅牙が息を呑む。彼にはまだ、腕が見えているのだ。
 けれど都雅の手が空振りをした、それを認めて孝司がひくりと喉を動かして息を吸った。瞬間、激しくせき込んでしまった。
 唇の端を片方つり上げて、満足げにそれを見てから、都雅は眼差しを移動させる。床に膝をついて中腰になっていた体勢から立ち上がると、再び壁の方へ、きつい目を向ける。
「菊、ガキどもを守れ。さすがにあたしも余裕がない。それくらいは役に立て」
 声音ががらりと変わって――否、元に戻っている。有無を言わせぬ命令口調だったが、さすがに菊も反論などしなかった。目の前で起きた光景と、壁越しに外を見ているかのような、都雅の険しい表情を見ていれば分かる。初めから、余裕のない相手だと聞いていたこともあるが――都雅は普段から表情に乏しい人間だったけれども、ここまで真剣に余裕のない様子の表情をしたのはあまり見たことがない。先刻の、母親の時とは微妙に違って。
 それに何より都雅が、菊に向かって何かをしてくれ、と言ったことがはじめてだったのだ。短いつきあいではあっても、たとえ命令口調ではあっても。
 次いで少女は、口中何かをつぶやいた。
 間髪置かずに、夜空に轟音が響く。






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