まがことのは




第五章









 学校から人が居なくなるのは早かった。もともと、今のこの学校へ子どもをやることを嫌がる親や、怖がって登校してこない生徒がいて、普段よりも通っている生徒が少なかったこともある。加えて今は部活も完全に禁止され、教員も早々に切り上げて帰宅するよう指示が出ているから、日が暮れる頃には校内から人の姿が完全に消えていた。仕事が残っていても、残業したい教師もいないだろう。
 赤く鮮やかだった世界に、少しずつ紫の染みが広がりはじめる。重く落ちて視界を閉ざしていく。行き違う人ですら、隣に立つ人ですら顔が見えにくくなって、誰かも分からなくなってしまう時間。見かける人影に、少しおびえながらも、彼は誰だと問いかけなければならないような、もの悲しい時刻。彼誰時(かはたれとき)――または誰(た)そ彼時とも呼ばれ、それは立つ人影が人とは限らない、魔の統べる時刻と交わり始める時でもあることから、逢魔(おうま)が時とも名づけられた時間。
「あー、ついに来ましたねええ、この時間が」
 さして気合もこもらないのどかな声で、奏が悠々と言った。
 ソファに細い体を長々と横たえて、妙な意地でもはっているかのように眠り続けている蓮を校長室に置いて、奏と崇子は校内の見回りを始めていた。学校へ結界を張る前に、人がいなくなっているのを確認する必要があったし、正確な情報を読み取ることができなくても、事件のあった現場を確認することにしていた。
「鬼頭さんは、ご兄弟なんですか?」
 なんとなく無言で作業する気にもなれず、崇子が問いかける。奏とは真逆で、緊張のにじみ出る声音は少し固い。暗く続く廊下の向こうへ吸い込まれるように響いた。
「ん、なんで?」
 用務員が帰る前に届けてくれた大きな懐中電灯を両手でもてあそびながら、のんきな声で奏が応える。そんな彼を頼もしいどころか、少し信じられないような目で見ながら、崇子は言う。
「お二人まとめて「鬼頭」だとおっしゃいましたよね。どことなく似てらっしゃる風だし、ご兄弟なのかなと思って」
「似てる?」
 怪訝そうだと思った表情は、おかしそうに笑ってもいた。
「……ご兄弟ではないんですか?」
「まあ、兄弟といえば兄弟だな」
 単純だけど訳がわからない。崇子は困った顔をした。それを見て奏はのんびりと付け足す。
「あ、ごめんごめん。多分、今の答えは君が欲しい答えじゃないよな。まあ俺たちは君の聞きたい概念での「家族」ではないよ。でも血がつながってるのかといえば、どっかでつながってるのは確かだろう。悪いけど俺もあんまり知らないや。でも俺たちは、血のつながったどんな家族よりも、家族だと思ってる」
 蓮ちゃんなら「だから一心同体だってば」というんだろうけどね、と奏は一人つぶやいている。暗くてよくは見えなかったが、笑っているのは疑いようがなかった。義理の家族とか、遠縁みたいなものだと考えればいいのだろうか。
「まあ、兄弟って言うよりは、俺はお父さんみたいなものだけどね」
 奏が楽しげに言う、その頃には、彼らは階段の前にたどり着いている。中庭を囲む形で「ロ」の字形をした校舎の屋上へ向かいながら、一階ずつ一巡りをする計画で、三階が終わったところだった。もうひとつ上が最上階で、その上が屋上だ。
 時間としてはまだ夕刻ではあっても、辺りはもう夕方ともいえない暗さになっている。懐中電灯をつけるべきか、廊下の電気でもつけるべきかな、と思っていたところに、階段を降り、右手の壁に電気のスイッチを見つける。奏は手元を見て、スイッチを見比べてから、言った。
「なあ、ここで電気をつけたとして、やっぱこの階の廊下全体が電気つくわけじゃないよな?」
「ここの一線だけだと思いますよ。曲がったところでまた向こうのスイッチが別にあると思いますけど」
「じゃあここで電気つけて、向こうでもつけたら、ぐるぐる回り続けないとだめかな」
「そんなことはないと思いますよ。だいたいこういうところって、行き当たったところにもここの一線のスイッチがあって、どちらを使ってもつけたり消したりできるはずですから」
「あ、そうなんだ? 俺こういうのってよく分からないからさー」
 奏は、じゃあ電気つけたほうがいいよな、とつぶやきながら、廊下の電灯のスイッチに手を伸ばした。
 けれど、止まってしまう。



 世界は暗く、宵の藍色に満ちているはずなのに突然明るくなって、奏は思わず目を瞬いた。明るい真昼だった。壁を見ていた顔を上げて、首を返し、遠く深遠の方へ向ける。
 身を刺す冬の空気と共に、あたりを苛(さいな)んで、蝕んでいたのは闇であったはずだった。暗くて先の見えない廊下が続いて、ただ単調にガラスの窓と、反対側には教室が並んでいるだけのはずだった。クラスを表示するプレートがあって、前のドアがあって、窓が並んで、後ろのドアがあるその組み合わせの教室が、つらつらとあるはずだった。
 なのに、目に見えるのはやはり、光だ。蛍光灯のような、無機質で白い光ではない。まばゆい太陽の光。
 目前にあるのは木で造られた小さな家だった。昨今ではお目にかかれないくらいに質素で、古くて狭くて、家族が身を寄せ合って暮らす小さな建物の並ぶ、小さな村。建物の中に居たはずなのに、いつの間にか足元は土の地面だった。
 驚愕に目を見開いて、けれどすぐさまそれが去ってしまうと、感じたのは痛ましいまでの懐かしさ。泣きたくなるくらい、切なくて恋しくて、けれどもう、どうすることもできない悲しみ。
 ――そんな馬鹿な。
 ありえない。ここは建物の中のはず。ここは「学校」の中だ。目に映っているこんな場所、もうこの世界中探したって存在しない。
 ――――帰りたい?
 言い聞かせている頭の中に、それを止めるかのような問いかけが響いた。
 でも、これは、違う。目の前のものも、頭に響いた声も。これは、自問自答の声なんかじゃない。自分が自分に、頭の中で問いかけたなんて声じゃない。
 だって、帰りたくても帰れない場所だということを、俺自身が誰よりも知っている。それはもちろん、帰りたいけど。できることなら、帰りたいけど。
 思って、奏は苦笑してしまった。
 ――そんなこと言ってたら、蓮に殺されるな。
 うつむいて、少し笑って、それから彼は手探りで再びスイッチを探した。目を伏せて、のばした手のひらにある冷たい壁の感触をたどる。手が壁をこする音も聞こえなかったが、目に映っていた光景なら、後ろには何も存在してないはずだったのに、手は確実に何かに触れている。
 ――ああ、なるほど。――なるほどね。
 奏は、やれやれとため息をつきながら、手に当たった突起を探った。壁とは違う、どこかやわらかくぬるい感触。それをそのまま少し力を込めて押す。
 カチ、と単調な音がして、同時に彼は目を開けた。
 




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