第六章





 神宮の土地にも、冬の早い時期には珍しく、雪が降り積もった。朝になる前にやんだものだったが、予想もしないものに浮かれる人と、邪険にする人と、様々だ。戦に見送った人がいる人間にとっては、呪いでしかない。
 人々が白い息を吐きながら、まだどんよりと暗い空を窺って見る中、茜子はいつもと同じように家を出て外を歩き回っていた。そしていつか夏の日に、流紅と見かけたのと同じ場所で、書物を片手に常盤が座り込んでいるのをみつける。雪が積もったのを少しだけどけて、わざわざ尻の下に上着を敷いて。
 流紅がいれば、雪の積もった後に外で読書など、と言ったかもしれない。
 かわりのように茜子が問う。
「こんなところに座り込んで、濡れますよ」
 常盤は顔を上げて、見下ろしてくる茜子に笑って見せた。
「寺にいると、雪かきだ何だとうるさくてね。もっと北のほうだったら分かるが、まだ冬の口に、こんな程度の雪で大げさだ。慣れてないと、何でも大げさにとるから困る」
「ただ、めんどうだっただけでしょう」
「他になにがあるか」
 立ち上がりながら悪びれもせずに言う声に、茜子は笑みをもらした。
「常盤様、まだ富岡にいるの?」
 横に立って伸びなどしている常盤に、ここのところ、幾度繰り返したか分からない言葉をまた問う。
「なに、俺がそんなに邪魔かな」
「珍しいから、気になるのよ」
「面白いものが、相変わらずここにあるからなあ。しばらく放浪をやめて、ここに根を下ろしてみるのも良いかと思っている」
 常盤の言葉にまず驚き、それから茜子はまた笑った。
「分かった。雪が降ったのは常盤様のせいね」
「ひどいな」
 常盤もいつもと同じあっけらかんとした顔で、笑った。
「つまらないものだと、思っていた。目の前の不変の日常も、戦ばかり繰り返している人間も、いつまでも進歩のない奴らだ。俺のことを、どっかの寺のお偉いさんが禁忌を犯して生まれた子だとかなんだとか、皆が俺に遠慮するのも馬鹿らしくて。いつもいつも、このままいなくなってしまうのも良いかと思ってここを旅立っている。放浪して彷徨って、食べ物も飲み物もなくなって怪我をしてもう駄目かと思ったことが何度かあるが、そのたびに必死になって助けを求めて、蹴躓きながら歩いてる自分に気がつく。どこかの寺にたどり着きさえすれば、宿と食事を与えてもらえるのが分かっているから、必死になって探して、結局助けを与えてもらう。そんな自分が嫌だったな」
「どうしてそれがいやなの。当たり前でしょ」
 茜子の言葉は、本当にいつもはっきりとしている。その答えを聞いて、なるほど、と常盤はつぶやく。彼女の前では、どんな悩みもつまらないものに思えてくるから不思議だ。
「茜子殿は昔から興味深い人だったが、泰明殿や、神宮の次男坊も、皆がどう動くのか、見届けてみたくなった」
「物見高いわねえ」
 くすくすと茜子が笑う。いつか流紅が言っていたのと同じことを言われ、つられて、常盤も笑った。
「人間観察をしてみたくなっただけだ。おぬしが言うと、何であっても、たいしたことではないような気がしてくるな」
「そうかしら。わたしだって、これでも悩むのよ」
「それは意外だ」
 親しみを込めて言う。それはいつも流紅に対してもそうだったが、この声と表情のせいで、分かってもらえなかったなと思い、常盤は一人笑みを深めた。まあ自分がこの調子で、彼があの性格では分からないだろうけれど。茜子は分かっているのに、あの次男坊は、ただただかっちりとした性格をしていて、可愛げがなかった。まっすぐなものは、抑圧されたときが脆い。富岡にいたときの彼は丁度、そんな状態だったから仕方がないのかもしれないが。
 結局最後には前を向く、そんな人間が嫌いではない。それはひたすら、懸命に生きようとしていうる証のようなものだ。
「あの次男坊を拾ったのは、一応俺だし。その後で巻き起こったことを考えると、これも何かの縁かと思えるな。俺も、何かのきっかけになりえるということだ」
 誰しも、何かを起こせるということだ。常盤が結局しぶとく生きることを選んできたから、こうしてここに茜子がいて、結果がある。
 けれども当の茜子は、流紅と出会ったことの感慨よりも何よりも、ただこうしてあるのは自分の選んだことだと、笑った。
「ただの偶然でしょう。人は、自分にとってすごく都合が悪い偶然とか、すごく都合がいい偶然を、勝手に運命って呼んだりして、勝手に喜んだり悲しんだりするのよ。勝手におしつけるだけよ」
 そこから一体何を選び取って、何を得るかだ。結局のところ。
 茜子の言葉に、常盤はからからと笑う。
「本当に、おぬしの言葉は、身も蓋もないな」
 けれども、人の手で計り知れないものも、あるのではないかと思う。起きたことがすべて、小さな関わりの連続だとしても、結果として最後にそれを選ぶのが自分自身だとしても、
「神宮の血を継ぐものは、炎のように力強く、大地のように優しく、水のように静謐だ。だが、風のように、掴めない。彼らは鮮烈で眩く人を惹きつけるが、まるでそれを得たことの代償のように、短命の一族だ。あの乱の日に、飛田の怨念が、皇家の血筋に取り憑いたのか」
 流紅を見ていても、思ったことだった。今までの神宮の人間を鑑みても、巻き起こった今の状況を思っても、たどり着く思いだった。
 何かを得れば、それが大きければ大きいほど、代償も相応のものだというが。
「飛田家もまた短命だが、あの一族の場合は、人災だな」
 結局のところ――常盤も、流紅や茜子を案じているのだと、そのことにかわりはなかったが。



 泰然と包囲する飛田の軍を前に、砦へと引きこもった本條家はよく耐えているとも言えた。時折、威嚇のためにけしかける攻撃も簡単にかわされ、常に周囲にを取り囲まれた状況ながら、精神的に圧し掛かってくる重みは生半なものではないだろう。更に言えば本條家は、柳雅の言う通り、秋を越えたとは言え物資を補充できたとは思えない。神宮よりも石川よりも東北に位置し、雪の降る中に暖をとる手段もなく、満足な食料もなく、ただでさえ威圧するものを目の前に、疲労は嵩張る一方だ。
 対する飛田家は、大部分を持ってきた兵糧で賄い、どうしても足りないものは、周囲の村や町から大人しく買い取っていた。暖をとるのに必要な薪は、兵が自ら周辺の山に踏み入って取りに行く。国に負担をかけず、現地で必要なものを調達するのは、名将の条件ともされるが、周囲の村々へ押し入って無理矢理にでも集めてくるものかと思っていたので、紅巴は少し驚いた。柳雅は決して生易しくはないが、逆らう者には容赦しないと言った反面、逆らわない者に対しては庇護を与えると言ったことは事実なのだろう。何が得策でないのかも、きちんとわかっている。
 そしてしばらく待つまでもなく、別働隊として才郷の城へ出向いていた飛田の軍から、城を落とした報が届いた。立て続けに、飛田当主が蒲原へ到着する。
 柳雅の予告どおり、飛田当主が軍を引き連れて現れると、飛田家が総攻撃へと転じる前に、本條家から白旗の使者が現れた。
 二十を少し過ぎたばかりの本條家の当主は、一年ほど前、先代の頃から続く飛田家との対立の責任を、そして国を明け渡す服従の証を背負って、飛田当主の前で切腹し果てた。
 長きに渡って進展の見られなかった状況に、ようやく決着がついた瞬間だった。



 飛田当主他、主だった人間は、門の開かれた蒲原の砦へと踏み入れた。入りきれない軍は変わらず周囲に野営を行っているが、違いは途端に満ちた活気だろう。捕虜を捕らえ、小競り合いのようなものばかりで大きな戦闘はあまりなかったものの、功労者への褒美の受け渡しが行われ、夜になると戦勝の宴が開かれる。
「身の証を立てられたか?」
 笑いさざめく人々の中、当主の間近の席に呼ばれ、分かりきったことを問われても、紅巴はただ笑んで見せた。――褒美を貰う人間の中に、彼が含まれていなかったことなど、分かっているだろうに。
「残念ながら、わたしの出番はありませんでした」
「まあ、簡単な戦だったからな」
「心配していたような、周辺からの手も入りませんでしたし」
「あとは、才郷の城へ入って、ここが名実飛田の物になったのを知らしめるだけだからな」
 今更、その移動中に本條の家臣から横槍が入るとも思えない。馳せ参じて、貢物を持ってくる者はいるかもしれないが。
「せっかく飛田に身を転じておいて、何も手柄がないのではお前もつまらないだろう。戦勝祝いに、皆を感心させるような笛を披露できれば、褒美をやるぞ」
「笛は、行軍中になくしてしまいました」
「なくした……? お前が、あれをか」
 さらりと応えた紅巴に、上機嫌だった飛田当主の表情が、あからさまに不快に染まる。笑い騒ぐ人々の声が、背景に白々しく聞こえた。実際、そうして見せながら彼らの会話に聞き耳を立てているものは多いだろう。
 紅巴は自分の言葉が、舞い上がっていた相手へ冷水を浴びせるものになったのだと理解していながら、穏やかに見返して続けた。
「別の笛を用意していただければ、お祝いに参加することもできるのですが」
 戦勝祝いに所望され、応えられなければ不敬とされても仕方がない。だから紅巴はすぐにそう切り替えしたが、飛田当主は不審げに彼を見る。捕らえられた戦の折からずっと大切に持っていたものを無くしたとは、簡単に信じてもらえなくて当然だろう。
 穏やかでない表情で紅巴を睨み、おもむろに盃の酒を煽ると、飛田当主は不機嫌な顔のままで言った。
「それなら、柳雅に舞でも披露させるか。あれも見目だけは一級だから、目の保養にはなろう」
 出た名に、当主の弟ながら上座近くにいない柳雅を探して、さりげなく目が宴席を泳ぐ。当主がいるときは大人しく鳴りを潜めていることが多いから、末席にいるものかと思ったが、あの鮮やかな気配の持ち主はこの広間の片隅にも見当たらなかった。
 また一層当主が不機嫌になる前に、呼んできます、と言い置いて御前を辞し、紅巴は宴の席を後にする。
 酒の息と、人の熱気と、祝いの浮かれた空気に満ちた部屋を出ると、途端に風が体を刺すように吹いていった。身震いしながらも、人に満ちた部屋と外に面した回廊では、気温だけでなく空気に満ちた圧力すら違うようで、身の回りが軽く、開放されたような気持ちにもなる。
 雪はやんでいるが、雲が空を覆い、うず高く積みあがっているせいで、空は暗く重い。星明りも月明かりも僅かにすら見えなかった。
 もともと柳雅が居そうな場所など予想もつかなかったから、適当に歩き出した。回廊の脇、槍を持って立っていた兵を見つけて問いかけると、門の方で見かけたと言われ、不審げな視線に見送られて足を向ける。
 頑健を誇る砦は、大した痛手もうけないまま、飛田に明け渡されている。木造の門は開け放たれていたが、十分な威圧を持ってそこにあった。その門近くの回廊に、紅巴はようやく柳雅を見つける。武装は解いたものの、髪を簡単に後ろに結っただけの彼は、足元に跪く兵と何かを話しているようだった。
 紅巴が声をかけるより、近づくよりも前に、柳雅が顔を上げた。きつい眼差しで周囲を見回し、紅巴を見つけると、唇の端で笑う。
「何か用でも?」
 歩み寄ってくる紅巴を見て、おもしろそうに言った。実際、紅巴の方から柳雅に関わることなどあまりないことだったから、誤魔化しでなくおもしろがっているのだろう。紅巴が近づくよりも前に、柳雅と共にいた兵が駆け出していく。遠く、宴の笑い声が聞こえる。
「ご当主が呼んでいる」
 口を開き、言葉を吐くと、白い息が浮いた。すぐに風にさらわれて、視界は再び暗く沈んでしまう。柳雅は驚いた様子で、長い睫毛を上下させて瞬くと、声をたてずに艶やかに笑った。
「それで、のこのこ呼びに来たのか。一人で出歩くなと言われなかったのか」
「忘れているんだろう。多分」
 酒の勢いと、自分の思い通りにならない不愉快さで。
 それでなくたって、紅巴もこんな時に逃げようとは思わない。皆の気がゆるんでいるとは言え、砦の周りには、飛田の軍が野営している。兵たちも浮かれ騒いでいるが、あの軍の中を呼び止められずに抜け出す自信はなかった。
「あなたこそ、こんなところで何をしていた? あの兵は」
「興味本位か? 詮索か? 兄上に報告して、少しでも自分の信望をあげるか」
 命がかかっているからな、と嘲笑うように言って、柳雅は紅巴の問いをはぐらかした。
「参席しなければ不敬になる。参席すれば不興を買う。俺が何をしようと、あいつの気に入ることはないのだから、同じなら近くにいない方がましだ」
 そもそも、周囲の警戒にあたれ、と俺を祝いの席からはずしたのはあいつなのにな、と続けて。
「だがご所望とあれば仕方ない。戻ってご機嫌取りでもしてやるとするか」
 戦に終わりが見えても、彼ら身内に満ちた暗澹とした空気は、あまりにも色濃く湿り気すら帯びているようで、取り払われる気配がまったくない。空に満ちた雲よりも重く、出口があるのかすら、分からないほどだった。――流され続けた血のせいで。
 長い黒髪を翻して踵を返し、紅巴に背を向けて歩き出す柳雅の背を追い、知らず吐息が漏れる。飛田家の臣たちが――当主が思うような展開にはならないだろうという思いが、心の中に強い確信を持って芽吹いていた。



 飛田当主が到着してから、蒲原の砦に腰を据えていたのは、せいぜい二日程度だった。三日目の朝には、砦を守るためと、断罪を待つ捕虜を捕らえておくために、将兵を残して砦を発つ。徒歩の者を含む軍の移動はそう早くもいかないから、目的の才郷の城までには、五日程度というところだろう。
 ちょうどその中頃を行軍中、すでに今回幾度目かの攻撃を受けていた。――再び、集った民からの。
 他愛ないものだが、おかげで足が進まない。多少のものではあっても、軍も消耗する。そして、兵たちの疲労が高まっていく。このときも、雪原の中にわざわざ足を止めて、襲って来る人々を追い払ったところだった。
「どういうことだ。もう、終焉が目前だと言うのに、いつまでたっても辿り着かない」
 飛田当主は、苛立ちを隠しもせずに吐き捨てた。軍の中頃を進んでいた彼は、今は馬を降り、床机に座して事態の収拾がつくのを待っている。軍そのものが足止めを食らい、度重なるものに浮き足立つ兵たちは、日に日に指揮の行き届きにくいものになっていたため、時間がかかっている。
 飛田の主だった将は、軍の前後にふりわけてあるので、飛田当主の周囲には、柳雅と紅巴、そして数人の飛田の将がいるばかりだった。替え馬を引く兵や騎兵、槍を持った徒歩の兵をあわせて他にも人間はいるが。
「多少やりすぎたか」
 苦々しくつぶやき、彼は、傍らに座す柳雅をちらりと見た。
「やはり、本條を討ったからと言って、単純に邦民を掌握するのは難しいか。それとも、ただ単に飛田がなめられているのか」
 柳雅はそ知らぬ顔で真正面を向いている。気づいていない素振りをするだけで、実際には自分に向けて言われているのが重々分かってるはずの弟の、謝罪するでもへりくだるでもない態度に、飛田当主が更に更に苛立ったようなのが、見ているだけで分かる。近く座していた飛田の将が、やんわりと口を挟んだ。
「万全の備えをしていても、何が起こるかわからないのが戦ですからな。後はもう城に入るだけのこと、焦る必要もありますまい」
「そうですとも。刃向かうものを従えて、ここで飛田の力を見せつけながら進むのも悪くはないでしょう」
 口々に言う臣に対し、飛田当主は束の間口をつぐんだ。苛立っても仕方がないのは、分かっているのだろう。
「しかしこれでは、領内を完全に掌握するのに時間がかかるだろう。長く白蛇を留守にするわけにもいかないと言うのに」
 本條の臣と民を完全に従えるのに時間がかかれば、当然弱みを突こうと他国が動き出す。その隙に、本拠地を抑えられては何にもならない。白蛇という土地は、飛田家の居城がある場所というだけではなく、飛田家にとって象徴的な場所だった。整然と美しく、栄えた町。東の飛田家、雪の白蛇。
 臣が口を出す前に、飛田当主は苛々と続けた。
「柳雅は、才郷の城に残していく。飛田に刃向かう人間も多いだろうから、他の人間では不安がある。やはり、飛田の血の者がいるのといないのとでは、まったく違うだろうから」
 周囲で起きている争いの音や、人が動き回る音を取り残して、沈黙が降りた。柳雅が小さく息を吐いて、笑う。
「仰せとあれば」
 あからさまな兄の言葉にも、彼はまったく動じなかった。――自分の傍から引き離そうと言う、あからさまな配備だ。更に言えば、民の叛乱を目にしていながら、少し進むたびに襲われる程にその怒りが大きいことを重々承知していながら言うには、あからさま過ぎる。
 しかしながら、飛田当主の言葉も、柳雅の返答にも、誰もが意見をする暇もなく、早馬の知らせが場の緊迫を破った。
 駆けつけてきた馬は、当主の眼前に来る前に、馬を止めて飛び降りる。馬廻の護衛を掻き分け、肩に背に矢を生やし、鎧のあちこちから血を流した兵は、崩れるように雪の上に膝をついた。それだけで、白い地面が汚れる。
「申し上げます」
 かすれた声で、懸命に叫ぶように言った。
「蒲原の砦に、敵襲」
 言葉が空気に放たれると同時、辺りがざわめいた。当主に従ってその場にいた臣たちだけでなく、護衛の兵たちまでもが声を上げる。数日前に本條から奪い、そして数日前まで自分たちが滞在していた場所だ。兵を残し、きちんと備えをして出てきた。
「どういうことだ」
 相手をなじるように、飛田当主が怒鳴る。満身創痍で駆けてきた、使い番の兵は、更に頭を下げた。
「突然のことでした。叛乱です。大勢の民が突然湧いたように現れまして、篭城の備えもなく、なんとか抵抗していたのですが……」
「どういうことだ、はっきり言え!」
「砦を占拠されました」
 飛田の当主は、唖然とした顔で兵を見ている。
 あの砦は頑健で、篭城には適した場所だった。飛田の当主が才郷の城に無事辿り着くことが出来れば、折り返し援軍も来るだろうし、才郷へ着く前に引き返して来てくれる可能性だってあると、留守居を任された将だって、それを考えたはずだ。それなのに、篭城できなかった。――相手にさせてもらえなかった。単純に民の側に、それだけの知識があったと考えるべきなのかもしれないが。何かがおかしい。
 成り行きを見ていた紅巴は、柳雅へ視線を向ける。しかし彼は、やはり黙って使い番の兵を見ているだけだった。
 そして更にその耳は、こちらへ駆けてくる人の声を聞きつける。
 緊迫した空気を騒々しく踏みにじり、場に割り込んできたのは、別の早馬だった。先刻駆けつけてきた兵と同様、まったく同じような動きで飛田当主の前に膝をついた兵は、彼もまったく同じような姿をしていた。体に突き刺さり、折れた矢。ぼろぼろの鎧。倒れそうなほどに疲弊した馬。
「申し上げます!」
 膝をついて叫ぶ。きっと、その場にいた将兵すべてが、同じような予感に捕らわれただろう。
「才郷の城が、落ちました」


 先刻とは正反対に、沈黙が場に満ちた。報を運んできた兵の、荒い息遣いがやけに大きく聞こえる。胴丸だけの兵は、今にも地面に崩れ落ちそうだった。それを睨むように見て、飛田当主は憮然と声を出す。
「まさかあの城までもが、民に襲われたなどと言うわけではないだろう」
 もともと本條家の根城だった。民に襲われて簡単に落ちるようなものではない。当主の問いに、切れ切れの答えが届いた。
「民ではありません、兵です。突然現れて、突然攻撃を仕掛けてきました。石川家の兵です!」
 今度こそ、飛田当主がぎろりと柳雅を睨む。才郷の城と、蒲原の砦を落とす算段は、柳雅が整えるようにと指示されていたものだった。そのために、先発として一足先にこの土地に攻め入ったのだから。
「桂木と西沢はどうした」
 尋ねたのは柳雅だった。
「桂木様は敵の将を引き連れて、お見事なお討ち死にでございました。西沢様はわたくしをご当主への伝令として出すために、わずかに残った兵と共に城を討って出られました。その騒ぎにまぎれてわたくしが出立して間もなく……」
「何故、知らせのひとつも寄越さなかった。城を落として、浮かれていたか」
「あまりにも唐突なことでしたので。城を落とすのに疲弊した軍ではすぐに立て直すのも難しく。援軍を請う知らせは……」
「もう良い」
 苛々とさえぎり、飛田当主はうずくまるようにしている兵を睨みつけている。采配を握り締めている手が、力を込めるあまりに震えていた。
 折角、本條家の配下の者が留守居をしていた才郷の城を手中にし、あとはそこへ入城するだけだったというのに、目の前で栄誉を奪われて、黙っていられるものではないだろう。
 蒲原の砦に入るのとは訳が違う。本條家を下しただけでは、この土地を手に入れたことを外へ知らしめることが出来ない。その居城であった才郷の城に入城しなければ、名実共にこの領土を手中に収めたとは言えない。――間近な終焉に辿り着けない、などというどころの話ではない。そんなもの、立ち消えたも同然だ。再度一からやり直し。
「どうする」
 苦々しくつぶやく、その目は柳雅とは逆の位置にいた紅巴に向かっていた。先程、将が意見を口にする間も、人々が動揺する間も、ただそこに座して成り行きを見ていた人の方へ。
 紅巴は、人々の目が一斉に自分に向けられるのを動じもせず、穏やかに受けて、ゆっくりと言葉を口にした。
「僭越ながら、白蛇にお戻りになることを、おすすめします」
 挽回の策を求めた相手に言うには、あまりにも愚かな意見だった。いくら、事実でも。――事実だからこそ。飛田当主の眦が釣りあがる。感情が、言葉が放たれる前、誰かが、何か余計なことを叫びだす前に、紅巴は続ける。
「石川家が、城を落とすだけで何もしてこないと言うことはありえないでしょう。しかし我々には後にも先にも留まるべき場所はなく、すでに、この土地に長の滞在をしている飛田には、兵糧の心配もあります。いずれにしても、本條殿を討ち果たしたのです。少なくとも、この国の東は完全に手中に出来たと言えるでしょう。今はそれで満足するべきです」
「一年に渡る時間と労力とを無にしてか!」
 怒りをあらわにして、飛田当主が吐き捨てた。気にしているのは、言葉通りのものではないはずだ。
 それだけのものを賭けて尚、神宮の人間を手中にして、周りを脅かすためにそれを前面に押し立てて攻め込んでおいて尚、一国を手中にできなかったという、事実。飛田家の――名門の家長として、家の名折れを招いた己の名声の失墜。
「留まる場所があるなら、粘ることもできるでしょう。しかしこの季節、雨風をしのぐことが出来ない場所で、野営を張り続け戦闘を続けるのは、あまりにも酷です。目前に勝利があって、明らかに優位であった時とは状況が違う」
 城の中にあっても、本條家は余裕などまるでなかった。城を囲み寒風にさらされてはいても、明らかに勝利が目前にあった飛田家には余裕があった。しかし、今はまるで違う。
 飛田当主は、我慢しかねたように采配を投げ捨てた。それが雪に吸い込まれて落ちる前に、床机を蹴倒して立ち上がる。
「陣を張る。幕の用意を」
 一拍置いて、慌てて将たちからの返答が聞こえる。軍が足を止める時は、大なり小なり、大将の所在を示す陣幕を張る。駆け出した人々を焦れた目で見送り、それから紅巴を振り返って言った。
「手ぶらでは帰らぬ」
 しかし、彼らにとっては非情にも、陣幕の準備すら十分にはできなかった。
 耳に届くものがある。民を追い払い、隊列を整えようとする指示の声ではない。使いの兵でもない。そんなものが駆けてくるよりも早く、地底から届くような、腹に頭に響く音か辺りの空気を震わせだしていた。人が歩く早さで叩かれる太鼓の音だ、地響きのような。徐々に近づいて、徐々に早くなる。
 飛田家が民からの攻撃に気を取られている間に、その騒動にまぎれて忍び寄っていたもの。
「敵襲ー!」
 叫びながら、三度目の使いが駆けてきた。



 飛田の軍は、多少とは言え、民からの攻撃で混乱していた。隊列が乱れ、ようやく正したところに、陣を敷くとの命。慌しく人々が動いていた先、進行方向から見て右手から、隊列を整えた一軍が姿を現した。ものものしく鳴り響く、合図の太鼓。そして、人の踏み鳴らす足音。雪に吸い込まれはしても、人が多ければそれは十分に威圧を生じさせる。
 突然現れた石川家からの攻撃は、まず駆けてきた騎兵によって、軍の半ばよりも少し前方、一所への猛攻から始まった。
「追い払え!」
 当主の命令に応えて、軍に食い込もうとする石川の攻撃を、飛田の兵が押し出そうとする。そのために、さらに後方からも軍を動かそうとした時だった。
 逆方向から、軍の真中よりも後方よりの位置へ向けて、新たな後添えの石川の兵が現れる。もともと軍は乱れ、将兵は思うように先へ進めないことに苛立っていた。――大将が露にした感情は、軍全体に伝染する。奇襲で相手の不意をつき、騎兵で徒歩の者を蹴散らし、石川の軍は、飛田を遮断した。前方、中央、そして後方へと。
 城を落とすのに力を割いた石川家が、そもそも、自ら力不足で状況を傍観し続けた彼らが、大した兵力を持ち合わせているわけがない。だから、遮断したと言っても、とりあえず、のこと。無謀だと言えた。
 しかしながら、軍が遮断されては、指揮系統がうまく行き渡らない。応戦のため、ひとりひとり、飛田当主のまわりからも、将が駆り出されていく。
 そして――
 さらに現れたのは、石川の兵ではなかった。前方でも後方でもなく、大将の座す陣中央の右手、そこから大きな声があがった。さすがに驚き、飛田当主も顔を振り仰ぐ。
「申し上げます!」
 駆けつけてきた兵が慌て、喉を詰まらせて叫ぶのは、ただ単に、急いでいるからというだけではないようだった。さすがに、直に大将を狙ってきたとしか思えない位置からの攻撃、先刻までよりもずっと間近で、敵の旗印もよく見える。争いのためだけでないざわめきが、周囲に満ちた。
 白い旗に、赤の色で、桜の紋。
「神宮です!」
 決定打になる言葉。飛田当主が、目を見開いて紅巴を振り返る。しかしながら彼は、同じように驚いた表情の紅巴と目があって、舌打ちした。
「討って出ろ、これ以上軍の中に踏み込ませるな」
 新たな命を受けて、兵が駆け出していく。飛田当主を守るため、周囲にいた人間が応戦に走り出した。それを見送り、飛田当主は再び紅巴の方へ目を向ける。
「どういうことだ」
「わたしには、何も……」
 どういうことか分からないのは、紅巴も同じだった。せいぜい分かるのは、石川家と神宮家が手を組んだのだろうということくらいだ。
 飛田当主は、苛々と眉根を寄せて、紅巴を睨みつける。
「立て」
 脈絡のない命令に、紅巴は反応を返しかねて困惑した。常になく、自分自身が動揺しているのも分かる。その彼の、束の間の迷いにですら苛立ちを募らせた様子で、飛田当主は足音も高く紅巴の元へ歩み寄ると、彼の腕を掴んで無理矢理に立ち上がらせた。
「お前が神宮に応戦しろ。多少の動揺は誘えるだろう。忘れられていなければ」
「しかし……」
「お前が、本気で飛田に寝返るつもりなら、これ以上の好期はないだろう! 一軍を率いて、神宮に抵抗しろ。これがお前の差し金でないと言う、身の潔白を示して見せろ」
 行く場所も戻る場所もなく、突然の攻撃に混乱しているのは、当然軍そのものだけではない。勝利を目前にして、栄光を手に入れたも同然のところを、横から背を押されて突き落とされたのでは。まっ逆さまに暗闇へと落ちだした事態に、飛田当主の怒りは尋常ではなかった。有頂天になっていた自分と、きっとそれを嘲笑っているだろう周囲への、八つ当たりのような怒り。
 紅巴の腕を掴む手に、ぎりぎりと力が込められる。睨みつける目も、感情の奥から吐き出されるような声も、赫怒に染まっていた。
「そのまま神宮へ逃げられてはたまらぬからな、おかしな動きを見せたら、後ろからいつでも刺し殺せるように見張りをつけてやる。――柳雅」
 息を詰めてただその目を見返す紅巴を睨んだまま、背中越しに弟を呼ぶ。返答は返らない。ただ、周囲の喧騒が、怒号と悲鳴が取り巻いている。
「柳雅、聞こえないか」
 再度の呼びかけに返ってきたのは、流れるような声でただ一言。
「馬鹿だな」
 聞き咎めて飛田当主は、弟がいるはずの方向を振り返る。その真後ろに、呼ばれた少年が立っていた。現状にも、兄の激昂にもまったく動じた様子はなく、赤い唇にいつもの笑みを刻んで、涼やかにそこにいた。それは、怒りに揺れる相手を、見下しているも同然の笑み。
 しかしながら、それに対して飛田当主が何かを言う間もなく、柳雅の手が伸びた。振り返った相手の、腰に帯びた太刀の柄を握る。何の迷いもなく引き抜いた。白刃が一閃する。
 当主が纏う豪奢な鎧の継ぎ目、胸板の横の脇から真っ直ぐに、刃を突き入れた。心臓をたった一突き。少しの迷いも手加減もない。
「くだらない」
 驚きに目を見開く相手にそう吐き出すと、一気に太刀を引き抜く。血を噴き出しながら、すでに息絶えた死体が、支えをなくして倒れていく。
 力を込めて腕を掴まれたままだった紅巴は、引きずられそうになりかけ、振りかかる血に濡れながらも、なんとか相手の腕を引き剥がす。顔を上げるよりも先、頭上を迫る風に気がついて素早く身を引いた。血に濡れた太刀が、目前の地面に突き刺さる。――柳雅が、投げ捨てたのだろう。
 そして間髪入れず、柳雅は自分の太刀を抜いて、紅巴に向かって振り上げた。
 何を考えるよりも先に、目の前に刺さった太刀を握る。刃に絡まった血のしぶきがほどけて、ふりかかる。打ち合わされた太刀が、ガキと堅い音をたてた。
「どういうつもりだ!」
 怒りを叩きつけた紅巴に、柳雅は太刀を引き、身を引くと、ただ首をすくめて見せた。
「先に俺を狙ったのは、そいつの方だ。先手必勝で狩られる前に、手を下しただけのこと。捕虜と俺と、三人きりになるような状況を招くそいつが悪い」
 周りの人間は、応戦のために出払っている。騒ぎも人の声も、ほんの少しの間隔を置いて、先の方だ。もし雑兵がこの光景を目にしていても、握りつぶすことが、柳雅には簡単にできる。
 そして妙な動きをする民の叛乱。その中にまぎれて、柳雅を狙い妙な動きをする――多分、どこかの手の者だと思われる人間。そして、実際に包囲中に命を狙われたこと。結局、まだ掌握の出来ていない領内に、いつ本條の臣が反旗を翻すとも再び民が暴れだすともつかない柳雅を残していくと言った飛田の当主の言葉は、柳雅を鎮静のための捨石にするのだと言ったも同義ではあるが。
「何の証拠があってそう決め付ける」
 何もかも、証拠などはない。根拠もなく、予想でしかない。民を先導したものも、潜り込んでいた者も刺客も、別の手の者かもしれない。本條家かもしれないし、石川の、神宮の、もしくはまったく別の場所からの横槍かもしれないというのに。飛田当主の考えだって、単純に言葉そのままの意味だったかもしれない。――確かに、浅はかなところのある人だったから。
 しかしながら柳雅は、反論する紅巴を見て、冷淡に笑った。
「言っただろう。誰の手の者でも、どうでもいいことだと。俺の命を狙いそうな相手を、まずひとつ排除しただけのこと」
 確証など必要ないと。
「排除だと……!」
 吐き気のする理屈だ。
「自分の兄を手にかけるなど、お前は!」
 同族殺しの家系だと、噂されていた。実際にそのせいで飛田の血は減っているのだと言われていた。だがそれでも、目の前でそれが繰り広げられるとは思わなかった。
 敵であっても、いくら戦の世であっても、気分が悪い。――それは、神宮が甘いのか。自分の考えが甘いのか。飛田がおかしいのか。
「この世で、戦場で生き抜くコツを教えてやろうか」
 逡巡する紅巴を見て、柳雅は笑みを深める。
「守るべきものは、己のみ」
 それは、悲しい理屈かもしれなかった。飛田当主が、懸命に虚勢を張り続けようとしていたのと同様に、己のみを守ろうとしなければ生きていけないのが飛田という家ならば。しかしながら、不遜に笑いながら言う柳雅には、そんな影は少しも見えない。
 彼はどこまでも尊大で、その笑みは鮮烈で、意識も存在も、強者そのものだった。
「それに、よく見ろ」
 柳雅は、自分の足元を指し示す。倒れ伏した兄。踏み荒らされた雪にしみていく赤い血。そして、その兄の腰には、太刀がなく。――柳雅に刃を向けられ、とっさに紅巴が取った、この太刀。大将の周りに従うべき諸将や兵は、応戦のために駆けずり回り、出払っていて誰も見ていなかった。たまたま、今この時だけ!
「俺じゃない。お前が殺したんだ」
 こんな状況でも、柳雅の笑みはどこか雅やかだった。返り血に鎧をぬらして、けれどもまとう空気に穢れたところがないのは、理不尽だ。だが今の柳雅を見れば、血族を恐れていた飛田の当主の方がやはり、まだ人間らしかったように思う。
「これが戦国だ。引き際もわきまえず、いたずらに軍を振り回すことしかできない凡愚が頂点に立つよりはずっといいだろうさ」
 しかしながら、柳雅のこの行動が決して、たった今思いついたことではないことが、紅巴には分かっていた。たまたま人が出払っているのに気がついた、衝動的な行動じゃない。
「知っていただろう。砦が狙われているのも、城が狙われているのも! お前がそれを握りつぶしていたくせに、情報がなくて、正しい判断などできるものか」
「現状だけでも、多少の予測はできたはずだ。それもできなかった人間が、例え何を知っていたところで、狼狽して自滅を招くだけだ。それにあんな砦のひとつ、惜しんで何になるか」
 砦だけではない、砦を落とすに至った労力ですら、簡単に切り捨てる豪胆さ。――冷淡さ。
「最初から、何かがあれば、砦など捨てて後を追ってくるように言ってあった」
 それなら、砦は落とされたわけではない。単に、飛田が捨てたのだ。まだ兵力は生きている。追ってきているのなら、飛田には援軍が来る。
「城は?」
「飛田は城のほうにはそれなりの力を割いて攻撃した。滞在している兵も少なくはない。砦のように小さなものならともかく、いくら叛乱でも民は城を攻撃などしないだろうし、それで落とせるとは石川だって思わないだろう。城を狙ってくるなら、当然石川の兵がからんでくるとは分かっていたからな。それが簡単に落ちては怪しまれる。城は、本当に落ちたのだ」
 見捨てたのだ。
「石川は、城を落として満足している。こちらが罠にはまったと思っている。神宮もだ」
「自分だけ把握して、誰も彼も騙したのか」
「何が悪い。最後に勝てばいいことだ。どうせ石川には、飛田の軍を分けてそのまま長く抑えていられる余力があるとは思えない。そもそも、こちらの斥候に見つからずに行軍してきたのなら、神宮にも大した兵力があるとは思えないし、奇襲をかけて驚かせておいて、浮き足立ったところを、当主を狙うつもりなら、迅速でなければならない」
 しかし、当の大将は死んでいる。
「さあ、どうする。神宮のお人は」
 言葉に詰まった。
 柳雅は結局、紅巴を神宮の人間としか見ていなかった。そして、この状況を彼が招いたものでないことくらい、当然分かっていた。紅巴を取り巻いていた環境に、そんな隙などわずかもなかったのだから。
 だから、神宮家が一体どういうつもりでこの戦に参戦しているのか、どうするつもりなのかわかっていないのも、十分承知しているはずだった。
 しかしこのままでは、神宮は確実に窮地に追いやられる。束の間逡巡し、行動に迷った。その間に、柳雅が外の喧騒に負けないよう、大声で呼ばわる。
「誰かあるっ。反逆だ。捕虜が逃げるぞ!」
 彼の声は低く通りがよく、気づく人間も多いだろう。ハッとして見ると、柳雅はただ笑んで紅巴を見る。
「どうせその足で、この状況で、生きては逃げられないだろう。覚えておいてやってもいい。この傷が消えるまでの間くらいは」
 柳雅の右の頬に刻まれた傷。夏の戦で、紅巴がつけたもの。結局、紅巴がいた証など、人につけたそんなものでしかないのか。――この男にとっては。
 紅巴は奥歯を噛み締め、柳雅を睨みつける。人が駆けつけてくる足音がする。鎧が鳴る音。惨劇を見て、驚愕の声を上げるのが聞こえた。顔を巡らして、陣営の入口を見る。兵が数名駆け込んでくる。手にした槍を構えて。
 紅巴は再び柳雅に視線を戻した。彼が行動に出る様子がないのを見て取ると、踵を返して走り出した。駆けてくる人に向かって、両手で握った太刀を構える。もう、迷う心も何もかも消えうせていた。
 一人二人と斬り伏せて、外に飛び出す。考える間もなく、紅巴を見咎めて駆けてくる兵があって、すぐに再び走り出す。
 飛田家の陣中、柳雅の命令がどれだけ早く行き届くか、その間にどれだけ早くこの陣から逃げられるかで、全てが変わってくる。ありがたいのは、誰もが目の前の敵に気を取られていること、飛田当主の命で張りかけた幕屋が放置されており、目隠しになることだった。ほとんどの兵が、出払って応戦している。
 走りながら、周囲を見回す。紅巴がいる飛田家の陣中央は、三方を敵に囲まれていた。この状況で、この体力で、乱戦状態になっているところに紛れ込んで、無事に反対側へ抜けられるとは思えない。そして、神宮家の軍に紛れ込んで、逆に神宮の兵に討たれないとも限らなかった。――どちらへ向かうべきか。
 迷いながらも、とにかく柳雅のいる陣幕から離れるために足を動かして、ひたすらに前へと走り続けた。



 馬の蹄の音がして、ようやく将の一人が駆けつけてきたのは、紅巴が逃げ出した後、少しの間をおいてのことだった。応戦の用意を整えていたところに、騒ぎを聞きつけたのだろう。紅巴に斬られて倒れている雑兵を見て驚き、そして立ち尽くす柳雅と雪の上に散らばる赤い染みを、柳雅の雑兵に囲まれ、ぐったりとした身を起こされている飛田当主を見て、驚きの声を上げる。
 間近で馬を飛び降り、二、三歩進んで、そのまま力が抜けたかのように膝をついた。
「これは、一体どういうことなのです。何が起きたのですか。それに、神宮の……」
 動揺し、当主の遺体と柳雅を見比べる相手に、柳雅は大きく息を吐いてから応えた。
「俺が傍についていながら、不足だった。周囲に人がいなくなったと見るや、あいつが突然兄上の太刀を奪って、兄上に斬りつけて……」
 愁傷に言いながら、飛田当主の腰を指差した。豪奢な太刀を身に帯びていたはずの飛田当主の腰には、鞘だけが残されている。
「お屋形様のご慈悲で生き永らえた身で、なんということを……!」
「取り押さえようとしたが、逃げられてしまった」
「だからわたしは、神宮の如き凡夫を軍に置くのは、反対だったのです!」
 飛田の将は、悲痛な声を上げる。
「やはりこの突然の攻撃も、神宮と結託して」
「だろうな。あまりにも奴らに都合よく運びすぎる」
 それとも、とつぶやいて柳雅は続ける。
「神宮を見限ったのも、見限られたのも本当だったかもしれないな。しかし神宮家が今こうして飛田を攻撃してきたために、自分の立場が危うくなったのを悟って、当主の首を土産に、再び神宮家に逃げ帰ろうとした」
「なんと、卑劣極まりない」
「なめられたものだ、飛田家も!」
 眉をしかめ、やり場のない怒りをぶつけるかのような、強い声で言う。鋭い眼差しは、自然と当主の遺体の方へ向いていた。遺体を起こし、簡素な担架へと横たえていた兵たちが、怯えて身をすくませる。
「しかし、どうなさるのです。ご当主が、こうなった以上は……」
 大将が討たれれば、軍は浮き足立つ。統率する者がいなくなり、兵は行動に迷う。そもそも、目的を失う。そうなれば、投降するか、逃げ出すか、これまでだと思い、自刃するかなのだろうが。
「お前は、このまま、こんな所業を許しておけるのか」
 柳雅の冷たい眼差しが、自軍の将へ向けられる。絶望にとらえられ、同時に怒りに彩られた将の顔は、あまりにも冷ややかな視線を受けてすくみ、そしてすぐさま吐き出すように言った。
「まさか!」
 そうだろう、と柳雅は受けて、顔を上げた。――当然だ、自分たちの主に取入り、騙し、殺害した者を、見逃すようなことをするわけがない。そもそも、お互いにいがみあって久しい神宮家と飛田家ならば。
「馬を持て。俺が陣頭に立つ」
 命じられて、控えていた兵の一人が駆け出していく。動き出した事態に、飛田の将は嘆くばかりでなく、すぐに居住まいを正した。頭を下げ、命令を待つ。
「何が起きたか、すぐに知れ渡ることだ。それならはじめから、兵には包み隠さず知らせろ。全軍を持って神宮に当たり、兄上の仇を討つ」
「御意」
 叫ぶように応える将の声は、少し涙に揺れていた。悲しいものよりも、悔しさと怒りに、揺れる声。
 卑劣な行為を許すな。犠牲になった当主の、弔いを。仇を討て。そういった怒りは爆発しやすい。操りやすく、返せばそれは、士気を高めるのと変わりない。
「どうせ、神宮の軍へ逃げ帰るに決まっている。それならそれで構わぬ。神宮家ごと、叩き潰してやる!」



 突然腕を強く掴まれて、紅巴は何を考えるよりも前に、思い切り振り払った。彼の腕を掴み命じた飛田当主の手を思いだす。そして、柳雅の暴挙を。
 無理矢理それを押しやり、腕を掴んだ相手を見るよりも前に、手に握ったままだった太刀を振り上げるが。
「若君!」
 驚き慌てる声が聞こえて、上げた手が止まってしまった。どこから聞こえたものなのか、誰が誰に向けてそう呼んでいるのか、考えてしまった。
 そこにきてようやく、呼びかけてきた相手の、飛田の鎧を着た人間の顔を見て、唐突におかしくなって笑ってしまった。走ったせいで早まった動悸とこみ上げる笑いで、息が苦しい。
「何をやってるんだ?」
 誰何の声をかけるまでもない。当然、飛田の人間が、紅巴に向かってそんな呼び方をするわけがない。
 それは紅巴自身、見覚えのある神宮の将だった。木崎と言う名の壮年の将は、血に汚れた飛田の雑兵の小具足を身にまとい、息を切らして紅巴の前に立っている。彼の周辺、数人の兵が見えるのは――彼に付き従っているようだから、同じように、彼に従ってついてきた神宮の兵だろう。
「笑わないでください。あなたを助けるように命じられて、やっとなんとかこちらに紛れ込んだんですから」
 救出劇と再会にあたって、突然笑われるとは思わなかったのだろう。真面目な顔をした木崎は、少し腹を立てたような表情で言った。
「どこかお怪我を?」
「ああ、これは、ぼくじゃない」
 返り血に濡れた自分の姿を見下ろし、それから相手の格好を見て、再び笑いがこみあげてくる。
「そんな格好をして、逆に味方に攻撃なんかされたらどうするつもりだったんだい?」
「ちゃんと目印がついています」
 言われて見ると、確かに腕には白い布が巻かれている。
 今はまだ、戦闘の波が押し寄せてきていない陣の内側だから、こうして話などしていられるものの、混戦状態の前線でいちいち目印など確認している余裕があるはずもない。彼らがたった今姿を見せたと言うことは、もともと紛れ込んでいたものではないのだろうから、前線を通り抜け、飛田の陣の内側に駆け込んできたのだろう。それは大変な労力と危険があったはずだった。
「そこまでして、どうして飛田の陣に? 柳祥殿なら――」
「違いますよ。それも、できればの下知はありましたけど、暗殺目的じゃありません」
 紅巴の言葉に、少し力の抜けた笑みを浮かべて、木崎は言う。
「あなたは、変わらないですね。勿論、我々はあなたをお守りして、お連れするようにと遣わされたのですよ」
 吐息がもれた。目の前を、白い空気が掠める。紅巴が顔をうつむけると、木崎は再び彼の腕を掴んだ。飛田当主が陣を張るといったときに、用意されて放置されているいくつかの天幕のうち、近くに建つものに駆け寄る。――彼の飛田の兵の扮装は、こんなところでも役に立っていた。兵に追われていた紅巴を捕らえているのだと誰もが錯覚する。身を潜めると、彼は言った。
「お屋形様から、命じられております。まずはあなたの真意を問うようにと」
 何の示し合わせをしたわけでもない。紅巴が飛田の配下へ降った現実は、やはり神宮家へ逡巡とためらいを招いたのだろう。紅巴は、小さく笑みを浮かべる。
「父上は、ぼくをなめているのかな」
 くすくすと、笑いがもれる。けれども木崎は、今まで何度も紅巴に従って戦へ足を運んだ将だった。どちらかというと、流紅よりも紅巴寄りの人間で、確かに彼が紅巴を迎えに来たのなら、簡単に見捨てられることはないだろう。その人選を思うだけでも、そんな命令をしておきながら、結局父は何もかもをお見通しなのだと思うと、おかしかった。
「ぼくは、いつでもどこにいても、神宮の人間でしかないよ。帰れるものなら、帰る」
 紅巴にとっては、これ以上ない人選だ。だが、神宮のことを思うなら。
 実質、神宮は流紅を次期当主と決めた。それを皆も認め始めている。そこに紅巴が帰るのは、良いことなのだろうか。
 ――家中に、混乱を撒くことになりはしないか。
 よぎったことを、とりあえず押しとどめておく。後でもいい問題だ。
 紅巴の返答を聞いて、木崎はあからさまにほっとした様子を見せた、違う返答を返した時の命も、受けていたに違いない。
「背負ってでも、神宮へお連れいたします。必ず」
 断固として言い張る木崎に、紅巴はまた笑みを浮かべる。律儀なこの将なら、実際にそうするだろう。
「なぜ神宮がここにいる」
「石川との盟約で。石川家は、この土地を手土産に神宮へ降ると。神宮家は形だけの参戦ですが」
「流紅を陣頭に押し立ててか」
「そうです」
 木崎は、はっきりと言った。
「我々は、あなたをまず保護するようにと使わされました。弟君は、飛田の当主を討つことを最優先に、最短で戦を終わらせると」
 奇襲は、すみやかに行動してこそ意味がある。柳雅が言ったように、迅速だからこそ意味がある。けれど、彼らが駆けつけてくる間に、彼らの知らない間に、状況はまったく変わってしまった。それも彼らの手によってではなく、敵自身の手によってだ。この先どう転がるというのか。
「誰かすぐに動ける者は」
 声をかけると、すぐに木崎が、誰でもお望みの通りに、と応えた。生真面目な彼に笑みを向け、紅巴は再び思案する。
 普通、戦の大将が討たれたなどという情報は、何が何でも押し隠すもの。一気に軍が崩れるのは必至だからだ。しかし、どうする。もし自分が飛田家の立場なら。戦の真っ只中で、あんなことを仕出かした柳雅の立場なら。彼が、勝算なくあんなことを仕出かすとは思えない。そして、考えがあるからこそ、紅巴を逃がしたのだ。
「神宮の陣へ戻って、飛田当主が討たれたと知らせろ。石川にもだ」
 神宮は浮き足立つだろうか。知らせを受けた将その人が血気に逸れば、朗報であってもかえって軍は混乱する。しかし、流紅なら引き締めていられるか。
「流紅には、ぼくの無事を知らせてほしい」
「しかしそれなら、あなたが、ご自身で軍にお戻りになれば……」
 何か良からぬことを考えて自分を危険にさらす気では、と怪しむ様子の木崎に、紅巴は静かに返す。
「ぼくでは、この混戦状態の中を突き抜けて知らせを持っていくには、不安がある。別の者が行った方が早い」
 またそんなことを、とぶつぶつ呟いてから、木崎は、ハッとした様子で言った。
「飛田の当主が死んだとは、本当ですか。騒ぎが聞こえたのは、そのせいなのですか。一体誰が」
「でまかせじゃないし、殺したのはぼくじゃない。でも、この際それはあまり関係ない」
 事実がどうであれ、それは大した問題ではない。結果として、何を表に出せば人を誘導できるかが重要だ。
 どちらにせよ、神宮がこうやって出てきて飛田と争うのであれば、機を狙って紅巴自身が実際に手を下さなかったとも断言できない。
 それに、柳雅が紅巴を利用しようとするのなら、神宮にだって同じことだ。捕らえられていた嫡男が、敵の大将を討って復讐を果たし、軍に戻ってきたというのは。十分に士気を高めることが出来る種だ。しかし。
「当主がすでに亡き者であれば、この戦はもう勝ったも同然ではないですか」
 木崎はそう言うが。そもそも、どうすればこの戦は終わるのか。
「大将が討たれたら、戦は終わりか?」
 疑問を口に上らせる。声に出してみて、そんなわけはない、と心中で答えが出た。
 柳雅が、飛田の当主を殺したことで、事態が思わぬ方向へ転がりだしている。もし飛田の当主が戦闘中に陣頭で討たれたのなら、例え柳雅が陣を保とうとも、士気が下がるのは防げないことだろう。利用しようなどとは思わないはずだ。素直に撤退したに違いない。
 しかしながら、事態はまったく違う。この土地を手に入れたかったら、本條を下さなければならなかった。しかしながら本條家は、すでに落ちている。本條を追い落とした飛田をどうにかしなければならないのというのなら、当主はすでにいない。それなのに、飛田の陣は崩れていない。――まだ、この事態が知れ渡っていないからかもしれないが、それだけではないはずだ。
 飛田家には、まだ柳雅が。
 こうなったら戦の展開は、柳雅を討つか、流紅が討ち取られるかの、どちらになってしまう。それとも、消耗戦になるか。
 柳雅が何を言おうと、現状では、優位なのは当主の討たれた飛田ではなく、神宮の方だ。しかしながら、だらだらと消耗戦になり戦が長引けば、石川は飛田を抑えていられなくなるだろう。更に、蒲原を捨てた飛田の兵が追いついてくる。迅速に終わらせてこそ神宮に利があり、長引かせてこそ飛田家に有利に運ぶ。飛田は粘るだろう。――それが、できるはずだ。
「とにかく、どこかで馬を拝借しよう。ここにいつまでも留まっているわけにはいかない」
 あとは紅巴自身が、神宮の足手まといにならないようにしなくてはならない。自分から、あちらの陣営に走っていく必要がある。そしてあとはただもう、自分自身の存在が、これ以上この戦の流れを止める存在にならないことを願うばかりだった。



 飛田家の動きが妙に活気づき始めたのは、突然のことだった。活気づいたというよりは、突然火がついたかのように、声をあげ、突進してくる相手に対し、神宮の兵は少なからず怖気づいた。
 声をあげ、異常とも言える空気を放ちだす敵軍に、多少なりとも困惑の色を隠せない。戦の前線が、軍全体に拡大しつつあった中、自分自身も馬に乗って戦局を見ていた流紅は、その最中に知らせを受け取った。
「そうか」
 まず兄が無事である報と、こちらへ向かっているとの知らせを聞いて、顔を輝かせる。次いで知らされた飛田当主の訃報を耳にして、まわりで同じようにその報告を受けていた人々が、歓声を上げる。勝った、と誰かが声をあげ、浮かれた空気に染まりかけた。寒気を振り払い、空気が熱く染まる。浮ついた空気は伝染しやすい。しかしながら、流紅の表情は硬い。
「それでか」
 飛田家が突然、活気づいた理由。執念を燃やすかのように、攻撃に勢いづいた理由。
「兄上は、他には?」
「飛田家には援軍があると」
 そうか、と短く返す流紅にかわり、別の者が声を上げた。
「しかし、いくら援軍があろうとも、当主がいなくては、軍が崩れるのも時間の問題だろう! 援軍が来るまでに、簡単にこちらが抑えられますぞ」
 口々に、将兵が声をあげる。まるで、鬨の声のようだと思った。実際そう言ってもいいだろう。勝った喜びにあがるのが時の声ならば、人々はすでにもう、勝ったつもりでいる。――しかし、現実に見て、飛田の陣は崩れてなどいない。
 束の間思案し、流紅はすぐに傍らにいる武藤家の嫡男へ命じる。
「講和の使者を」
「……どういうことですか?」
 ざわめく人々を背に、尊芳が問い返す。
 状況を見れば完全に優位に立っている。それなのに、和睦の使者を出すなど。
「普通なら隠すはずの当主の死を前面に押し立ててくるって事は、飛田家には策があって、まったく負ける気がないってことだ。援軍を別にしても、勝算があるんだろう。浮かれるのはまだ早いぞ!」
 叱責の声に、ざわめきが鎮まる。
「そもそも、蒲原の砦も、才郷の城も落としたのだから、この国の西の地は手に入れたも同然だ。多くは望まない。調子に乗って攻撃を続けて、引き際を見誤ると、足元を掬われかねないからな」
 飛田家が冷静ならば、もし兵力を失い、兵糧を無駄にして国への負担を重くしたいと思うのでないのなら、講和を受けるだろう。飛田家にしても、この国の東はすでに手に入れたようなものだ。本條も討たれた今、そちらの領土の臣たちも素直に飛田に従うだろう。悪あがきするのが得策でないことくらい分かるはずだ。――冷静ならば。
「兄上ならそうする」
 つぶやき、兄の無事を確認したとは言え、まだ彼は敵陣の只中にいるのだということが、脳裏をよぎる。まだ無事を自分自身で確認できたわけではない。停戦の使者は、彼にとってどういう働きをもたらすか、予想がつかなかった。
 ――早く。
 切実に願う。早く、戻ってきてほしい。無事を確認したいと言う思いだけではなかった。また戦局が思わぬ方向へ動いたりする前に、神宮の庇護下にいてほしい。何が起きるか分からない。それが戦だ。戦の前に父が言っていた不安が消し飛んだのはありがたいが、それならそれで、あの人は、何をしでかすか分からない。
 兄の下へ使わした将兵がきちんと彼を守り、とどめてくれることを願いながらも、流紅は神宮の軍のために、声を上げた。
「神宮が動くなら、石川だって不満はないだろう。急げ!」



 停戦のため、黄色い旗を掲げた使者が、雪を巻き上げ戦場を駆けていく。入り乱れ、刃を交えていた人々も、猛然と駆けていくその騎馬を慌てて避け、見送った。神宮の陣中から飛田家に向けて駆け出した馬は、しかしながら、飛田の本陣に到達する前に、足を止める。
 飛田の陣営から放たれた幾筋もの弓矢が、騎馬を襲った。馬も人も全身を貫かれ、大きな音と共に、地面に落ちる。
「卑劣な!」
 あがる声に、飛田家は答える。卑劣なのはどちらだ、と。
「仇を討たずに、この戦を去ることなどあり得ない!」
 怒鳴り返される声。そして、飛田の軍の後方がざわめき始めていた。蒲原から急ぎ、本陣を追って来ていた後援の軍が、近づきつつあった。



 血気に逸った飛田の軍に対して、神宮が持ちかけた講和など、大した効果もなかったのだろう。濁流を押しとどめるのに、たった一本の杭ではどうにもならない。
 思った以上に勢いづいている飛田家と、到着が間近に見える援軍に、遅かったと舌打ちするしかない。もう少し、もたらされた報告が早ければ。しかしながら、神宮を気遣って知らせてくれた兄も、混戦の中を駆け抜けて知らせを持ってきた兵も、彼らにとって最善を持って動いてくれた結果だった。何を悔やむことも、責めることも筋違いだ。
「もう一度、講和の使者を立てる」
 流紅は、誰にともなくそう言った。
「きっと無駄です」
 案の定、傍近くに控える尊芳が、そう止めるが。
「だからと言って、このままでは、戦況がひっくり返ってしまう。何もしないよりはましだ」
「しかし」
「飛田も神宮も、決定打がないままに、お互いに消耗するだけだ。どうして、分からないんだ」
 どうして、飛田家は。
 確かに甚大な労力を払って、一度はこの領土を手に入れたも同然だった飛田家にとって、講和など業腹なのかもしれない。しかし、本條家に呑まされた煮え湯は、神宮も同じことだ。簡単に引けないことなど、あちらも分かっているはずだ。その相手からの停戦の使者を、簡単に打ち捨てるなど。最後の一兵までと言うつもりか。
「他の者が出て無意味なら、わたしが行く。それなら、無下にもできないだろう」
「確かに、それなら話くらいは聞くかもしれません。しかし条件に、何かを出せと言われたら、どうなさるおつもりです!」
 尊芳が、声を上げる。手綱を握る手に力を込めて、流紅は戦場を睨みつけた。そうだ、流紅が行っても無駄かもしれない。仇討ちを叫ぶ飛田家には。――彼らが勢いづいた理由が、それなら。
 それでも、と馬を進めようとした流紅は、彼を守るための馬廻の兵を掻き分けて進んでくる騎馬を見つけた。使い番の兵は、大慌てで大将の元まで来ると、馬上から叫ぶ。
「飛田本陣より、一軍あり。陣頭にて指揮をとる飛田柳雅に向けて、攻撃を仕掛けた模様」
 本陣から? 頭の中を行きかう問いと、思い至る答えに、全身から血の気が引くようだった。白い息を吐いたまま凍りついた流紅のかわりに、尊芳が、どういうことだ、と問いを発する。
 息を切らし、せわしなく口から白い呼気を吐き出しながら、知らせを持ってきた兵は、一言叫ぶ。
「紅巴様です!」



 風が乱れている。人々が背にさした旗指物がなびいている。黒の鎧の飛田家と、赤の揃いをまとった神宮の兵が入り乱れて戦っている。その最中、突然大将の傍近くに現れた一軍に、さすがの飛田家も動揺した。
 木崎が連れて、飛田に紛れ込んだ兵は決して多くはない。人目につくのを避け、選んだ必要最低限の兵は、だから他を圧して驚かせるには足りない程度でしかなかった。
 しかしながら、自軍の陣中、間近からの攻勢には、さすがに飛田家も動揺した。まずは少数精鋭で、待機していた騎馬兵を襲って馬を手に入れ、真っ直ぐに陣頭に立つ柳雅の、彼を守る一軍の前。
 地響きをたて、雪を蹴散らし白い煙を上げて進む騎兵に、将を守るはずの歩兵たちが慌てて道をあける。混戦状態の最中、馬上で太刀を抜いて自身も戦闘に加わっていた柳雅の、真向かいに来て彼らは止まった。――戦の最前線で。
 馬も人も、自らの体温をさらすように、寒気の中白い息を吐きながら、堂々と足を止めた。そして何のためらいもなく、何事かと成り行きを見る飛田家のほうへ、一騎が進み出る。仇討ちを叫ばれる張本人だと言うのに、後ろめたさも見せず、高らかに声を上げた。
 ――やはり、こうするのが最初から良かったのかと、ざわめく飛田の陣営を見ながら思う。木崎と共に行動しながらも、仇討ちを叫ぶ飛田の兵に、そう来たか、と舌打ちした。だからこそ逃げ出した紅巴を執拗に追って来なかった。最初に逃げ出さず、留まって、柳雅を抑えるべきだったのか。
「我は、西方神宮家が当主、神宮嘉銅が嫡男にて、神宮紅巴と申す者」
 穏やかに続ける。
「飛田殿に、一騎打ちを所望する」
 すぐに、馬鹿な、と声があがった。自分は卑劣な手段で当主を討ったくせに、と叫ぶ声がある。
 しかしながら、紅巴には分かっていた。柳雅にも、重々分かっているはずだ。
 仇討ちを大義名分にするのなら、柳雅が出てこないわけにはいかない。先程の、講和の使者へ対するようなことをするわけにはないかない。いかな飛田家でも。――同族殺しの根付いた飛田家だからこそ。いくら紅巴を下手人に仕立て上げたところで、紅巴が飛田家において身の証を立てなければならなかったのと同様、柳雅は身の潔白を示す必要がある。
 周囲ではまだ混戦が繰り広げられる場で、少しだけ強引に作られた隙間に、騎馬が一騎進み出る。漆黒の馬には、同じく黒い鎧をまとい、流麗な髪を背にたらした美しい人が騎乗している。鎧の上から纏った白い上掛を風になびかせた、飛田家の新しい指揮者だった。


「また会ったな」
 くすくすと笑う声は、楽しげだった。無理矢理にも引きずり出されたのに、彼はいつもと変わらず余裕にあふれている。
「それで? 次はどうする」
 すらりと太刀を掲げて、柳雅は涼しげに言った。紅巴もそれ受けて、穏やかに返す。
「ぼくを試したいのか?」
「そうかもしれないな。どの程度まで踏ん張ってくれるか、楽しみだったんだが」
「まだ、何もかもが決したというわけじゃないだろう」
「こんなところに出てきてか?」
「ぼくを泳がせておくのが、お前の手なら、逃げ隠れしても逆効果だろう。このままでは神宮の陣営に帰ることも出来ない」
「足手まといだからな」
 再び柳雅が笑う。それには応えず、紅巴は手にした太刀を振るった。刃が打ち合わされる音が鳴り響く。片手で手綱を繰りながら、太刀を振るうのは、簡単なことではなかった。
 打ち合う端から、腕から痺れるような感覚が這い上がってくる。長の行軍と、陣中を走り回ったことと、もう十分に、自分自身の限界を超えているようだと分かっていた。けれども結局、柳雅を抑えなければ、どうにもならない。それが出来ない場合の、後の手は、どうあっても避けたいものだった。だから――
 打ち合わされた太刀を、なんとか押し返す。鍔迫り合いのまま力いっぱい抑えた太刀は、相手の反発にあって、お互いに体制を崩した。もつれ合って、馬から落ちる。雪が煙のように舞い上がった。
 息があがる。喉がひりつくようだ。胸が痛い。それでも紅巴は身を起こして、仰向けに倒れた相手に向かって太刀を振り下ろした。辛くもそれを刀で受けた柳雅の手が片方、勢いに押されて刀の柄から外れる。取り落とすまではいかないが、十分な隙だった。再度太刀を振るう。飛田当主の血を絡みつかせたままの太刀は、過たず柳雅の肩を捉えていた。
 血飛沫があがる。けれどもすぐに、紅巴は胸を蹴り飛ばされ、雪の上に尻餅をついた。
 片手で肩を抑えて柳雅が起き上がる。どよめきが、背後から聞こえた。自らの血で顔を赤く染めながら、柳雅は凄艶な笑みを顔に刻んで、嘯く。
「雅やかな神宮のご長男が、こんなに剣術達者だとは思わなかった」
「雅さでは、飛田のお人にはかなわないよ」
 紅巴は起き上がり、太刀を構えたまま言い返す。さらに呼気を吐いて、足を踏み出そうとした。けれども、虚空できらめいたものに、動きが止まる。気がついていても、俊敏な対応ができなかった。狙って放たれた矢のうち幾らかは払い落としたが、防ぎきれなかったものが、腕に突き刺さる。
 痛みと勢いに、足がふらついた。雪の上に膝をつき、飛田の軍勢を、柳雅を睨みつける。
「若!」
 叫んだのは、どちらの陣営だったか。紅巴が弓矢にひるんだ隙に飛田の軍から人が走り出て、柳雅を庇いながら、さがろうとしていた。まだ、何の決着もついていないと言うのに。
 ――でも、これでも少しは、何かの役に。
 思いながらも、なんとか立ち上がり、紅巴は周囲を見回した。紅巴の供をして駆け出してきた木崎たちを目で探る。彼らは周囲の飛田の兵を抑えるので必死だった。紅巴が柳雅を負傷させたことで、俄然、間近にいた神宮の兵は勢いづいている。けれども、その誰も、単純に紅巴を助けるために駆けてくることは出来ないだろう。視界に、柳雅を助けるのとは別に駆け出してくる飛田の兵が見える。
 孤立する。このままでは。
 急いで身を翻し、とにかく目の前の飛田の軍勢から逃れるために、駆け出そうとした。けれども、思考を、体の動きを、何かが邪魔をする。――されているようだと、思った。
 とにもかくにも、追いすがってくる飛田の兵へ、太刀を振るう。敵を切り伏せ、再び前へ進もうとするが。
 走れない。足が重い。
 喉が激しく鳴っている。頭の奥で、血の脈打つような音が響いている。雪を蹴散らして走るのは、ひどくもどかしかった。前に前にと足を動かす意志だけは何よりも強いのに、体がついてこない。右脚が、思うように動かない。柳雅に折られたところ。
 ――走れない。
 もれる息が白く、視界も白い。鎧が入り乱れて、血の色があちこちに溢れているというのに、白かった。思ってから、再び雪が降り出しているのに気がつく。
 ……雪は。
 ちょうど一年前、そのときも戦場で見たのだったか。
 昨年の冬を思い出す。夏の戦を思いだす。結局、どちらも足手まといになってしまった。そして、今も。
 まずい、と思った。その背後から、声がする。
「捕らえろ!」
 柳雅だった。殺せ、ではなく。
 ――あの、少年は。
 傍若無人で、自信にあふれていて、凍りつくように美しいあの少年は、どこまでも、利用できるものは利用するつもりのようだった。
 掴まえてどうするつもりかは分からないが、先の戦の時のようにはならないだろうということは、分かる。
 捕まるわけには行かない。
 息を吐く。強く顔を上げる。その耳に、また遠くから声が聞こえた。
「再度飛田に講和を申し上げる!」
 神宮の陣営から。信じられない思いで、声のした方を探る。馬が駆けてくるのが見えた。赤い鎧を着て、茶色のやわらかな髪をなびかせて駆けてくる少年。
「指揮官も手傷を負われた様子、一騎打ちを逃げ出し、こちらに相対できないのであれば、我が方の申し出をお受け願いたい!」
 まだ、遠い。辿り着くには遠い。けれども、さすがに飛田の陣営からもどよめきが上がる。振り返れば、奥へ引っ込みかけていた柳雅が足を止めていた。片手を挙げる。それを見て、何を考えるよりも前に叫んでいた。
「流紅!」
 声の意味を理解しただろうか。呼ばれた少年は、慌てた様子で手綱を引いた。馬が足を蹴り上げる。その間近に付き添っていた神宮の騎兵が、流紅に体当たりするかのように、もろとも馬の上から転げ落ちた。その頭上を、幾筋もの矢が通り過ぎていく。射られた馬が、もんどりうって倒れた。
 返す返すも、飛田家は。振り返り、紅巴は柳雅を見た。肩を押さえ、脇を支えられて立つ黒髪の少年は、紅巴の視線を受けても平然と笑う。
 ――どうあっても、簡単に、帰るつもりはないということか。
 負傷程度では、少しもひるんでくれないということか。やはり、あの人は。
「再度、飛田家に、講和を申し上げる」
 すでに三度目。あがる息を呑み紅巴が上げた声に、周囲の人間の目が、自分の方へ向くのが分かった。神宮も飛田も。紅巴の方へ向かっていた飛田の兵が、何事かと足を止める。
「飛田家は、国の東をもっていかれるがよろしかろう。蒲原と、才郷を抑えた神宮は、西の地をもらう」
「わが兄の慈悲で生き永らえた者が、いかな戦国の世とは言え、卑劣な手段で相手をだまして命を奪った。そのような人間の言葉に信はおけぬ」
「神宮の将は、ぼくではない。流紅だ。お前が信のおけないのは、流紅なのか、ぼくなのか」
「答えが必要か?」
 周囲の喧騒に負けず、強く言い返す柳雅の声は、相変わらずにも雅やかで、嘲るようだった。
 分かっていた。はじめから。単純にそうすることが、何よりも講和の役に立つことも、飛田の大義名分をなくすことができるということも。だけど、これだけは避けたかった。どうしても。だから、何とか柳雅を抑えられればと思ったけれども。
「木崎、兄上を連れ戻せ!」
 叫ぶ声が聞こえる。紅巴は知らず、頬に笑みを浮かべていた。
「木崎、ぼくよりも流紅を守れ」
 静かに声を上げる。人の波をかきわけようとしていた将は、憤慨して怒鳴り返した。
「何をおっしゃいます!」
「神宮を思うなら、そうしろ。停戦の使者は必要ない!」
「兄上!」
 咎めるような声が聞こえる。引き上げさせなければならない。再び標的になるようなことがあってはならない。
 ――柳雅の言葉に反して、白蛇の雪を見ることはできた。だけども、彼の言う通り、桜花の桜は望めないだろう。
 馬を射られ、徒歩かちで駆けてくる弟を見ながら、紅巴は人々に蹴散らされ、靄のように巻き上がる雪の中、佇んでいた。何の命も下さない主に対し、飛田の兵は動きかねているようだった。
 ひどく、静かだ。
 血煙の中にあって、呼吸は苦しくても、それでも心は静かだ。それこそ降り積もった雪の日の、誰もいない朝のように。
 悲嘆に暮れた結果ではないからだろう。それともやはり、嬉しいのかもしれない。助けに駆けつけてくれたことが。自分で選ぶのだということが。
「ぼくも神宮の血を引く人間だ。神宮家の恥になるわけには行かない」
 その言葉に、紅巴がどうしようとしているかなど、察しない人間などいない。
「兄上、栄光ある死など、わたしは望まない! あなたは神宮家に必要な人間だ!」
「お前がいる」
 紅巴は、静かな顔で微笑んだ。
「わたしにすべて押しつける気か!」
 誰もに流紅が言われ続けたことなのだとは、紅巴も知らないはずだ。だけどもしたたかな兄は、笑ったまま言った。
「押し付けるよ。このことに責任を感じるなら、流紅が神宮を良い国にすればいい」
 簡単に言い切られ、束の間流紅が言葉を飲み込む。
「流紅、ぼくも栄誉は望まない。だけど、お前と、神宮と、民のためだから」
「わたしがそれを望まないんだ。あなたが必要だ、兄上!」
 泣き叫ぶ流紅を見て、相変わらずだな、と思う。
 流紅を、殺してやりたいと思ったほど、憎んだこともあった。それはとても幼い頃の話ではあったけれども。あまりにも遠い昔のことで、そんな記憶も霞んで遠い。
 小さな頃はよく一緒に剣の稽古などもした。だけど一度、紅巴が流紅に怪我をさせてしまったことがある。大したものではなかったが、流紅の泣く声に臣が慌てて駆けて来て、紅巴を叱責した。黙ってそれを聞き、誰もが流紅を気遣い手当てのために連れて行こうとしてるのを大人しく見ていた。その頃には泣きやんでいたはずの流紅が、人々に囲まれながらまた泣きそうな顔をしていた。とても申し訳なさそうな顔で、紅巴を見ていた。それは紅巴を一層惨めな思いにさせたし、馬鹿にしていると怒ってもいいものかもしれなかった。
 そんな紅巴の気持ちに、流紅が気づかないわけがない。だけども、向けられていたのは、ただ紅巴を気遣う目。そしてそれまでいつも、稽古をしようとしつこいくらいに紅巴にまとわりついていた流紅が、二度と稽古をしようなどとは言い出さなくなった。
 優しい弟を憎み続けることができるわけがない。
拒絶を向けても慕ってくる彼を、愛しいと思えないわけがない。強く毅然と立つ心を、妬むよりも羨むよりも強く、愛しいと思わないわけがない。
 眩い陽の光を憎んだりしないのと同じように。
 ――生き延びるための理由が、命を盾にされるためだけでも構わないと、思った。生きてさえいれば、機を見て逃げ出すこともできるだろうから。
 でももし、それが現実になるのなら、物事は振り出しに戻る。紅巴の命の問題は、彼一人の手に余るものになる。仇討ちを大義名分に押し立てる飛田家を抑えるのには、その仇を討たせるしかないのなら。
 百合姫に、生き延びると約束したそれは、嘘ではない。本心だった。
 だけどもそれは。最も優先されるべきことが目の前に立ちはだからなかった場合のこと。嘘ではない、本当に、彼女を迎えに行くことができたらいいと思う。
「できればもう一度、桜花の桜が見たかった」
 つぶやく。あまりにも小さくて、平凡な願いだった。故郷に帰りたいというのは、けれども、あまりにも難しすぎる問題だった。
 そして、顔を上げる。冷笑を浮かべる少年に対して。宣戦布告のように、強く声を上げた。
「神宮家の誠意の証を受け取るがよろしかろう。我が身に信が置けないと言うならば」
 心の中で少女に詫びて、手にした刀を一閃させる。腹ではなく、確実に首筋を狙ったものは、彼の覚悟の程をあらわしていた。
 血のしぶきが、鮮やかに虚空を染めた。雪の上に滴り落ちた染みは、花弁のようだった。
 ――花は桜木。
 桜の宮には、神が住まうという。
 艶やかで、優しいひとが。



 悲鳴があがった。
 鬨の声でもない、悲痛な大声に、喧騒の中にも困惑が生まれている。
 異常さに困惑の色を見せるまわりの状況などまったく目に入らず、流紅は無意識に、声をあげていた。喉の奥から、体中の力を振り絞るかのように、わめき続けている。
 雪の中に滲みる赤が目に痛い。
 ――――助けたかった。
 ただ、それだけだった。すぐそこにいたのに。叶いそうだったのに。
 それがなぜ、こうなるのか!
 彼を奪って行った飛田が憎くてたまらない。自分から諦めた兄が憎くてたまらない。どうして、どうして、どうして。
 ひたすら心の中で繰り返す。答えのわかっている問いを、飽くことなく繰り返す。
 そして、助けることを何より望んで、できなかった自分が、悔しい。この事態を止めることができなかった。兄が、何もかもを諦めたのではないのは分かる。どうしてそうしたのか、わかっている。流紅だってそれを防ぎたくて、止める尊芳を振り切って停戦の申し立てのために出てきたのだから。それでも、たったひとつ最後のところで、諦めないでほしかった。神宮のためとは言え、流紅のためとは言え。――これは有事だ、それは分かる。国を贖える命を持つものとして、逃げるわけにはいかない道だった。だけども!
 一体どこから間違えたのだろう。どこからやり直せば、違う道に辿り着いたのだろう。
 望んだのは、こんな結果ではない。決して!
「若君っ」
 横から神宮の兵が彼を止めようとするが、流紅は喚きながら前に進むのをやめようとしなかった。
 成り行きを見守っていた飛田家も、未だ手を止めている。当主の仇を討つという名目で血気に逸っていたところ、目標がなくなって少しの間だけ動揺しているかのようだった。すぐに、目の前の流紅に気がつく。その前に一度引き上げて、あらためて停戦の使者を出さなくてはならない。その前に飛田家が立て直せば何もかもが終わりだ。戦の終点が、見えなくなってしまう。紅巴の行動も、まったく意味がなくなる。遺体を放り出してでも、戻らなくては。
 それでも流紅は、身を守るのも忘れてもがきながら進もうとしていた。押さえられながらも、懸命に手で雪を掻く。彼の目は一点しか見ていない。
 その彼の横からさらに、刀を持たないほうの流紅の腕を両腕で掴んで、引きとめた者があった。
「若君」
 その声には、流紅も聴き覚えがあった。
「流紅様。聞いてください」
 ――懇願のような声音も、言葉も、聞き覚えがあった。それもやはり、悔恨の記憶と共に流紅の中にある。そして、わずかの間の安らぎと共に。
 喚くのをやめた流紅の耳に、さらに泰明の言葉が飛び込んできた。
「茜子が、身篭ったんです」
 大きく息を吸って、流紅の動きが、止まる。目を見開いて、兄を見据えたまま、止まった。
 泰明は、彼も涙を流しながら、訴えていた。
「あなたには、神宮の地を守る義務がある。あの土地と、人を。ここで立ち止まるのなんて、俺が許しませんよ」
 ――――それは。言われるまでもなく。
 言われるまでもなく。
 目に映るのは、駆けつけてくる人。立ち向かってくる人、彼を守ろうとする人。泥の色と鎧と馬と翻る旗と。すべての雑多な現実。
 そして血の色と、倒れ伏す人。
 ただ後に残るのは、案じてくれた心。残ったのは、案じていた心。そして人がもがき、苦しみ去っていく間にも、それを惜しむ間にも、期せずして飄々と、生まれてくる命。
 それは言いようのないものを、心の中から沸き起こす。ただもう悲しみを。――かなしみを。



 雪が降る。それは音もなく、天から降りてくる。
 桜よりもずっと白い、色のない空白の色で、染めていく。無に帰していく。
 今は、そうやって何もかも、消し去ってくれればいいのにと、願った。
 己の所業も、起きた結果も、それを巻き起こした人への怒りも。手に残されたものも、何もかも何もかも。



 命のあり方に、短命だなどという命運があるのだろうか、と茜子は思う。そんなもの、一体誰が決めるのだ。怨念だとかで振り回すことなど、出来るわけがない。
 常盤の言葉に、茜子は変わらず明るく笑う。
「そんなもの、生きた人の意志の前では、無意味だわ」
 人外の力を認めて、まあ仕方ないとあきらめるのも、強さかもしれない。何もかもを放り出してそのせいにするのではなくて、あっけらかんとして立ち向かうことが出来るのは、それもまた力だろう。
 達観するのだって、突き進むのだって、意志ひとつだ。
「紅巴様のことはよく知らないけれど、流紅は、生きて生きて生きて、何があっても律儀に生きぬくことをやめない人だわ。怨念だなんてそんなもの、強く進む人の前には、何の意味も持たない」
 悲観せず、自分の抱えたものを決してあきらめず、言い切った茜子に、常盤はただ感心して応える。
「さすがだな」
 ――笑う。
「あなたとあなたの子に、幸があるように」
 心から、そう思う。
 茜子はその言葉に、珍しく素直なことを言う常盤の顔を見上げた。目があうと、飄々としたいつもの顔で笑った彼に、笑みを返す。
「ありがとう」
 その声は、晴れやかだった。空が暗くとも、雪化粧で寂しい色彩の中にあっても、鮮やかだった。
 迷いのない顔で茜子は笑った。