彼のことを、スプリング・エフェメラルと呼びはじめたのは誰だっただろうか。雑誌の講評か何かで、彼の作風を指して書かれていた気がする。そして彼の活動時期をかけあわせているのだろう。夏の風物詩として語られる歌手がいるように、彼は春にしか絵を発表しない。完全に絵だけで生計をたてることは難しいから、イラストカットのような仕事は時々するけれど、きちんとキャンパスに向かって描いた作品を発表するのは、決まって春のことだ。春に咲き、夏に葉をつけると、あとはずっと地下にもぐっている草花のように息をひそめている。
彼は古くて味のある家屋に住んでいて、私はこの家が好きだった。
「起きてる?」
日曜日の昼過ぎ、スーパーに寄って買って来た食材を手に彼の家に行くと、のっそりとした人が奥から姿を見せた。
寝ぐせでくしゃくしゃの髪型で、とっても背が高いけれど、猫背を丸めて歩く。よれよれのシャツを着て、よれよれのジーンズをはいている。
言葉からイメージするような、優しげな少年とは違って、彼はただの生活力のない大人だ。
彼は絵を描く以外のことは出来ないので、絵を売るために私が個展のお願いをしたり宣伝をしたり、要するにマネージャーのようなことをしている。私はただの会社員で、しがない事務員なのだけど、おかげで残業があまりないので、仕事の後や土日をつかって駆けまわっている。
彼は頭を更にくしゃくしゃとかきまわして、にこりと笑った。
「お帰り」
本当はお帰りじゃないし、私は街に住むOLなのだけど、彼は気にしていない。
「あとで何か作るね。お昼ご飯食べてないでしょ?」
「うん、咲乃が来ると思ってたから」
親に頼りきりの子供みたいで、困った大人だ。
冷蔵庫に買って来たものをしまいこみ、私は彼のアトリエに向かった。アトリエは、居間の隣、縁側の続いた部屋だった。気持のいい風が通り、ささやかな庭が見渡せる。私は日当りのいい縁側とこの暖かな庭が大好きだ。日の光は、部屋の中までは入ってこない。この家の中で絵を描くには最適の場所だった。
アトリエは散らかっていて、たくさんの色であふれていた。机に散らかる画材。真っ白なキャンバスがあり、その横に描きかけの絵もある。
彼は幼いころに両親が離婚し、祖父母の住むこの家にやって来た。私の家は隣りにあって、よく果物やお菓子をもらったりと老夫婦になついていて、この家に出入りしていたから、自然と彼とも親しくなった。身勝手な大人の都合に振り回されながらも、彼は同時に大人の慈しみの手で守られて、のびのびと育てられた。彼の才をおばあさんが愛し、おじいさんが認め、大切に守ってきたのを私は知っている。本当は、彼のマネージャー仕事は、おじいさんがしてきたことだ。
昔から、気がついたら、彼はいつも絵を描いていた気がする。私は彼の描く絵が好きだ。
不思議だった。彼が色を持つと、それがみんな意味を持ち、形を持った。そこにあるものを描いても、実物よりも絵の方がいいもののように思えた。まるで魔法のようだった。作品と作者は別物と言うけれど、制作風景や手順や、タッチには少しでも彼と言う人がにじみ出る気がする。
画家としての彼はいつも花の絵しか描かない。
暗闇の中に咲く一輪の花。その陰影のコントラストがとても好きだ。
春の空の下で咲き乱れるたくさんの花。あふれる幸せや喜びが感じられて好きだ。
そして夜の公園に咲く、桜の花明り。そこに宿る深い悲しみや痛みが、彼の人柄をあらわしているようで、好きだった。春は花のお祭りで、はじまりの季節で、お別れの季節だ。
おばあさんは彼が中学生の時に亡くなってしまったけれど、おじいさんと彼とでずっとこの家で生活していた。おじいさんは、彼が成人式を迎えて数ヵ月後に亡くなった。癌だったと思うけれど、詳しいことは知らない。ただ、大切な孫の晴れ姿を見ることができて、おじいさんはとても幸せだったはずだと思う。
おじいさんがいなくなって、私は必然のようにおじいさんのマネージャー仕事を継いだ。見た目の通り、彼に生活力がないのを知っていたし、私もまた彼の絵が好きだったから。彼が絵を描き続けるのはおじいさんの夢で、私の願いだった。
私はアトリエの、でたらめに置かれた物たちの間を避けて歩き、部屋の奥に飾られていた絵の前に立った。この家に来ると、いつもこの絵を見ずにいられない。特に春のこの季節は。
「この絵は、売らないでね」
彼はひょろりと高い背を丸めるようにして、私の隣に立った。
「咲乃が売れと言っても売らないよ」
夜の公園に咲く、桜の花明り。そこに手をつないで立つふたりの大人とひとりの子供の姿がある。地面に影を落とすひと組の親子のようで、本当は、おじいさんとおばあさんと彼の姿。悲哀の紺と、明るい桜の包み込むような対比、そこに込められた悲しみと、にじみ出る優しさに、慈しみに、見ているとたまらなくなる。
彼の絵には、やわらかな作風の中に、いつも静かに、たくさんの思いが力いっぱい込められている。だからひきつけられる。こんなにも心の奥に入り込んで、胸を苦しくさせる。多くの人が求めてやまず、そして簡単には得られずに苦しんでいるような、そういった深い気持ちにあふれている。
汚れたものもきれいなものも包みこんで、一つにして、優しく見ている、そういった目線を感じる。
ぼんやりしているようで、それが彼なのだ。
「春の
幻想」と人が彼を呼ぶ、その理由がすべてここにある。
「ねえ、咲乃」
絵に見入っている私に、彼はさりげなく言った。
「……うん」
「いつここに越してくるのかな」
私は彼を見た。私は街に住む一人暮らしのしがないOLで、実家はこの家の隣だ。
古い家屋に、風が流れ込んでくる。
彼の後ろで、荒れ放題の庭に咲き乱れる花がゆれる。おじいさんが生前、一生懸命手入れしていた桜の花が揺れ、花びらが部屋に舞い込んでくる。彼の画材やキャンバスに降り注ぐ。桜の絵を撫でて、はらりと落ちた。
そして風はふわりと彼の前髪を揺らす。彼はただ微笑んで私を見ている。
「うん、とりあえず、来週かな」
おじいさんの七回忌だ。
その頃には、もう葉桜だろうか。
終わり