第三章





 飛田の現当主は、先代の長男で名を柳祥りゅうしょうという。体を壊した父の跡目を継いですでに五年たつ。飛田の人は、優美で艶やかな姿をした一族だというが、柳祥はどちらかというと武人らしさがあった。飛田の人間にしては、という程度のことだったので、無骨さなどはまったくなかったが。
 本條を蹴散らし、神宮が撤退した戦場に残った陣営の中、彼は床机に座している。真正面に飛田の当主、その脇にずらりと並ぶ飛田家家臣の容赦ない視線にさらされて、捕らえられ、縛られて紅巴は地面に座らされていた。
「神宮の人間は田舎者で典雅などとは縁がないとはよく聞きますが」
 嘲笑う声が、家臣の誰かから発せられる。誰だって、どうでもいいことだが。その言葉を受けて、飛田の当主は紅巴を見下ろし、楽しげに言った。
「跡継ぎの長男は才に秀でて風雅を好むとも耳にしていた。戦場にまで笛を持ち込むとは、まるで貴族のようだな。これは昔、宮廷にあった名器だとか聞くが」
 紅巴から取り上げた黒い笛を手にして、嘲笑うように唇を吊り上げる。紅巴は地面に膝をついたまま顔を上げ、挑発のような言葉に対し、穏やかに笑う。
「他に才もないので」
 清閑な紅巴に対し、柳祥は唇をゆがめて、ふん、と鼻を鳴らした。
「何を言うか。ものの見事に神宮の軍が逃げられたのは、おぬしの指示だろう。なかなか見事だったぞ、あれをやられて、それでも軍を逃がしきるなど、侮った。結局本條の馬鹿息子にも逃げられたしな」
 あれ、とは弓での攻撃のことか。少しも悪びれずに言う飛田の当主に、紅巴はただ、静かに息を吐く。苛立っても仕方がない。これは戦で相手は飛田家なのだ。何より、終わったことだ。
 飛田の当主が言う通り、本條が攻撃に出た後、こちらが動くのを待ち構えていたような飛田の攻撃を撒くことができたのは、やはり紅巴の早い判断のおかげだっただろう。本條の当主が命からがら逃げ切り、完全に無事とはいい難かったが、神宮は大部分を温存して帰国している。これでは、痛みわけで戦が終わったようなものだった。
 それが何よりもおもしろくないのは、飛田の当主のはずだ。だが彼は笑みすら含んだ声で続けた。
「戦に勝ったとも言えん状況だが、思いがけない獲物が手に入った。神宮のご長男は侮れぬやつだが、体が弱いそうだから、無茶な脱走はしないだろう。ここに捕らえて来ていたのが次男だったら、迷わず殺していたところだがな。利用価値がある間は生かしておいてやるから、自害したりするなよ」
「確証などありませんよ、兄上」
 紅巴が何を言うよりも前に、かわりのように応えたのは紅巴の後ろに立つ柳雅だった。
「ここまで引っ立ててくるのも一苦労だったのですよ。刀を突きつければ、自分から飛び込んで来かねませんでしたし」
「殺してほしくて無茶な脱走もしかねんか。さすがに自分の置かれた状況がよくわかっているらしい」
 弟の言葉に、飛田の当主は唇を片方吊り上げて笑った。静かな表情で見上げる紅巴に、おもしろがるような声で告げる。
「どうせ死にたがるなら、一息で死ねる方法を選べ。中途半端にしようものなら、生殺しのまま生かしておいてやる」
 おもしろがるような声。それは常に泰然と構える神宮の当主と同じような姿勢ではあるのに、まったく方向が違った。相手を見下し嘲笑う冷淡な声と、からかうような、でも温かみのある冗談交じりの声音と。
 どちらにせよ、本気に聞こえなくとも、本気で言っているのに変わりないだろう。
「白蛇に連れて行く。東で随一、美しい国だ。光栄に思え」
 それは、飛田もまた撤退するのだとの言葉だった。



 飛田の居城は、本拠地白蛇はくじゃにある。白蛇は碁盤の目に整えられた白壁の町で、東随一と言われる家の本拠だけあって人の行き交いも多い。だが活気にあふれた神宮の桜花とは違い、城も町もどこか静謐だった。
 雅やかで白い天守での夏は、紅巴にとって桜花よりもむしろ過ごしやすいくらいだった。桜花よりも北東に位置する飛田の城ではあっても、もちろん変わらず暑いが、そこに住まう人々が涼やかなのも手伝って、厳しい暑さというものとは無縁のようだった。
 押し込められた――というよりは、ただ単に割り当てられた、という形容がふさわしいような、思ったよりも待遇のいい処置で、紅巴は一室に籠められている。
 時々人の目は感じるものの、姿が見える場所に監視が張り付いているわけではない。甘いと言っていいくらいのものだったが、一概にそうとも言えなかった。姿の見える監視は、見張られる側への抑制にはなるが、脱走などしようと思ったら標的が絞られてしまう。自由にさせているように見せて、実際はまったくそうではない、という状況をこうやって相手に時々思い出させることのほうが、精神的な抑圧にはなるだろう。
 それでもはじめは、飛田の軍が白蛇に戻ってくるまでの間、紅巴が何度か日差しの暑さにやられて倒れかけたのもあったから、逃亡の危険が少ないと判断したためのことだったのかもしれない。白蛇に来てもうひと月は経とうかという近頃になって、徐々に監視の目が強くなってきていたが、それだって申し訳程度のようにしか思えなかった。
 もっと、底意地の悪い意図ばかりを感じる。ただ確実に言えるのは、逃亡を阻止するためというよりは、紅巴が自害するのを防ぐために、道具になりそうなものは片端から遠ざけられていることだ。
 飛田の当主の行動も、解せないものばかりだった。飛田の当主は、おもしろがって何かと紅巴を臣下の前に連れ出しては、機密をもらすつもりなのかと臣をはらはらさせるような事を言い、動揺しない紅巴を見て楽しんでいるようだった。
「神宮の次のご当主はどう思う」
 と、嘲笑う声でよく問いかけてくる。治世において、紅巴の意見を聞いてくるのだ。すらすらと、最善の策を答える紅巴をおもしろがっている。たまには食事も共にする。
 危険だと言う声に耳を貸さず、紅巴を連れまわす。それは、神宮の人間を手の内に入れたのだと、自分の力を見せびらかそうとしているようでもあり、同時にこれだけのものを紅巴に見せるのは、今はどうあれ彼を生かしておく気がないのだと、紅巴自身に思い知らせようとしているようでもあった。
 この人は、自虐的なところがある、と思う。常に親族に命を狙われる立場に座り続けるには、そうでなければ意識を保てないのかもしれない。普通ならば。
 昨日もたわむれに、何でもないことで当主に呼び出され、笛をふいてみせろと言われた。飛田の家臣たちの嘲笑の眼差しにさらされながら、さらし者のように扱われるのは、普通なら例えようもない屈辱だと、思うものだろう。
 そして柳祥は、やることなどない捕虜のところに来ては、気まぐれに書物などを置いていく。それが迷惑なわけでもないので、ありがたくもらってはいるが。
 数少ない調度のうち、文机に向かってその書物を読んでいた紅巴は、ふいに目線を感じて顔を上げる。あからさまな気配は、見張りのものとはまったく違っている。そして顔を上げて、紅巴は自然と笑みをこぼした。
 ――白蛇に来てから、何度か同じように人の目を感じることがあった。その度に何事かと警戒して目を向ければ、今日と同じように、庭に面した廊下のところ、開け放たれた障子脇から部屋を覗き込んでいる小さな顔がある。
 紅巴のいる部屋が面する庭では、夏椿の白い花が、乱れるように、そのくせ清楚に咲いていた。そこにいたのは、背景にしているその花の与える印象が、まさによく似合う少女だった。流麗な黒い髪に黒い瞳は、すぐに飛田の血筋を連想させる。着ているものが明らかに質のいいものだから、多分間違いはないだろう。飛田の当主に、娘や妹がいるという話は聞いたことがなかったが。
 いつも相手は、目が合うと素直にびっくりしていた。気づかれるとは思わなかった、というように。よほど驚くのか、怖いのか、声をかけようと口を開いた時にはもう、いつも足音は遠くに逃げてしまっている。
 今日も紅巴と目が合うと、少女は大きな目をさらに大きく見開いた。微笑みかけると、さらに驚いた様子で、大急ぎで首を引っ込めてしまう。
 その驚き方が素直で可愛らしくて、くすくすと笑みがもれた。また逃げられてしまったかなと思うと、少し残念だった。けれども、廊下を駆けていくような足音は聞こえない。
 不思議に思って、顔が覗きこんでいたあたりを見ても、もう姿は見えなかった。近づいていったら、今度こそ驚かせて、飛んで逃げていってしまうだろうか?
 少し迷ってから、紅巴は廊下の方へ、そっと声をかけた。
「姫君?」
 反応は返らない。けれど逃げていく様子もない。一呼吸、二呼吸待つと、好奇心に負けたらしく、少女は再び顔を覗かせた。大人びた顔立ちが、おぼつかない表情のせいで幼く見えた。流紅と同じ年頃かと思ったが、実際にはもう少し幼いのかもしれない。
「神宮の紅巴さま?」
 思い切ったように言う少女に、微笑みながら応える。
「そうだよ」
「昨晩、笛をふいてらっしゃったのは、紅巴さま?」
「うるさかったかな? 今度から気をつけるよ」
「違うわ、とっても素晴らしかったから、どんな人か見に来たの」
「それはどうもありがとう」
 素直に礼を言うと、少女は戸惑った様子を見せる。それが可愛らしくて、部屋を覗き込む彼女に合わせるように首を傾けて、問いかけた。
「それで、どうだった?」
「ずっと聞いてたのと全然違ったわ。神宮の人は野蛮で、飛田の人を見ると噛みついてくるって」
「噛みつくか、それはいい」
 本当にそんなことを信じていたようだった少女も、言われていた自分たちもおかしくて、笑い声がもれた。
「どうやら、印象ばかり先立って、お互いに理解が足りないみたいだな。ぼくも飛田の人は冷たい人間ばかりだと思っていたけど、姫はそうじゃないみたいだ」
 一瞬嬉しそうな顔をして、けれども彼女はようやく障子の陰から出てくると、腕を組んで憤慨して見せた。
「わたくしだって、飛田の人間です。油断すると、怖いんだから。今は生かしておいてあげているけど、わたしたちは神宮の人が大嫌いだから、無礼なことしたら、すぐお手打ちなんだから」
「ぼくは、それでも構わないよ」
 静かな言葉に驚いた顔をして、それからまた彼女は、自分が言った事ながらも頬を膨らませて怒った。
「どうしてそんなこと言うのよ」
 紅巴は、ただ微笑んでいる。彼が何も応えないのを見て取ると、少女はさらに不機嫌になってしまった。可愛らしい瞳で紅巴を睨みつけ、唇をゆがめている。
 それでも相手が何も言わないので、彼女は怒るのをやめたようだった。そんな表情を作っているのに疲れたのかもしれない。
 ますます首を傾けて、窺うように紅巴を見ると、まったく違うことを尋ねてきた。
「ねえ、桜花ってどんなところ?」
 子どもらしい素直な感情表現に、紅巴は笑みを深めて応えた。
「きれいなところだよ」
「白蛇よりもきれい?」
「こことはちょっと違うかな。桜花はもうちょっとごちゃごちゃしてる」
「それでもきれいなの? 変なの」
 少し不服そうな言葉に、なるほど、そうかもしれない、と思った。白蛇を見れば、もしこの少女がこの町しか知らないのであれば、そう思うのも当然だろう。
「桜の季節が一番きれいだよ」
「知ってるわ。聞いたことある」
 顔を輝かせて、少女が嬉しそうに言った。次に、出てくるのは、「どれくらいきれい」だろうか「冬の白蛇のほうがきれいよ」だろうかと、次々に出てくる少女の言葉を想像していると、彼女はぷっつりと黙り込んでしまった。どうしたのかと思うと、彼女は紅巴からは死角になる、廊下の先を見ていた。
「桜花の桜か」
 言葉とともに姿を見せたのは、すらりとした少年だった。
「残念ながら神宮のご長男は、桜花の桜どころか、白蛇の雪すらおがめまいよ」
 声は美声だと言えたが、含まれた響きは決して人にいい気持ちを与えない。
 確か飛田の先代には、男ばかりの兄弟が五人いたはずだ。相手に与える、決して心地いいとは言えない印象ですら愉しんでいるとしか思えない彼は、十八になる四男だった。長男は三十を目前にした現当主で、次男と三男はすでにこの世にない。あとは、十五歳の五男がいるのみだ。
 柳雅の、美貌の一族と謳われる飛田家の血を確かに引いているのが分かるその姿は、雅やかだったが、たおやかでは決してなかった。しっかりした芯というべきか、何か揺るがないものがしっかりとその心にも体にも通っているような人だった。艶やかだったが、赤い唇に刻まれた笑みに優美さはない。
 全身を巡る血と同じように、何か氷のような冴えたものを、身の内に宿らせているように見えた。尊芳は紅巴のことを涼しげだと言ったが、それなら彼は、どんな環境におかれても、冷たい風を纏う。
「騒がしいと思ったら、百合か」
 柳雅は、障子戸にしがみつくようにしている少女を見ながら近づくと、鮮やかな唇に笑みを浮かべた。そうすると、戦の折に紅巴につけられて左頬に残った刀傷がわずかに弧を描く。普通ならば美貌を損なうことにしかならないきずは、しかしながら彼の表情にあって、ただ凄みを増すだけだった。内から溢れ出る気配には、そのようなものはむしろ飾りにしかならないのかもしれない。
 揶揄するような口調で、彼は続けた。
「これはまだ子どもだが、飛田の当主の妻になるべくして生まれた女だ。あまりちょっかいを出すな」
 言われた言葉には、紅巴よりも百合の方が反応した。びくりと肩を震わせて、窺うように柳雅を見る。それからくるりと背を向けると、小袖の裾をからげて逃げていってしまった。
 少し残念に思いながらその後姿を見送って、紅巴は柳雅につぶやく。
「飛田の血筋の姫じゃないのか」
「俺の父の弟の娘。当主の従妹だ」
「それで、当主の嫁になるのか」
 驚いて紅巴が言うと、柳雅は低く笑った。
「お互いの立場を守るためだ。より近しい血の者は、飛田の人間にとっては何より敵だが、女の場合は話が別だな。仲立ちにして強い権力を得ることができる。同時に、血族を増やさないようにという考えもあるようだな。同族争いを減らそうというつもりらしいが」
 考え方の暗さに、紅巴は少し眉をひそめる。飛田は同族殺しの家系、とは聞いていたことだが、ここまで思考が泥沼だとは思わなかった。
 そんな彼を、柳雅もまた嘲るように見ながら続けた。
「あれは、男として生まれていればもう生きていなかったかもしれない立場にあるが、女で幸いだったな。生まれたときから当主の妻になるのが決められていたから、もうずっと白蛇で生活している。来年には、正式に嫁ぐのではないか。――当主になる人間が誰であろうと関係なく、な。取り入っておけば役に立つかもしれないな。それまでにお前が生きていられるとは思わないが」
 口調にも言葉の内容も、紅巴には不愉快だった。自分が生きていられることがないのなど、改めて言われるまでもないことだが。そんなことで今更腹などたてないが、先程の少女へ向かっての態度、誰もを侮ったような口調は、嫌悪感を呼びさます。
 よく知らない人間に対して、紅巴がそんなに極端な感情を抱くのは珍しいことだったが。
「用がないなら、放っておいてくれないか」
「捕虜の分際で、大きな口をきく」
 彼は時々紅巴のところに来ては、紅巴を不快にするだけして、おもしろがって帰っていくことがある。
流紅が無事に戻った知らせを持ってきたのも、柳雅だった。
 くつくつと喉の奥で笑いながら、柳雅が言う。
「用ならある。いつもいつもお前をからかって遊んでいられるほど俺も暇ではないのでな。お前に会わせる者がある。さっさと立ってついて来い」
 ――またか、と。
 気鬱な思いが、心の中に満ちていく。じめじめとした湿り気のように、重くまとわりつくようにある、恐怖のような苛立ちだった。同時に寂寥が介在して、他にも混ざってくる思いに、気分が悪くなる。
 言われるまま立ち上がると、紅巴が来るのを待っていた柳雅は、無駄のない動作でくるりと踵を返した。すらりとした後姿をさらして、歩き出す。



 連れて行かれたのは、白蛇の城の一角だった。城の角にあたる部分に設けられた、小さな中庭に面した部屋。しかしながら、部屋そのものに連れて行かれたわけではなく、用があるのはその庭の方だった。
 たどり着いた場所で先ず目に入るのは、燃えるような百日紅の花だ。紅色の花が咲き誇って、その鮮やかさは晴天によく映えた。その中で、控えめな色の、夾竹桃の大降りな花が艶やかだった。毒があるからと、庭木にするのを嫌われるこの花をわざわざ城内に植える飛田家は、やはりたいそう天邪鬼だ。
 緑の葉が陽光を返してきらめき、目に眩しい極彩色の彩りに囲まれた小さな庭には、武装した兵が数人、そこに面する回廊から庭に下りるきざはしの脇にも、槍を手にした兵が立っている。
 そしてその庭の中、くっきりとした真昼の明かりの下で、まるで暴きだされた何かのように、黒い衣服を纏い、暗い空気を纏って座らされている人間がいた。座っている、というよりは、うずくまっている、という方が正しいだろう。その顔は異様な形に腫れあがり、元の顔かたちも判別できないほどだった。全身が傷だらけで、腕も指も異様な方向に折れ曲がっている。一目見て、致命傷がないのは分かったが。
 白昼、美しい花に囲まれた庭の中、陽光の下で見るにはあまりにも唐突な姿だ。
「昨夜、城に侵入してきていたところを捕まえた。先程までは牢にいたのだが、薄暗いところではよく見えぬだろうと思って、こちらに連れて来させたところだ」
 特に紅巴に聞かせるという風でもなく、柳雅が言った。紅巴は回廊に立ち尽くし、庭土の上にある黒い影に目を囚われている。鮮やかな赤い色と、黒くなってこびりついたどす黒い赤い色が、ますます暗い空気を生んでいた。
「残念ながら、白蛇の城は複雑な造りになっていてな。城を造らせた昔の当主は懐疑心の塊で、招かれざる客のために、あちこちに抜け道と仕掛けを用意した。下手に忍び込もうとしても、痛い目にあうだけだ」
 傲慢な美声は歌うようだった。けれども弾むような声音ではない。我が城のことを自慢するようでもない、そんな子どもっぽい楽しみはこの声にはない。相手を追い詰めるのが楽しくてしかたないというようだった。常に上に立ち、打ちのめされた相手を思って、嘲笑っているだけだ。
 顔を前に向けて、同じものを見ているというのに、柳雅の白面は変わらず涼やかだ。目の前にある残酷な結果を招く命令でさえ、彼はそんな表情で凄艶な唇から落としたに違いない。
「どこの人間だと思う?」
 その口調で、答えなど知れていた。――彼がそれを言い出すまでもなく、知れていたことだが。
 紅巴も、内心の苦渋を表に漏らすことなく、静かに言葉を返す。
「……そんなことを、いちいち忍がもらすわけがない」
「その通りだ。そして飛田家は、外に恨みを多く買っている。いちいち気に留めてもいられない程にな。どこのどいつが馬鹿な真似をしようが、構っていられるものじゃない。あてが多すぎるが、こいつは神宮の人間だ」
 最後の言葉に、わかっていたことでも、心臓が跳ねた。それでも、返す声は揺れない。ただ静かに、嘲笑を跳ね返す。
「何を根拠に」
「自分で吐いた」
 ――忍が、吐くはずがない、と言った言葉に同意した、その同じ口で柳雅はそう答えた。涼やかな眼差しを紅巴の方に呉れて、続けた。
「お前の弟は、お前とは違って無事に桜花へ戻ったそうだし、今度の観桜宴で、今度こそ次男が跡目を継ぐのだろうと噂されている。実際ならそうでなければならないところだが。さすが情に厚い神宮家だ。まだ見捨てられていなくて、良かったではないか。おかげでお前も飛田でのんびりと生きていられる」
「どういう根拠だ。もし神宮の人間だとしても、あれが何をしにきたと吐いたのか」
「こいつは何の情報も手に入れていない。城の見取り図も、武器庫の中身の情報も、兵糧の情報も持っていない。もし、頭に入れて帰るつもりだとしても、東随一の飛田家の情報を、そんなに単純なものだと考えられるのも癪だ。そも、ありえない。それなら、一体何をしに来た?」
「あれがわたしを助けるための手段なわけがない。何度も失敗する手ばかり使って、本当に助け出そうとしてるのかすら怪しいじゃないか」
 その刹那、庭土の上に座り込み黙っていた男が、唐突に顔を上げた。
「若君、決してそのような――」
 搾り出された声は掠れていた。喉が鳴って聞き取りにくかった。そんな必死の声にも、彼に刀を突きつけていた兵が、容赦なく忍を蹴倒す。小さくうめき声が聞こえた。痛々しい光景に、それでも紅巴は静かに、ゆっくりと言葉を落とした。動揺など、しない。
「外聞のために、助けようとしたが失敗した、という体裁がほしいだけに決まっている。邪魔で軟弱なわたしを殺しに来たのでないとも限らない」
 自分の吐く言葉が、まったくの嘘であるのがよくわかっていながら紅巴は言い返した。
 ――実際に、殺しに来たのであれば良かったのに。
 しかしながら柳雅は、紅巴の言葉などまるで聴いていないかのように、歩き出した。階を降り、裸足のまま庭土の上を渡って、刀を突きつけられて座っている男の前に立った。
「あんなことを言っている。お前の苦労も報われないな」
 わざと哀れっぽい声を出して、相手の肩を踏みつける。うめき声など気にも留めず、忍を見下ろしたまま紅巴に向かって言う。
「忍が自分の出自を漏らすなど、おかしな話だ。それはつまり、自分の身を明らかにして何かを言いたいからだろう。神宮はまだ、お前を見捨てていないと。先程のわざとらしい言葉を聞いたか」
「他国の仕業かもしれない。そうやって神宮が未練がっていると思わせて、飛田が神宮を舐めきって失敗するように仕向けて」
「有り得ないことではないな。他国の企みを、わざわざ飛田家に教えてくれるとは、神宮の次期当主は噂に違わずお優しい」
 くつくつと漏らした柳雅の笑いが、声の入った耳から頭へまとわりつくようだった。蛇がその粘質な体ではいずりまわるかのように、相手を締め付け、畏怖を与えるように、思考そのものを絡めとる。――不快だった。
 彼の笑いは、紅巴の矛盾を暴いている。それを示して嘲笑っている。忍を庇うということは、迎えを否定するということは、紅巴自身も認めていることの証明に他ならない。
「これで何度目だ? 神宮の忍が捕まるのは」
「三度目だろう」
 観念して答える。表立って認めたりなどはしないが。
「残念、実に五度目だ。お前が知らないだけで。その手引きで、お前が逃げようとしたのがすでに二度。さして体も強くないくせに、よくやる」
「望みがあるのに、それを捨てるほど愚かじゃない」
「なるほど、認識を改める必要があるか?」
 ――だがもう、これほど時間が経ち、これほどまで回数を重ねてしまっては、無駄なことだ。それに客観的に見た自分の命の価値は、さほど高くないと、紅巴は分かっていた。
 ただの血膿だ、ぼくなどは。切り取って、捨ててくれればいいのに。
 長子ではあっても側室の子で、家臣たちにですら跡目を継がせることを不安に思われるような人間は。国内では紅巴よりも流紅を推す声が多く、実質他国には流紅の方がよく名を知られている。もし紅巴が跡を継いだりしたら、他国へ与える印象もあまり良くないだろうことも、わかっている。だから神宮の嫡男とは言え、紅巴の価値はさほど高くないと、思う。
 いくら少しばかり知恵が回ったとしても、走り続けられる足がなければ、戦闘に耐えうる体力がなければ、意味がない。あの時、兵の大半が飛田の軍を突破して、尊芳の連れた軍と合流できたというのに、紅巴を守っていた人間ばかりが、辿り着けなかった。
 意志の力だけで進めるものならと、思う。それならとっくに神宮に帰っていた。なのに、慣れない土地と夏の茹だるような暑さにやられた体では、ここから逃げ出すことすら出来ない。この土地に留まれば、そして生き続けてしまえば、神宮にとっての痛みどころか、膿んでその傷口が治るのを妨げるような、ただの障害でしかない。
 ――しかしながらそれでも、神宮の長子である事実には変わりない。それは飛田から見ても神宮から見ても他国から見ても。
 今のままならその事実だけでも、神宮は飛田の行動におびえなくてはならなくなる。そして今現在神宮は、一体紅巴の命と引き換えに何を要求してくるのかと、固唾を呑んでいるだろう。今のところ飛田は、神宮に何も要求していないという。それが不気味で、さらに身動きがとれなくなる。
 例え何の要求が来なくてもその状態だ。実際に何かを言われたとき、神宮はどうするだろう。そして飛田は、何を要求するだろう?
 それとも、ここまで何の動きを見せない様子を見ると、彼らは神宮と取引がしたいわけではないのかもしれない。
 例えば、近いうちに飛田家は本條を下すだろう。そのうちに、石川も飲み込むか、もしくは石川が飛田につくかしてしまえば、その領地は神宮に隣接する。そうすれば、神宮と戦になるのは必然だ。
 そのとき、神宮に対する脅し、もしくは戦意を削ぐための手段として、紅巴を罪人のように杭に括り付けでもして、飛田の陣の前に掲げることくらいしかねない。――あの、戦のときの弓を使った戦略などを見る限り、彼らはそういうことをしかねない。
 さすがにそれを目にして、家の者たちがためらいなく攻撃に出られるかどうか、それはどちらかといえば「多分、無理だ」と答えるしかない。
「いい加減、こいつらの相手をするのに飽いた。神宮の凡俗に城を踏み荒らされるのには我慢がならない。清廉な白蛇の城を、鄙の血が汚すなど。どうすれば、あきらめると思う?」
 わざわざ忍の横にかがみこみ、優しげともとれる声音で柳雅は言う。
 飛田家にとって、神宮が紅巴をあきらめるのは歓迎できることではないはずだ。なのに、柳雅はそんなことを言う。――別に、それならそれで殺してしまえばいいと思っているのかもしれないが。
 そして飛田が紅巴をまるで客人のように部屋に迎え入れ、一見、監視がゆるいようにみせていたのは、こうして神宮からの人間をからかい、絡めとるためだけのようにも思えた。逃亡しようとして、失敗した紅巴を引きずり戻すのを、おもしろがっているのだ、ただ単に。少し希望を見せて、それを丁寧に叩き潰して遊んでいる。
 それらは多分、飛田の当主の考えではなく、柳雅自身の考えだろうと思った。なんとなく、ここでこうして忍を拷問しているのも、この場所に紅巴を連れてきたのも、飛田の当主ではなく柳雅の独断だろうという気がしていた。
 飛田は同族殺しの家系だという。それなら柳祥は、弟を警戒しているだろう。彼は弟のこの所業を快く思わないだろう。決して、飛田家として間違いである行動とはいえないが。
「ここでお前の腕を切り落として、かわりに若君の腕を持ち帰らせてやろうか」
 囁くその声を耳にしたとき、紅巴は床を蹴っていた。――手が、差し伸べ続けられるのなら。
 こちらから切り離すしかない。
 裸足のままで、回廊を飛び降りる。階の横に立っていた兵の真横に着地した。驚いて反応が遅れた相手の隙をついて、紅巴は兵の腰に挿された刀の柄を握る。
 意図に気がつき、慌てた兵が槍を持つのとは反対の手で紅巴を振り払う前に、紅巴の手は刀を鞘から抜き放っていた。
 柳雅の方への振り向きざま、刀を一閃させる。切っ先はあやまたず、兵の喉笛を切り裂いていた。血が吹きだすのを見る間もなく、紅巴は再び地面を蹴っている。
 両手で刀を脇に構え、走る。大した距離ではない。小さな庭の、二、三歩走った先。唐突な紅巴の行動に立ち上がり、けれど顔色さえ変えない柳雅がいる。
「若っ」
 神宮の忍が叫ぶ、もう声にもならないような音を聞いた。驚き咎めている声だ。信じられない、と。そんなものは聞き流す。
 紅巴は駆けつけた勢いのまま柳雅に向かって斬りつけた。振りかぶりはしない、そのまま薙ぎ払って!
 堅い金属がぶつかる音がした。渾身の力で振り上げた刀が止められている。忍の脇に立って刀をつきつけていた兵が、その刀で紅巴の振るった刀を受け止めた音だ。紅巴はすぐさま刀を引いて、再び繰り出そうとした。駆けつけてきていた別の兵が、後ろから彼の頭を殴りつけた。
 鈍痛に、視界が黒く消える。頭の中に響く痛みさえなければ、夏の日差しに立ち眩んだのかと思う眩暈に、足がふらついた。一瞬、本当に気を失ったのかもしれなかった。
 再び体中を衝撃が襲って、気がついたときには視界が横倒れになっていた。頬の下が暑い。目の前に黒いものが見える。それから遠くに緑。地面に倒され、はいつくばっているのだとすぐに気がついた。目の前にあるのは黒い庭土。暑いのは、日に焼かれた庭土の上にいるからだ。
「お優しい穏やかな顔をして、兵を殺すにためらわないか。いい度胸じゃないか」
 上から、声が降ってくる。手を後手にねじり上げられ、背中を押さえつけられ、起き上がることも振り返ることも出来ないが、紛れもなく柳雅の声だ。
「この図は、どこかで見たことがあるな」
 ――それはもう、遠い昔のように感じた。
 状況は今とはまるで違った、喧騒と踏み荒らされた大地と血の色と、人々の荒々しい興奮に満ちた場所でのことだった。暗い夜のことだった。――いいや、同じだ。血の色だけは。たおやかで雅やかな白蛇の城は、血の臭いに満ちている。
「この死にたがりが。せっかく刀を奪ったのだから、俺にではなく自分に刃を向ければ良いものを。殺されるためにそんなことをするより、自刃の方が早いだろうが」
「あわよくば、あなたの命も取られればと思ったので」
「陳腐なことわざだが、二兎を追う者一兎をも得ずというがな」
「一石二鳥と言うだろう」
 押さえつけられたままなのに、動揺のない声で応える紅巴に、柳雅は楽しげに笑う。
「嫌われたものだな」
 横から、紅巴の顔を覗き込む。その顔は――嬉しそうでも、あった。雅やかな楽を耳にして愉しむような、美しい草花を観賞して喜ぶような表情だ。
「もっと助けにすがりつけば、可愛げがあるものを。卑屈だな」
「昔から、なかなか直らなくてね」
 応えて、紅巴は見下ろす黒い瞳を睨むように見返しながら言う。
「あなたは、随分と陰湿だ」
 今の紅巴を流紅が見れば、驚いただろう。滅多になく相手を挑発するような態度をとる紅巴だったが、そんなことが柳雅に分かるわけがない。分かっていたとして、だから彼にとって何の意味を持つものでもないが。
 飛田の兵が幾人かそこにいたと言っても、自分の命を狙われたことに変わりない。目の前に刀が振りかざされた事実は変わらない。それなのに、この泰然さはどうだ。
「昔からだ」
 怒っても当然だったが、柳雅は、くっ、と唇を吊り上げて、笑った。紅巴を覗き込んでいた顔を離して、身を起こした。
 そうして、続ける。
「どうやら、お前は相当懲りない性格と見える。飛田当主の弟の命を狙ったなどと、本来なら斬首ですまんところだが、残念ながらまだ兄上はお前を生かしておくつもりのようだし、多少痛い目を見る程度ですませてやる。言ったように斬りおとしてやってもいいが、軟弱な神宮の御仁に、それがもとで命を落とされてもつまらん」
 いちいちこれからどうするかを声に出して、説明してみせるのは、相手の恐怖を煽るためだけだろう。斬首にかわる残忍な刑は、さてどうしようか、と悩んで見せるのは。そうして彼は言う。
 ――さて、足か腕かどちらがいい。
 問いかけとも自問ともとれる声は、梅か桜かどちらが好きだ、と問いかけているかのように、残忍さの欠片もない。
 けれども、冗談を言っている、とは思わなかった。
 やがてくすくすと笑い声が降ってくる。
「兄上はお前の笛が気に入りだったから、腕はやめておいてやろう。これで、唯一の才を失うのでは、お前も口惜しいだろうしな」
 脹脛ふくらはぎのあたりに、何かが当てられるのを感じた。紅巴は、ただ歯を噛み締めた。再び神宮の忍が彼を呼ばわる声が聞こえる。怒ったような声は、先程殴られた頭のせいか、流紅の声に聞こえた。
 ――いいんだ、流紅。これがぼくの戦い方だ。
 思ったとき、あっさりとした、あまりにも簡単な音がした。何かが折れる音。瞬間、全身が冷たくなったかと思うほどに血の気が引いて、次の間には体中から汗が噴き出した。右の足。そこから得体の知れないものが、這い上がってくるかのようだ。他の感覚すべてが消えうせたように、そこだけがただ存在を主張してくる。
 噛み潰すかというほどに歯を食いしばる。それでも、うめき声がもれた。噛み締めた歯の奥で、息をするのも忘れて、気が遠くなった。霞がかかったような思考の中、柳雅のひどく優しげな声が忍び込んでくる。
「これで当分、逃亡など考えまい。牢にでも押し込んでおけ。しばらく反省していただこうじゃないか」
 これが、きちんと神宮に伝われば良いけれど。
 腕を掴んで引き摺り起こされるのを感じながら、紅巴は遠くなる意識の中で思っていた。



 神宮当主の側室である桔梗の方が住まわっているのは、当主がいる建物とは別棟だった。そもそも城主は天守には寝起きしない。日中はそこで政務をこなし、その奥に続く、寝起きのための建物で一日を終える。そこからさらに渡殿わたどのでつながった小さな建物に、側室と紅巴が寝起きしていた。更に、紅巴の妻が存命の頃には、その姫も一緒に。今は側室の桔梗の方のみがそこに生活していた。
 そこへつながる渡殿に端居して、神宮の当主は手酌で星見酒を飲んでいた。身軽い足音を聞いて、ぼんやり前を見ていた顔を振り向ける。
「おう」
 来たか、と声をかける父に、仏頂面で歩いてきた流紅は、隣りまで歩いてくると、不機嫌さそのままに大きな音をたてて座った。
「いい加減、教えてくれるんでしょうね?」
「だから呼んだんだろうが」
 盃を横に置いて、神宮の当主はため息をついた。ため息は好きではない、余計に気が重くなるから。周りの人間に不安を与えるから、そういった態度はとるなと、今は亡き先代に言われ続けてきたからかもしれなかった。常に自信を持て、不安を表に出すな、不機嫌になるな、と。
「それなら、昼のあれは、一体なんだったんです」
 苛立ちを隠しもせずに言う流紅に、それにしては、自分自身も目の前の子どもも、随分気ままに育ったものだ、と幾分か感慨深く彼は思っていた。彼に口酸っぱく言っていた先代も、彼から見れば随分と奔放な人だった。神宮の人間はすぐ表に感情が出るし、堪え性がない。そもそも領主などには向かないのかもしれないなあと、今更思う。戦国の世に必要な腹芸が出来ないから、今の神宮はこんなに追い詰められた場に立たされているのだろうか。
 そう考えれば、紅巴などは多分、良い領主になっただろうと思う。あれは、自分がしたいことや嫌なことなどを表に出さず、常に神宮にとって良いように、流紅にとって良いように、と文句を言わない子どもだった。昔から。
「白蛇に行かせてあった忍だ。また失敗して戻ってきた」
「それは、分かってる。それで、どうしていつもより皆が慌ててたのかを、教えてくれる気になったんでしょう?」
 紅巴を助けるために幾度も神宮の者を白蛇に送ったが、芳しい報告が返ってくることなどなく、ただ刻々と時間が過ぎていた。あるのは、誰が捕らえられた、誰が失敗した、という報告ばかりだ。城への潜入に成功して、その後で失敗などしたら当然命はない。ここまでうまくいったが結局紅巴は捕まって連れ戻された、等という報告は、潜入した本人が持ってくるものではない。白蛇城への潜入に成功した人間で帰ってきた者などいない。外で待ち構えていた人間が、城に出入りする人間や兵などから顛末を聞き調べて、持って返ってくる。そのたびに、冷や冷やとしながら知らせを聞いていたのだが。
 それが今日になって、城内にまで潜入した人間が、初めて桜花へ戻ってきた。明らかな拷問の後が窺える姿で、しかも両手と右足の骨を折られて一人では歩けないような状態だった。白蛇へ潜んでいた別の者に支えられて、なんとか桜花へたどり着いたのは、彼らがそれだけの訓練をしてきた人間だからだ。
 むごたらしい姿は、普通の人間なら意識を保っているどころか、生きていられるものかも分からないほどだった。その彼はようやく休養を許されて、神宮当主の労いの言葉を戴き、城内で体を休めている。
 これを流紅に見せるわけにはいかない、とわざと遠ざけ、彼が持ってきた知らせですら教えてなかったのだが。
 神宮の当主自身、腹を決めたからには流紅に言っておく必要がある。
「城へ潜入することは出来たが、紅巴に接触する前に捕らえられたそうだ。連れて行かれて、どこの者だ何が目的だと拷問されて、その後で紅巴に引き合わされたらしい」
 さすがに、流紅は黙り込む。この子に、あの忍の様子を見せたら、冷静に話しなど聞けないだろうと、思っていたが、やはりそれは正解だったようだ。苛立っていた瞳に、怒りの色が濃くなりだしている。
「飛田家の四男に、柳雅というのがいる。これは聞く噂だけでも、あまりいいものはない冷血な人間らしいが。それが、紅巴の目の前で、これ以上忍を傷つけようとしたらしい」
「それで、兄上は」
 懸命に抑えたのだろう。おかげで低く小さくなって搾り出された声に、神宮の当主は、さらりと答えた。
「忍をかばって紅巴が柳雅に斬りかかり、取り押さえられて、足を折られた」
 流紅の目が、見開かれる。すぐには言葉もでない彼の先を制して、父は続けた。
「その後すぐ、忍も同じところをへし折られて、城外に放り出されたと。こんな知らせ、飛田としては神宮に持ち帰ってほしくないものだろうが、何を考えているのか分からん」
 生き延びて桜花に帰ることが出来たら、事の顛末をお前の主に知らせればいい、それが出来なかったときはそのあたりで勝手にのたれ死ね。
 そう言われたと言うが。
 ただ単に、残忍で愚かなだけなのか、何か意図があるのか。――紅巴がどうしたかったのか、何を言いたかったのかに気がついていないのか、分かっていてわざわざ神宮に知らせが届くようなことをしたのか。それもなぜ、忍の運を、神宮の運を試すような方法でなのか。
 飛田の考えることは相変わらず分からない、と彼は苦々しく思う。わからないことは、とりあえず保留にしておく。
 考えるべきは、どうして紅巴がそんな行動をとったかだ。
 忍を庇おうとするのは領主として愚かだ。彼らは、敵の手に落ちた時点で、切り捨てなければならない人間だから。命がけで働く者たちを、そうして捨てていくのは、まったく矛盾だとしか言いようがなかったが、それができなくて人の上に、民の生活の上に立つことなど出来ない。多くを生かすことなどできない。
 ――あれは、そんなに愚かな人間ではない。
「それで兄上は、無事なのか!? その後の知らせは、何か入ってないんですか!」
 最初の衝撃が通り過ぎて、ようやく、言葉を口にして出す余裕が出来たのだろう。流紅が叫んだが、聞き流した。
 その後の知らせなど、あろうはずもない。
 静かに、一度息を吐いてから静かに、言う。
「近いうちに宣旨を出す。お前は賑々しく桜花を出て、当主名代として領内を回れ」
 ほしかったものでない言葉に、流紅は、星明りに照らされて光る瞳で父親を睨んだ。今どうしてそれを言われるのかが分からず、しかも言われた内容が彼の怒りを煽ったのだろう。荒々しく言った。
「どういうことですか。それではまるで、わたしが跡目を継ぐのだと宣伝してまわるようなものじゃないか」
「宣伝してまわるために決まっているだろう」
「兄上はどうなるんですか。兄上がいるのに、わたしが跡を継ぐなどありえない! わたしは絶対にいやだ」
「流紅、お前の意見など聞いていない。これは当主の決定だ。神宮の跡はお前が継ぐ」
 睨み返し、揺ぎ無い声で、反論を許さない声で断言した父親に、さすがに流紅は口をつぐんだ。
「父親として、出来る限りの事はしたつもりだ。何度も間者を送り込んだし、紅巴自身も脱出しようとした。成功したときには途中石川をすんなり通れるように、石川の領主には先立っての謝罪として山のように貢物を送ってやった。だがこれ以上は無理だ」
 もともと他国の様子を知ることは、国を守る上での基本だ。飛田の城下にもぐらせてあった神宮の手の者に、城内の様子を探らせた。城への潜入路、軍の配置などを把握することから始まり、逃走時の経路を確保するために、領内を掌握する手がなくなって荒れている本條の領地、流紅をとり逃して険悪になりつつある石川の領地を、問題なく通れるようにする必要があった。逃亡の手引きをするために、神宮の者を潜入させようと様々な手を使った。表立って入り込んだり、夜陰にまぎれたりと。だが、失敗するにつれて、手立てがなくなっていく。
 もう、そもそも行き詰っていたところだったのだ。収穫といえば、飛田の居城や領内に関する情報が、多量に入ったことくらいだ。それも、不相応な多くの犠牲の上に。
 ――紅巴は、きっと怒っているだろう。
 あきらめることに、ではない。あきらめなかったことに。
 あきらめることに怒るのは、紅巴ではない。流紅だ。
「いいか、我々は紅巴をあきらめたのだと、飛田に知らしめる必要があるし、長子がとらわれたとて神宮にはお前がいて、決して揺るがないのだと、他国に示す必要がある。当主名代として領内視察に出かけろ。どうせお前は口で言ったところで、自分で納得して実感するまで理解はしないだろう。実際に出かけて民の様子でも見てくれば、多少はその甘ったれた頭でも学ぶこともあるだろうさ」
「しかし、それでは兄上は?」
 神宮に対しての利用価値があるから、と生かされている紅巴は、神宮が彼を見捨てた途端に、飛田が彼を生存させている意義がなくなる。
「何度も言わせるな。紅巴を切り捨てる。生きていようが殺されようが、わしは感知しない」
 今更の決断だった。最初に彼が捕まったときに選ばなければならない道だった。あきらめなかったせいで、数人の命が奪われた。迅速でなければならなかったのに、手こずったせいで、失われた命の甲斐もない。あきらめるしかなくなった。
 でも、どうして最初から見捨てることができる? 遠来の地ではあっても、それが飛田ではあっても、生きているのに。何もせずに、生きている者を突然捨てることなど、できるものか!
 ――だけども、その助けたかった子ども自身にあんな手を使われて、いつまでもぐずぐずと未練たらしくいるわけにもいかないではないか。
「あれは、身をもってわしらを止めたのだ。もう助けをよこしてくれるなと」
 何をやっているのだと、思った。紅巴も己自身もだ。うまくいかないこと、簡単に命を投げ出そうとする相手、相手が捕虜とは言え仁道に外れた飛田家、そして選ばなければならない立場。さまざまな物事に対する怒りが、身のうちを逆巻いていた。しかし選ぶべき道は、紅巴の方がよくわかっていた。
 飛田家の人間を傷つけようとすれば、ただですまないことなど分かっていたはずだ。自分でそれを招いて、殺されないとも限らなかった。それならそれでも良いと思っていたのだろう。どちらにしても、足が使えなければ逃亡は不可能だ。
 早くあきらめてくれ、と言っているのだ、あの子は。忍を庇ったのは、もう十分だと、言いたかったのかもしれない。これ以上貴重な人材を減らしてどうするつもりだと。
 もう、はっきりとこの事に蹴りをつけなければならない。紅巴の行動は、それを決断することへの気を多少軽くさせると同時、相手に、しかも息子にそんな気を使わせてしまったこと、実際わずかでも有り難く思う自分のふがいなさに、余計に怒りを募らせるものだった。それでも、だ。
 腹が立つからといって、認めたくないからといって、泣き喚いて押し通せるような立場にはない。
「わしは領主だ。一に曰く道。他に逃げ道があるのに、大義名分もなしに、これ以上人命を失うわけにも行かない。いつまでも我が子一人にかかずらかって、他国に神宮の弱い姿を見せて付け入る隙を見せるわけにもいかん。これ以上続ければ、余計に紅巴を煽ることにもなりかねん」
 そして紅巴も、これ以上彼のために何かを費やすことで、あの頑固な子は、自分自身を余計に責めるだろう。煽って本当に自害されるのも我慢がならない。
 あとは、神宮の手が切れた後の、紅巴の意地に賭けるしかないのだ、もう。
「神宮の当主として、紅巴を切り捨てる。そうなれば、必然としてお前が跡目を継ぐことになる。いつまでもぐずぐずと文句を言うな」
「でも、父上。兄上はまだ」
 何かを言いかけたのをさえぎって、とうとう神宮当主の声もきつくなっていた。
「お前は、何を持って自分よりも紅巴の方が当主に良いと言っていた? 選びたくない道を選ぶのが領主としての責務だ。お前がそれを負いたくないから兄に背負わせたかったのか」
「違う! わたしは……!」
「機があれば、もちろん見失うつもりはない。だが、今はもうこれ以上どうにもできん。いいか、今回ばかりはこの間のような我がままは通さん。命令だ」
 断固として、彼は言う。選びたくなかった道だが、選ばざるを得ない。決めた以上、揺るがない。
 流紅は、眉を吊り上げて、父親を睨みつける。神宮の当主はそれすら黙殺し、もう話は終わりだとばかりに、再び盃を手に取った。
 満ちた沈黙に、夏の終わりを叫ぶ蝉の声が、途切れ途切れに聞こえている。



 けれども、事はそれで終わらなかった。決断を臣たちに伝えるよりも、流紅の行動の方が早かった。
 理解しただろう、とか、言い聞かせた、とは思っていなかったが、さすがに状況くらいは分かっているだろうと思ったのは甘かったのか。当主自身が、自分の思いに囚われすぎて、流紅の激情を甘く見ていたのか。
 わがままだと言われようとも。父親自身が言った通りに、自分で納得してしっかりと飲み込まなければ、前になど進めないのが流紅だった。
 何かをしかねないからと、つけていた見張りを殴り倒して出て行ったのは、もはや天晴れとしか言いようがない。
 次の日の夜、流紅は桜花の城から忽然と姿を消していた。




 ぼんやりと天井を眺めていると、開け放した戸の向こうから、声をかけられた。口を開ける戸の向こうには、日が沈んだ後の、赤みかかった紫紺の色をした空が見える。その戸の脇の回廊に座して、頭を下げる侍女がいた。返事を返すと、衣擦れの音とともに、何かを抱えて紅巴の枕元へ来て、膝をつく。
「御屋形様がお呼びです。お召しかえなさって、おいでくださいませ」
 持っていたのは、衣のようだった。丁寧に頭を下げる侍女を見上げてみても、それ以上の言葉がかけられることはない。ただ用件を告げるだけで、起き上がることができるか、熱の具合はどうか、などの気遣いの言葉も、何も。「神宮の俗物」は、侍女にすら嫌悪されるほど飛田家での侮蔑が根強いのか、余計な口を利くなと言われているのか、紅巴が白蛇につれて来られてから、彼女たちの対応は一貫して変わらなかった。それともただ単に、慣れ親しんだ神宮の空気が特別に気安く、頓着の無い空気を持っていただけかもしれないが。
「わかった。すぐに行くから、着替えは置いていってくれないか」
 自分でするから。そう言う紅巴に、侍女は頭を下げたまま、変わらない口調で淡々と返した。
「おひとりではご不自由もおありでしょうから、お手伝いするよう、仰せつかっておりますので」
「そうか」
 つまり、呼び出しは強制で、もし紅巴が立ち上がれないくらいの体調であろうとも、這ってでも出て来い、ということなのだろう。
 視線を天井に戻して、自分で額に手をあててみる。まだ微熱があるようだった。だが、起き上がれないほどではない。
 肘をついて起き上がると、やはり眩暈がした。うつむき、少しの間だけ額に手を当てて堪える。耐えられないことはない。寝具の上に立ち上がることは出来なかったが。
 足を折られて、おざなりな手当ての後、柳雅の言葉 通りに牢に放り込まれてから、すでに数日が経っている。
 はじめは直土の牢の中、壁にもたれて痛みを堪えていたが、異変に気がついたのはいくらかもたたないうちだった。汗が出るのは、暑さのせいと痛みのせいだと思いたかったが、意識が朦朧としてきたことでようやく、熱を出してしまったのだと認めざるを得なかった。その頃には座っているのも辛く、冷たい土の上に横になろうとしたが、体に力が入らず倒れこんでしまった。
 そのまま、夜になっても当然のように上掛けのようなものは与えられず、残飯をあさってきたかのような食事に手をつけることなど出来るわけもなかった。ただうずくまって過ごして、眠っているとも意識を失ったともとれない、曖昧な意識のまま幾日かを過ごしたようだった。……それとも、たった一日のことで、朦朧としていたせいで何も分からなかっただけかもしれない。
 ふと気がついたときは、誰かに担ぎ上げられていた。夢とも現実ともつかない頭で、時々気まぐれに見たものは、薬師の姿、様子を見に来る侍女の姿。それから、青ざめた少女の顔。ぼんやりとした霞の中のような意識で見たものだから、どれもこれも、夢かもしれない。
 だが、徐々に熱が引き、意識もはっきりしてくると、目の前に見えるのは牢の天井ではないのに気がつく。時折頬をなでるのは牢の中に満ちていたような、じっとり臭う空気ではない。あたりは明るく、調度はきれいに整えられ、彼はきちんと清潔な寝具に寝かされている。どうやら、もと紅巴に与えられていた部屋に戻されているようだと分かった。
 それから、さらに数日。
「思ったよりも元気そうだな」
 言葉だけを聴けば、随分と親しげなことを言いながら姿を現したのは、流麗な立ち姿の少年だった。
 寝巻きから、直垂へ着替え終わったところだった。声の主に、侍女が急いで頭を下げる。それには目も向けず無視をして、柳雅は部屋に足を踏み入れた。
 座り込んだままの紅巴に、彼は優雅な仕草でうやうやしく手を伸べてきた。
「武器になりかねんから、杖は持たせるなと言われている。神宮の御仁には、俺が杖がわりになってやるから、ご容赦願いたい」
 彼の後ろには、先日のことを慮ってか、護衛のための人間がついて来ている。他にも、紅巴の見張りとして部屋の外にずっと座っていた人間もいる。他に人手があるのに、捕虜が歩くのを助けるために、当主の血族が足を運ぶ必要も、本当なら無いはずだ。
「わざわざ、あなたの手を煩わせる必要があるとは思わないが」
 隠しもしない柳雅の意図を示唆して、紅巴は彼を見上げる。その言葉に、柳雅は嫣然と唇をつりあげる。
「勿論、嫌がらせに決まっている」



 謁見の間ではなく、呼びたてられた飛田当主の居室には、当主本人の傍らに、少女が座っていた。顔を上げて無表情を繕っているが、とても居心地が悪そうだった。すでに薄暗くなった空に反して、室内には煌々と明かりが満ちているのに、照らされた少女は顔色がひどく悪い。
 そんな百合姫を傍らに、並んでと言うよりは、従えて座っている飛田当主は、悠々と脇息に肘をついて来訪者を迎えている。
 紅巴は彼らの前に、添木を当てられて自由の利かない足を投げ出すようにして座る。けれども、背筋を伸ばして毅然とした姿は、無礼だなどと言わせる空気を寄せ付けなかった。怪我と熱のせいでの衰えなど、人前で見せない。すぐに紅巴のそばを離れて末席にひっそりと腰を下ろした柳雅を見送ってから、虚勢でもない凛とした姿の紅巴に、飛田の当主は唇をつりあげて笑った。
「さすがに痩せたな。少しは堪えたか?」
 くつくつ、と笑う。お前の命は握っているのだと、静かに相手を脅すような笑みだ。
「死にたがるのなら、一息で死ねる方法を選べと言っただろう」
「動転して、失念しておりました」
 紅巴はただ、泰然と笑みを返す。
「何かご用だったのではないのですか?」
「用など、特にはないのだがな。どうしているかと思って」
 大して興味の無いことのように言う。
「もう少し牢で反省していただいても良かったのだが、百合が、お前の笛が聞きたいと駄々をこねるのでなあ」
 名が出て、当主の隣で少女がびくりと体を震わせた。視線が寄せられて、口を開く。決して慌てず動転せず、青ざめてはいても、つんとした表情で。
「まだ本調子でない者の楽の音を聞いたって、つまらないわ。百合は後日で結構です」
 けれども彼女の虚勢など、まったく意にも留めていない様子で、飛田の当主は彼女を眺めながら言う。
「せっかく笛の演奏があるんだ。久しぶりに百合の舞が見たい」
「今日はそんな気分ではありません。病人を見ていたら、わたくしも何だか気分が悪くなりました。お部屋に戻ってもいいでしょう?」
「そうか、それは残念だ」
 少しも残念で無い風に、さらりと柳祥が言った。百合を見て、それから再び紅巴の方へゆるりと視線を向ける。
「それなら、ここにつれてきた意味もないな。養生だけなら牢でも出来るだろう。ただし、鼠にかじられたり、食い物が腐ってたりはするかもしれないが。牢は蒸すし、空気の通りも悪くて、多少治りも遅くなるかもしれないが、後日で良いのならかまわんだろう。柳雅、さっさと連れて行け」
 少女の顔から、繕っていた表情が消えた。当主を見て、紅巴を見る。ただ悠然と構えて笑みを返す紅巴に、彼女は少し怖じ気た様子を見せた。助けを求めるように柳雅を見たが、彼女はすぐに視線を戻す。
「でも、わたくし、扇を持ってきていません」
「それなら、取りに行って来い。待っていてやる」
「いえ、いいわ。いらないわ。なくてもできます」
 何を言っても相手が折れることがないのをようやく悟り、少女はとうとう、泣きそうな顔で訴えた。
 彼女はきっと、紅巴を庇おうとしているのを察せられたくなくて、それを悟られたら余計に紅巴がひどい目にあわせられるのではないかと怯えて、懸命にさりげなくあるよう努めていたのだろう。残念ながらそんなものは誰の目にも明らかだったけれども。――ただ、これはただ、当主の気まぐれひとつで、紅巴の命などどうにでもなるのだとの、芝居に過ぎない。今更ながらでありながら、無茶な行動をとった紅巴への牽制に過ぎない。振り回されて、必死で紅巴を庇おうとする百合姫に、紅巴は申し訳なく思っていた。
 その耳に、それはそうと、とつぶやきが聞こえる。
「お前に朗報がある」
 隣りで百合姫が立ち上がり、歩き出そうとしたとき、もののついでのようにさらりと柳祥が言った。お前に――とは、もちろん、紅巴に向かって。
「柳雅がうっかり神宮の忍を逃がしてしまったと聞いて、どうなることかと思ったがな。お前はまだ見捨てられていないようだ」
「どういうことですか?」
 さすがに反応を返した紅巴に、彼は楽しげな笑みを浮かべる。
「神宮の次男坊が姿を消した。あまり知れ渡っている話ではないから、信憑性は薄いが」
 本当は、これを言いたかったのだろう。わざわざ、さり気なさを装って、相手の動揺を誘い出そうとする柳祥の意地の悪さには気がついたが――それでも、やはり驚かずにはいられなかった。
 流紅が、いなくなった。
 そんなはずは無い。あるわけがない。
 思ったことがそのまま口から出そうになった。どういうことだ、と考えるよりも前に言葉がこぼれそうになって、開きかけた唇をきつく閉じる。
 これは確かに、朗報と言えるかもしれない。紅巴個人にとっては。神宮が紅巴を見捨てていないことの証明になる。
 けれども、紅巴が何のために行動を起こしたかを考えれば、朗報などではない。
「そんなに陳腐な手はつかいません」
 彼は、静かに言っていた。その言葉の端から、ふいに笑みがもれた。そうだ、父は、そんなに見え透いた手は使わない。紅巴を救い出すための時間稼ぎに、そんなことはしないだろう。あの人は決して甘くはない。それなら、彼は別の決断をしたのだ。
「何かの間違いか、それは、父の決断ではないでしょう」
 誰の考えか。それを思うと、歓迎できる結果ではないのに、自然と表情が和むのが自分で分かった。父は別の決断をした、けれどもそれを簡単に呑む事の出来ない、融通の利かない誰かが、勝手にしたことだ。
「根拠は?」
「ありません。でもきっと、すぐに分かります」
 流紅の独断なら、父に敵うわけがない。きっと、すぐに結果が見える。
「随分と確信を持って言う」
 神宮の手が切れなかったことを喜ばず、それを否定しながら何故か楽しげな紅巴に、飛田の当主は少し不本意そうな声をあげた。
「神宮の人が選ぶことなら、多少なりとも分かるつもりです」
 ただ、紅巴はそう答える。奇麗事といえばそうだが、嘘でもない。飛田の当主は不服そうな顔をしたが、からかったわけではない。
 あなたには分からないだろう、と声には出さずに紅巴はただ思う。あなたには分からないだろう、こんな風に、肉親である小さな少女を振り回して、つまらないことに利用している人には。柳雅がうっかりと神宮の忍を逃がしてしまった、などと、ありえない事を聞かされ、その奥の真意を見ようともしない人には。
 神宮の、暖かい人の考えることなど分かるわけがない。どうして紅巴が、遠くに居ながら彼らの行動が分かるかなど、理解できるわけがない。――それは、洞察力の賜物ではあったけれども、そんなことだけではない。
 神宮家と、飛田家は、こうも根本的に違う。
 紅巴の前に立って、少女が心配そうな目を向けている。不安そうな少女をただ安心させようと、紅巴は流紅に向けるときのように、穏やかな笑みを返していた。



 自分が紅巴を部屋まで連れて行くのだと言い張った百合姫だが、いくら紅巴が細身であるとは言っても彼を支えることが出来るわけもない。ほとんど寄り添って歩く程度の支えにしかなれない彼女の、一生懸命な姿が微笑ましくありがたく、なるべく負担にならないようにと少しずつ静かな回廊を歩いていた。
 そしてようやく辿り着いた暗い部屋の中、敷かれたままだった寝具の上に倒れこむ。そこにきて、ようやく紅巴は詰めていた息を吐き出した。多分、熱があがってしまったのだろう。意識は朦朧として、口から出る息すら熱い気がする。
「ひどいわ。ひどいわ、柳祥様も柳雅様も」
 泣きじゃくる声がする。そのままうずくまってしまいたいような気持ちを堪えて、身を起こした紅巴の目には、傍らに座りこんだ百合姫が、ぼろぼろと涙を零しているのが見えた。
 そして彼女は、泣きながら上掛けを引っ張りあげる。そのまま、きちんと座って百合姫と向き合おうとしていた紅巴を寝具に押し込んだ。
 人と相対するときには少しの弱みを見せることも嫌う紅巴だったが、泣く子には逆らえないというべきか、されるままに寝具に横になっていた。逆らう力もあまりなかったというのが正しいかもしれないが。
 横になって少女を見上げる。月の光が差し込む薄紺色の部屋、黒髪の愛らしい姫君は、瞳からただ雫をこぼしている。少しぼんやりとした思考の中に、それはとても綺麗な光景に見えた。
「戻った方がいいよ。あなたが怒られてしまう」
 出た声は自分でそうなるようと思ったよりも、宥めるというよりは、ただ穏やかだった。
「いいのよ。柳祥様はわたしのわがままなんていつもおもしろがってるだけだもの。柳雅様は陰険だから、いつもひどいことばかりだもの。ひとつくらい怒られることが増えたって、何も変わらないわ」
 柳雅は飛田の血にあって、現当主のような、言ってみれば人間らしい、ともとれるそんな感情とは縁遠いところに立つ人だ。決して表には出さないが、どこか暗殺に怯えているように見える当主に比べ、彼は、それができるならやって見せろ、と堂々と立つようだった。――堂々と、というのとは少し違うかもしれない。紅巴は、自分が彼に刀を向けたときのことを思い出す。
 彼は、冷たく見据えて両手を広げ、相手を挑発しながら、実際に歯向かって来たなら容赦なく冷酷にやり返す人だ。笑みをうかべながら。
 なるほど、陰険とは、的を射た言葉かもしれない。
「ねえ、ちゃんとお食事してるの? 本当に、牢のお食事は腐ってたの?」
 唇に笑みを浮かべる紅巴に、すがりつくようにして百合姫の声が大きくなった。手打ちになって殺されても構わないと紅巴が言ったときと同じく、理不尽さに怒りを覚えているかのようだった。
「ちゃんと食事は出たよ。何も食べられなくて、手をつけなかったから、そのあとで腐ったかもしれないけども」
「じゃあ、お毒見は? ちゃんとしてるの?」
「あの人たちも、まだぼくを殺すつもりはないみたいだから、毒の心配はないよ。大丈夫だから」
 慰めるつもりだった。自分のことよりも、愁眉を寄せて泣く彼女のために言った事実だったが、少女はそれが更にいい加減なように見えたのだろう。
「いやよ、いや。どうしてそんなに無頓着なの。あの人たちなんていつ気が変わるかわからないわ、絶対にだめ。百合が、ちゃんとした食べ物作ってもらうから。ああでもまだ食べられないかしら。ねえ、瓜は? 冷たい瓜とかなら食べられる?」
 困惑したように、憤慨したように言う。紅巴が笑みと共にただ、ありがとうと言うと、感情の昂った彼女はもう、駄々をこねる子どものように、紅巴に縋りつくように泣き伏してしまった。
「だめよ。紅巴様は、百合が守るんだから。絶対、守るんだから」
 小さな少女の義憤は、どうしてそこまで、と問いかけても良いものかもしれなかった。飛田の人間が、捕虜である神宮の人間に対するには、あまりにも親密すぎる。けれども彼女は、紅巴が感じているような飛田家の気風には染まらないように見えた。幼く優しい少女は今まで、同じように捕らえられて来て、無残に殺された人たちを見てきたのかも知れない。それが積もり積もって、耐えられなくなっただけかもしれなかった。
 それとも、そんなものではないのかもしれない。
 紅巴は、彼の腕にすがりつくようにしている少女に、反対の腕を伸ばした。上掛け越しにそっと抱き寄せる。あやすように、小さな頭を優しくなでた。静穏な夜の藍の中に聞こえるわずかな衣擦れの音と、嗚咽がむしろ耳に心地良い。だから、ただもう素直に、こんな地にまで来て、自分のことに涙を流してくれる人がいることが不思議で、そして嬉しかった。
「大丈夫だよ。もう、お手打ちになってもいいなんて、言わないから」
 神宮へ帰るのが何よりも最善の道だった。神宮に帰ってそこで生きるのが。けれども、それは不可能だと分かっていた。だから飛田に留まって死ぬしかなかった。神宮の手が紅巴の上にある以上、選択はその二つのみだった。だがその手は、切り離された。紅巴が離した。絶壁に立つ者へ示し続けられた道は途切れてしまった。
 けれども、神宮が紅巴を見捨てるなら。もし、彼らのために命を賭ける必要がなくなるのなら。彼らのためを思って、飛田での死を選ぶ必要がなくなるのなら。
 それならやはり、生きることを選ぶ。何年先のことになろうとも、いつか神宮へ帰るために、生きることを選ぶ。
 ――もし、柳雅が当主なら、神宮に切り捨てられた紅巴が生き永らえる可能性は、本当に、万に一つもなかっただろう。
 彼は、世間が飛田に持つ印象そのもののような人だ。 彼が紅巴に対する態度は、常に強者のものであって、子どもが小動物を虐めるのと変わりない。つついて反応をおもしろがっているだけ。もし獲物に飽きたり、刃向かってきたりすれば、何の迷いもなくその手でくびり殺す。用済みの相手は、塵を捨てるのと同じに、さっさと始末するだろう。だが、現当主は柳祥だ。
 彼は恐れている。身内の人間を、まったく怖じ気ない弟を。今日の事だって、もしかしたら、柳雅がわざわざ紅巴を連れてくる役目を負ったのは、柳祥の命なのかもしれないと思った。そもそも紅巴の足を折るなどという行動は、柳雅の独断だった。結果的に同じことをするのであれ、気分を害したのかもしれない。
 だから優柔不断であるかのように、紅巴に構う。逃げ道でもあるかのように、対立し続けている家の人間を連れ歩いて、矛先をそらそうとしているようにも見える。そして今紅巴がこうして手当てを与えられて、人としての扱いを受けている時点で、彼の迷いは表されているといっていいだろう。そして、神宮の忍に相対している柳雅を見たときに思ったこと。
 ――その気になれば、付け入る隙はいくらでもあるように見える。生き延びようと、本気で思うなら。
 何が何でも、命の価値を認めさせてやる。今まで、そんな感情は、紅巴には無縁のものだった。表に出ること、能力を振りかざして力を振るうこと、人を陥れることは。けれども、したことのないことでも、多分、可能だろう。やろうと思えば出来ないことではないことを、自分にそれだけの力があることくらいは自負している。
 例え、生き延びた理由が戦のときの盾のためでも構わない。――それが現実になってしまうのは問題ではあったが、今すぐのことではありえない。少しでも生き永らえて、機会を手に入れる。その可能性がわずかでもあるのなら。
「神宮がぼくを見捨てて、ぼくの命の問題が、ぼく一人だけのものになるのなら、何が何でも食らいついてみせる」
 暗示のようにつぶやく。決意を表に出すように。
 言葉に込められた強さを確かめようとしたのか、その言葉が信じられないと思ったのか、少女はおどおどと紅巴を見た。上目遣いの黒い瞳に、憂愁の色が濃い。
「おうちに、帰りたいの?」
「帰りたいな」
 静謐な人や町を見ていると、賑やかな桜花の町がより懐かしい。涼やかな眼差しよりも、快活な声の方が恋しい。ただ純粋にそれだけを問うならば、本当ははじめから、帰りたかった。しがらみさえなければ、帰りたかった。
 それを願う。すると、紅巴のしでかした事に憤慨する、温かな人たちの姿が脳裏に見えた。おかしみがこみ上げてきて、くすくすと笑いをもらす。
 ――帰ったら、流紅を叱ってやらないと。
 紛れもなく声の奥にある強さを認めたのか、少女は赤く腫らした瞳をようやく和ませた。そしてゆっくりとつぶやく。
「ねえ、紅巴さま。お願いがあるの」
 うん、と先をうながすと、彼女は安堵のためか、泣き疲れたのか、昂っていた感情の反動で、少し茫洋とした表情で言った。
「あのね、お兄さまって呼んでもいい?」
 思いもかけなかった言葉に、さすがに紅巴も驚く。
「ぼくかい?」
 それを否定にとったのか、少女は悲しげに眉を寄せてしまった。
「紅巴様は穏やかで優しくて強くて、お兄様っていう感じなの。柳祥様も柳雅様も、違うもの。末っ子の柳司様は、頼りないし」
 その表情を見て、紅巴はやはり思う。
 寂しいのだと、言ったようなものだった、彼女は。
 百合姫は家族の元を離れて、もうずっとこの城で暮らしていると柳雅が言っていた。紅巴が帰りたいと思うのと同じに、彼女もこの城を逃げ出したいのかもしれなかった。ただ一人で寂しくて、だから似たような環境とも言える紅巴を構ったのかもしれない。
「あまり兄らしいと言われたことがないけど、下に二人もいるからかな」
「弟君と、妹姫がいらっしゃるのでしょう? 知ってるわ」
 とりなすように言う紅巴に、百合姫は少し得意げに応える。 
「姫君は、おいくつになる?」
「十四よ。もう大人なんだから」
「妹と同じ歳だね」
「妹姫は、紅巴さまと似てらっしゃる?」
「どうかな。腹違いだから」
 妹はどちらかというと、性格も顔立ちも流紅に似ている気がする。そう考えると、やはり自分は浮いていたのかもしれないと思うが。
「それじゃあ、わたくしと似てらっしゃる?」
 似ているわけがない。雅やかで貴族のような飛田の血とは違い、神宮は陽気で明るい性格がそのまま表に出たような顔立ちと、明るい茶の髪と瞳をしている。それでも、似ているかもしれないと思った。
「姫の方が大人かな。それに、姫のほうが美人だ。優しい妹が出来て、ぼくも嬉しい」
 ――来年には、飛田の当主に嫁ぐのだという。
 妹だと言ったからか、少女は、眠たげな表情だったものの、嬉しそうな笑みを浮かべた。美人だと言う言葉も、言われ慣れているはずなのに、とても嬉しそうだった。
「本当は柳祥さま、楽の事なんか全然わからないのよ。飛田の家系はもともと貴族や皇族の血を引く一族だから、そんな嗜みもないと格好がつかないからって、分かるふりをしているだけなの」
 だから、と彼女は続ける。秘密を共有する仲間を得たような、楽しそうな表情で。
「元気になったら、今度は百合のために笛をふいて。今度はちゃんと扇も持ってくるわ。わたくし、本当は唄も好きなのよ。柳祥様には秘密にしてるけど」
「約束するよ」
 熱のある肌は、処暑の頃とは言え不快かも知れないと思いながら、額を寄せて、紅巴はただ笑みを向ける。
 ぼくのために泣いて、気遣ってくれた彼女の慰めになればと、少しでも寂しさを和らげる役にくらい立てれば、と思った。きっと、温かな笑みにですら飢えている彼女の慰めになればいいと、願う。
 桜花ってどんなところ、と無邪気に聞いた彼女に、いつかあの佳景を見せてあげられたらいい。賑やかな観桜宴を、少女はきっと喜ぶだろう。
 帰りたい。必ず、生きて帰る。
 ようやく、何の邪魔もなくそれを決意した。