番外編



楽の音



 その笛は、名を小波という。
 さざなみ、揺れる小さな波の名。
 将軍家に献上されたものだった。その音色は、静かに空気を揺らし、人の心に緩やかな波を立てるようだと将軍がつぶやいたことから、その名がついたと謂れがある。
 まるで、女の名のようだ。小さく儚く、とるに足りない女のような。大切そうに懐に抱き、もしくは腰に帯びて歩き、愛しそうに両手で抱えるようにして奏でる彼の人の姿も、まるで女性をいとおしむのに似ていた気すらする。
 彼の人は、軍の才も治世の才も持ち合わせていたが、何よりも当人は楽の音を操ることを楽しんでいた。自身の才も他にではなく、その内に求めていたようだった。生まれた場所が違ったなら、生業としたいと思ったかもしれない。
 小波。人の心を泡立てる音色を持つ小さな武器だ。
 献上された将軍は、弟にそれを下げ渡した。何の事はない、彼よりは弟のほうが、楽に長けていたからだ。やがて将軍家は、礎を崩していく。広がる小波のような、小さな物事が突き崩していく。整わない、乱れた音が満ちていくように。
 諍いや動揺をあらわす言葉でもあったことから、不吉な名だと嫌われ、忘れ去られていたものだった。将軍家が滅び、たくさんの宝が持ち去られ、巡りめぐってここへ辿り着いた。
 母から、かつての将軍家の血を継ぐ流紅の手元にではなく、紅巴の元にあったのは、それも何かの皮肉のような気がしてならない。



 雪はやんだが、辺りは白い色に鎮んでいる。色彩を取り戻すには、まだ遥かに遠い。空は重く雲に覆われたままで、しばらくも待つことなく、再び空から雪花の舞い降りてくる事は予想に難くない。
「笛は?」
 言葉と共に吐き出した息が、風にさらわれていく。白い色の中にまぎれて消えていく。
「なくした、と」
 小具足姿の男が、長い髪を風にさらしながら、あっさりと言った。
「おぬしが?」
「その男がだ」
 佇む二人の間には十歩ほどの距離がある。相手は、彼らの間に横たわる人を、眼差しで指す。
 瞳を閉ざして、顔を、髪を、体を血に染め上げた姿で、白い寒さの中で無防備な姿をさらして横たわる人。赤みのない頬や唇が、その様子の不自然さを物語っている。
 生きているなら、眠っている。だがこの中、つい先刻まで風雪が吹きすさんでいた外気にさらされながら眠っているのなら、そのままにしていていい状態ではない。
 瞼の震えさえない、横たわる体。
 視線を追い、彼の人を見て、流紅は返す言葉をなくした。
 にわかには信じられなかった。そんなはずがない。兄が、あれだけ大切にしていたものをなくしてしまうとは思わなかった。そんな迂闊な人でもない。だが、度重なる戦や、捕らわれの身であったことを思えば、失くさずにいることのほうが不思議なのかもしれない。
「そんなに大切なものか?」
 歌うような声に誘われて、再び相手を見遣る。嘲るような笑みが、赤い唇を彩る。美しい顔に刻まれた頬の傷が、ひらめくように動く。
「たかが笛だ」
 かわりなどいくらでもあるだろう、と。
 人の意志は言葉に宿る。物に宿る。そうして言葉は、物は意志を持つ。魂を持つ。それほどの思いを、果たして知っているのか、この男は。
 流紅は、強く拳を握り締めた。
 その動揺を見透かしたままで、相手は嗤う。飛田柳雅、兄の足を圧し折った張本人だ。
「かつては将軍家にあったとか、宮廷にあったとか言われていようとも、たかが物だろうが」
 流紅は強く相手を見て、けれど睨まぬよう必死におさえつける。自分はここに、交渉に来たのだ。事を荒立てるためではない。
 自ら首筋を斬りつけ倒れた紅巴を飛田の前に打ち捨てて、とにもかくにも軍を離した神宮は、再び使者を出した。数度に渡る矢留の声に、飛田はようやく手を止めた。彼らとしても、手傷を負った主家の人間を引かせるまで時間を稼ぐ必要があったのだから、このときばかりは攻撃を緩めなかったのは仕方がないとも言えた。矢留の声に対し、攻撃を止めるのが、約束事などない戦場での通則だったとしてもだ。
 そうして軍を後方に残し、流紅と、命を落とした飛田当主の弟が、幕屋も何もない雪原に数名の兵だけを連れて来ていた。黙約として当の二人は武器を兵に預け、彼らからもまた離れて向き合っている。さらされたままのたくさんの骸が転がり、旗指物が靡く只中、無防備に冷風にさらされたままで。
「おぬしにとっては価値がなくとも、兄にもわたしにも、価値のあるものだ」
 低く抑えた流紅に反して、そうか、と涼しい声が返る。その唇の端から白い空気が漏れる。それすら、寒さを彩るものではなく、相手の涼やかさを象徴するもののようだった。
「そんなに大切なものか」
 繰り返された言葉に、流紅は相手を見る視線に疑問を乗せた。今度は相手の方が、雪の上に横たわる人を見た。長い睫毛が優雅に落ちる。
「たかが、死体だ」
 掴みかかりそうになる衝動を堪える。簡単に言い捨てる相手に、流紅は身の内を逆巻くものを感じた。先頃から、否、戦の最中に兄の姿を見てからずっと感じていたものだった。
 感傷は、くだらない。
 くだらないのだ。今は。それどころではない。
 するべきことがある。委ねられたものがある。守らなければならないものがある。兄が、その命を賭して流紅に渡したものだ。
「ならば、おぬしならどうしたと言うのだ」
 くだらない問いだと分かっていたが、口をついて出た。
 答えは軽やかに返る。
「国と家の威信をかけた戦に、人の死骸の一つや二つ、珍しいものでもあるまい。大事に抱えていて、それで国が手に入るならば、いくらでもそうしてやるが。いかな美談になろうとも、国は守れないぞ。神宮の次男坊殿」
 自分なら、打ち捨てる。暗に言っているのがありありと出ている顔だった。交渉の弱みにはしない。
 長子を亡くした神宮に対して、飛田は、当主の遺体を掲げて帰る事態になっていた。だが彼は、その遺体が当主という地位のものでなければ、例え身内のものであっても、戦の最中に奪われ首を狩られても、少しの不都合もないと考えているのだろう。飛田の家名に、己の利に問題が生じなければ。
 すぐに応えない流紅に、相手は続けて言った。
「その男なら、そうしただろう」
 その通りだろう。
 だからこそ、言葉が出ない。
「この男の名は、どのように残るのだろうな」
 尊大に見下ろしながら、彼は続けた。目の前に流紅がいなければ、足蹴にする程度のことはしたかもしれない。
「神宮を裏切り、怨敵につき、窮地に立たされ再び裏切り、おめおめと戻ろうとした。己を一度は受け入れた相手を、己の利で殺してまで」
 だが、それすら策とするのなら、そして家のために自害したことも含めてしまえば、立派な美談として語られるだろう。
「それは後の世が語る。兄のことも、わたしのことも、お前のことも」
「なるほど」
 硬い流紅の声にも、笑い含みの声が返る。
 そして改めて彼は、飛田の血らしい冷ややかな美貌をあげ、声をあげた。
「飛田は東をもらう。西は神宮にくれてやる」
「互いに軍が退く間、攻撃はしない。こちらにもそちらにも、此度の損失は大きい。手出しをする余裕はないだろう」
「俺は多少の損害ならば厭わないが、今回ばかりは、飛田も多少苦戦はするだろう。仕方がないから、約してやる」
 実際には、戦の最中、立っているのすら問題があるほどの傷を負ったはずなのに、相手は少しの痛みも見せずに言った。
 この自信、この強かさ。感心すら覚える。
 そもそも、攻撃をされて困るのは、神宮よりも飛田の方だ。
 なんであれ、飛田は当主を亡くし、その怒りで戦を続けていたが、一度戦の流れを止めてしまった以上はその熱気も続かない。この寒さの中、とどまる場所を持たずに戦い続けられるものではない。退く場所を抑えている神宮とは違い。その神宮が、こうして約するのは、命を落とした人の遺体の引渡しをしてもらうためだった。
 だが己が、飛田が神宮からの信用に薄いのを重々分かっているのだろう、さらに遊ぶように続けた。
「証文は必要か?」
「何の保証にもならないだろう」
 約束など。
 この戦の世に、親密な間であっても何の安心にもならない。例え形にしていてもだ。敵ならば尚更だ。しかも、神宮と飛田の間柄ならば。自分なら、誰の遺体であろうとも打ち捨てて進むと豪語するこの男ならば。
 しかし口先はどうであれ、この相手なら、無駄と決めたならば意固地にならず退くような気がした。何の収穫もなかったわけではないのだ。飛田にとっても、同族殺しの家系に生きる、彼自身にとっても。むしろ、彼にとってはここで留まるよりも、本拠に戻ってすべきことの方が重要なはずだ。
 そして――この相手は、兄を認めていたのだろう。わざわざ、戯れにとはいえ、どのように名が残るかなどと口にするならば。
 それも皮肉な話だ。
 もう話は終わりだとばかりに、簡素な担架に横たえられた兄を連れ帰るため、後方に控えていた連れの兵へ顔を向けかけた流紅に、声が投げかけられる。
「怒っているな」
 鋭く顔を戻して見遣った、相手の笑みに、はじめて楽しげなものが混じる。
 当たり前だと叫びたい衝動を押さえるのに、尋常でない力を要した。それを表に出さないことにも。ともすれば腰の太刀に手が伸びそうになったが、今は太刀を佩いていない。それが有難かった。手元にあったならどうなったか分からない。
 腹芸は得意ではない。だが今、それが許される事態ではない。甘えていられる立場ではない。
 だがそれでも、吹きすさぶ寒風の中、白い雪に埋め尽くされた場所に立ち、それでも身の震えを感じないのは、内から湧いてくるものがあるからだろう。ずっと感じていた逆巻く思い。ともすれば、溢れ出しそうになる感情の渦。
 抑えようと、顔を俯ける。足元に横たわる人が眼に入る。
 血の気のない白い顔。いつもそうだった。だが今は、それまでとはまるで比べ物にならない、血の気の引いた顔。冷え切った肌。
 たかが、死体だ。言葉が胸の奥に響く。
 命をなくした物だ。
 怒っている。勿論だ。誰にかと問われれば、それは兄に対し、何よりも己自身にだ。飛田への、目の前の男への怒りは、分かりやすい対象だからというだけだ。分かりやすい敵、分かりやすい挑発に、苛立つだけだ。
 兄が何を思い、一時は飛田に属し、再び神宮へ駆けて来たのか、流紅には分からない。真意は誰にも分からない。
 神宮家の恥になるわけにはいかないと語った、その言葉に察するしかない。それすら、彼の本音だと言い切る事はできないが。大切な人だ。信じている。あの土壇場で、命を懸けて嘘を吐く必要などない。だけど、決め付ける事は出来ない。
 彼が本当に、もしかしたら本当に、一時神宮を離れたことで、身を縛るものから放たれたことで自由を得て、離したくないと思ったとしても、それは責められることではなかった。本来ならば責めなければならないことでも、流紅には出来ない。そうでなければ、と願うことはできても。切に、願ったとしても。
 彼の真意を知る人がいない。釈明できる人がいない。例えいたとしても、流紅は知ることができない。彼が、神宮を離れていた間の事は。
 だけども――願いたい。
 どのように名が残るのか。決めるのは後の世だ、対外的なものを口にはしたが、汚名でなければ良いと思う。死してまで、彼が実際に何を壮挙していたとしてもだ。
 怒りは、そんなところに宿るわけではない。
 静かに長く息をつく。そっと、溜めるように。吐き出された熱が白い色を持ち、風に流れていく。
 ――なぜ、命を落としたのか。
 そのことだけだ。もう、本当に。そしてただ単に、思うようにならない癇癪のようなものだ。子どもの頃のように。兄の事情も心情も慮らずについて歩き、思うようにならなかった時に駄々を捏ねた、あの頃と変わらない。
 結局は、何の力もない自分への悔恨が怒りを招き、そして心を冷やしていく。
 息を吐く。その中に、雪が落ちてくる。戦が終わり、彼らの話し合いが終わるのを待っていたかのように、一時やんでいた雪が再び降り出していた。
 音もなく、静かに満ちていく。
 流紅は再び拳を握り、黒髪を風になびかせ、白い色に浮き上がるような艶やかな相手を強く見た。睨むのではない。ただ、強く。
「立っているにも障りがあろう。せっかく手に入れた地位を失わぬよう、せいぜい養生されることだ」
 これ以上、話をする気がないことを示した流紅の言葉に、飛田の新しい当主は再び笑った。
直情な相手をあざ笑うかのように。これは傷み入る、と挑発するようにつぶやいて、あっさりと踵を返した。
 本当に、分かりにくくも分かりやすくもある相手だと思った。興味を失くし、もう用がなくなれば、行動が早い。
 去っていくその背を見て、後方に控えた兵を招く。兄を連れ帰ろうにも、鎧を着た人間を一人では抱えきれない。
 駆けてきた兵が二人、紅巴を乗せた担架を持ち上げた。
 流紅はその傍に寄り、身を屈める。手を伸ばして、冷たい頬に触れた。
「もうすぐ帰れるよ、兄上」
 桜は望めないけれども。
 つぶやく声に応えはない。改めて見せ付けられる事実に、視界が水に歪んだが、瞳を閉ざしてこらえた。
 頼む、とつぶやいた流紅の声に、兵が歩き出す。
 雪原は、たくさんの足に踏みにじられて乱れている。その上から、雪が落ちてくる。彼らの争いの痕跡を消し去るように。
 この雪は、しばらく続くだろうか。
 吹雪く前に、石川が落とした城へ辿り着きたい。今は何よりも、軍を無事神宮につれて帰らなくてはならない。
 感傷は不要だ。今はまだ、押さえ込む。
 今はまだ。
 前へ進まなければ。
 足を踏み出す。雪を踏みしめる音がする。鎧が鳴る。それすら、地面の雪が、降る雪が吸い取っていく。
 そうして流紅は、踏み荒らされた雪の上、かき消すものへ逆らうように、歩き出した。
 足跡を刻むように、強く。




おわり


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