まがことのは




第八章








 夜が、深く深く、濃くなる。彼のまとう雰囲気が、周りのものに、冬の冷気以外のものを感じさせた。目の前の魔族に酷似している。そして瞳の色が変化していた。黒く美しい夜の色だった瞳は、色素の薄い金色になっている。
 さらには頭上に、長い二本の角――
「お前……」
「鬼……!?」
 魔族と崇子が、同時に声を上げた。
 場の人々の反応など、やはり意にも介さず、蓮は声を荒げて怒鳴る。
「これはただの八つ当たりだ!」
 正々堂々と、そんな理不尽な事を口にして――けれども、やはり奏を踏みにじってここまで来た相手を攻撃するのは蓮にとって正当な事情であり。なんだって別に良かった。イライラするからそれを発散できればいい。
 彼が声を上げた途端、再び少女が後ろに吹き飛ばされた。最初の一撃を受けたのは、攻撃されないものと踏んでいて油断したから。今度は驚きと、攻撃の唐突さに防御する暇がなかった。さらに、本性をさらした蓮の力は、はじめのものより格段に強い。
 壁に叩きつけられ、再び打ちつけた頭から血を流した少女に、蓮は容赦なくさらに力をぶつけた。どん、と大きな音がして、少女の小さな体が壁にめり込んで行く。
「彩香っ!」
 これには美佐子が声を上げる。彼女の声を聴いて、蓮は真正面を向いたまま怒鳴り返した。
「うるさいっ。何もできないんだったら、口をはさむな!」
 情け容赦のない正論に、美佐子は思わず口をつぐんだ。でも――
「何もできなくても、友人の心配をしてもいいでしょう? あの子はわたしの友達だもの。傷つけられたら悲しい」
「だったらその意志の力で助けてやれば。あの中にまだお前のオトモダチの意識は押さえ込まれて眠ってる。目を覚まさせてやれば、あいつも出てくるかもしれないしね」
 皮肉げに冷たく連が言う。奏という緩和剤をなくした蓮の言葉、一つ一つが刺々しく容赦なかった。
「だいたいなんだよ、役立たずが首そろえて、あれを助ける手段がないくせに文句ばっかりさあっ」
 相手がおきあがってくる前に、さらにもう一撃、大きな音がした。壁に亀裂が入り、余波で近くの窓ガラスが割れるほど容赦なく攻撃してから、蓮はようやく顔をその場にいる人間の方へ向ける。当り散らすような矛先は、立ち尽くしたまま黙り込んで、何もしていなかった都雅の方へ向いた。
「そこの魔道士お前もさあ、後から出てきたと思ったら、あっさりやられたかなんだか知らないけど急に倒れたりしてさあ。有名なんじゃないのか」
「……黙れ」
 都雅はようやく顔をあげた。言い返す声に、切りつけるような鋭さが込められている。
「偉そうな口ばかり叩く以外のことができるんだったら、お前こそ何かしてみせたらどうだ。攻撃くらいなら誰だって出来る」
「はあ? それはお前だろ。役に立たないくせに出てくるなって言うんだよ。お前のせいで奏がまた、足止めだとかなんとか言って馬鹿なことして!」
 ――役立たず。
 倒れてしまった都雅の記憶にはなかったが、相手の口ぶりだと、助けてくれなんて頼んでもいないのに、自分から窮地に陥ったどこかの馬鹿がいるらしい。そんなことの責任を押し付けられたところで、知ったことではない。そして付属して言われた言葉も、普段なら見知らぬ相手に言われたところで如何程の意味もなさないものだったが、今の都雅には、害意のある言葉の何もかもが痛手だった。
 ――お前が、いたせいで。
 相手の容赦ない眼差しが、必要のないことを思い出させる。長い髪が、ここにいるはずのない人を脳裏に呼び覚ます。
 時には、彼女が空気か何か、見えないものであるかのように目を素通りさせる。時には、汚いものを見たかのように嫌悪の眼差しだけを向けてくる、時には口汚く罵る、母親の姿。記憶にある彼女はいつも精神的に不安定で――都雅に限ったことだけ不安定で。一貫しているのは、お前などいらない、とそれだけだった。
 殴られるわけでもない。金はあるし、食事を用意するのも、彼女に必要なものを用意するのも別の人間だから、地位ある家の者として対面があるから、すべてが機械的に与えられる。
 けれど、それだけ。
 誰も自分に笑わない。心からの声をかけない。
 一番身近にいる母親とのコミュニケーションすらうまくとれないせいで人との接し方など分からず、それだけでなく都雅自身の情緒がとても不安定になっていた。だから身に持った力のせいだけではなく、その性格のせいで、友達をつくることすらうまくできず……そのうちには、自分から人を避けるようになった。どうせどうにもできないのだから、関わったって仕方がない、と。
 ああ、だけども――
「こっちにまで八つ当たりしてくるんじゃねえよ」
 今は、そんな場合じゃない。あの人はここにいない。
 意気を奮い起こして反撃を口にする都雅を、相手は呪い殺すような目で睨んできた。再び唇を開きかけ、けれどもその顔はすぐに都雅からそらされた。都雅も同じように、彼が見た方へ目を向ける。
 壁に叩きつけられた少女が、身を起こしていた。腕と足がへし折れ、うまく立てずに一度前のめりに床の上に倒れた。その拍子に、頭から流れる血が木の床へ散る。彼女はため息をつくように息を吐き、手をついてもう一度立ち上がる。
 危なげなく起き上がる、そのときには足は元通りに戻っており、彼女はバランスを崩す事もなく二本の足で平然と立っている。ぶらぶらと揺れていた腕も、彼女の意思の通りにきちんと動いているようだった。顔にたれていた血の痕すら消えている。この様子だと頭の傷もふさがっているだろう。一瞬のうちに、すべて癒してしまった。
「わたし自身は痛くも痒くもないが、お前は後悔すべきことをした」
 傷ついたのは、魔族が棲みついている少女の体だけだった。攻撃されたところで、彼女自身が傷つくわけでもない。傷を治したのは、立っていられないのが不便だったからに過ぎなかった。
 突然、蓮の表情が強張った。怒りにつりあがっていた眉が、何かに驚いたかのように開かれる。そして魔族は、もう蓮には見向きもしないで、都雅へと目を向ける。身構える様子もなくただ睨み返している少女へ。
「お前も、そこまで頑固だとは思わなかったよ。絶望にうちのめされている目の前で、あの子供を喰らってやろうと思っていたのにねえ。今度こそ、計画通りにさせておくれ。お前と遊ぶのは楽しいが、最大の楽しみをあまり先延ばしにされると、おもしろくない」
 何かに抗うように都雅が手を上げようとしたが、それはほんのわずか上げられただけで、すぐにもとのように机の上に落ちた。



 状況を理解したというよりは、獣の勘で、尋常でないことが起きているのを感じた菊は、強く美佐子の手を引いた。都雅のそばを離れるのをためらう美佐子を、無理やり教室のさらに後ろの方へと避難させる。無駄な足掻きだろうとも、せずにいられないのだろう。崇子にも、よく分かる。
「鬼頭さん?」
 崇子がすがるように蓮を呼ぶ。
 どうして急に蓮が凍りついてしまったのか、彼女には大体の予想はつく。彼女にも覚えがある。崇子が見たのは、彼女をさげすみ、いつまでも弱いままの彼女にため息をつく人々だったが。――何よりも彼女が恐れ、萎縮する相手だった。奏と見回りをしているとき、魔族と遭遇した時に見た幻だ。
 蓮も都雅も戦えなくなったら、次に襲われるのは残された者たちだ。抗うことのできる自信が、崇子にはない。怯え、そしてそんな考えが先ず浮かぶ自分に心底嫌悪する。だからといって、何もできはしない。
 先刻、蓮を逃がそうとする奏を見たとき、その横を走りぬけたときも自己嫌悪に陥った。居残ると言い張る奏の自殺行為へ、蓮が激怒するのもよく分かったけれど。自分の気持ちとしてではなくとも、たとえば自分の家族や友人がそんなことをしようとしたらきっと怒るだろうという予測ではあっても、その気持ちは分かった。でもその理解は、自分でも嫌に思うほど偽善だった。蓮のために奏を叱ることができなかった。何より彼女があの場から逃げ出したかったのだから。
 そんな考え方ばかりする自分が心底嫌だ。情けない。だけども今だって、鬼だからと蓮に怯えながらも、彼にすがろうとしてしまう。都雅の苛烈な瞳も容赦のない言葉にも怯えながらも、盾にしようとしてしまう。
 絶望的な思いで、そして必死に、彼らが倒れないよう願ったが、それはまるで罰のように、本当にただ単に、彼女の中で空回っただけだった。
 都雅の肩が小刻みに震え始める。彼女の片手が置かれたままだった机が、押し付けられる手の力に耐えかねて軋んだ。まるで都雅自身の、声に出ない悲鳴のかわりように。
 そして蓮の表情が、明らかに変わっていた。いつも尊大に振舞う彼の眼差しが、都雅にさっきまであからさまな害意をぶつけていた大きな瞳が、自信なさげに揺れる。唇が泣き出しそうに震えていた。
 ――お前がいたせいで。
 都雅にぶつけた言葉は、彼自身にとっても刃になって返ってきている。分かっていて口にした言葉だ。自分に向けられるのが恐くて人に向けた刃だ。
「蓮さん……!」
 不安に呼んだ崇子の声など、彼には届かない。彼の意識はもう、別の場所にいた。






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