十二、男の思惑。
僕は強引に子爵を馨子さんの家から連れ出して、昼の光の元、灯のついていない瓦斯灯の下で彼と向かい合っていた。
小さな家が所狭しと並ぶ界隈では、僕のような白衣の人間は場違いで目立つ。それと同じように、いや全く別の意味で、彼は浮いていた。少し離れた場所に待たせた馬車、隙もなく纏った洋装、神経質に整えられた髭。彼の姿は、馨子さんに対する町の人間の好奇の目を助長させるだろう。そう簡単に思い至ることができるほど、この人は無頓着だった。もし彼自身がこの町にいることに違和感を覚えても、それは自分のせいではなく、貧しい周囲のせいなのだろう。そして彼女に対する人々の目など、何程のことでもないのだ、きっと。
勝手な思い込みではあったけれど、それに煽られるように怒りが湧きあがってくる。黒いものが、赤い意識が、腹の底で沸いているようだった。蝉の声が頭に響く。夏の陽の、地面から立ち昇る陽炎が、意識を焚きつけるようだった。
「下世話な口出しだと承知の上で申し上げます」
言葉にした声は、自分のものとは思えないほどに厳しかった。僕にもこんな物言いが、こんな声を出すことができたのだと、後で驚くほど。
子爵は、ただ片方がけ眉をあげて、僕を見下ろしている。眼差しが見下げている。僕が言うであろうことに予測がついたからかもしれない、僕の態度が気に食わなかっただけかもしれない。何より子爵にとって、僕が何程の意義もないからこそなのかもしれないとは思った。
だがもし彼のこの目が日常であるならば、こんな視線に晒され続けるのは、馨子さんにとって良いことにはならない。己にとって、取るに足らないものを見るような目は。
それとも、彼女には甘い眼差しを送るのか。
「彼女を疲れさせることは避けてくださいと申し上げたはずです」
暗に言われていることに気づかない訳もないだろう。彼女のあの様子を目の当たりにするのも、彼ならば初めてでないはずだ。それがあったから、医者を探したのならば。もし、そうならば。
「それは、お前に口出しをされることなのか」
「そうです。僕は医者です。彼女は僕の患者です」
「私が雇っている」
「雇うのは、患者のためを思うからでしょう! 患者のためにするべきことを進上するのに、雇用関係は、何の妨げにもなりません」
「高辻男爵には――」
「高辻の父とは関係ありません。医師として申し上げているのです。あなたは、医者を探していらしたのでしょう。あなたが、医者を探したのは何のためなのです」
僕は自分の言っていることが間違いだとは思わなかったが、子爵にとって父のことが関係ないわけがない。このままではいけない、心のどこかで声が聞こえるのに、僕は自分を抑えることができなかった。相も変わらず僕は考えなしで、このままではまた義父に迷惑をかけてしまう。
彼は不快そうに眉を寄せる。それでも僕は、投げつけるように言った。
「彼女のためなのですか。あなたのためなのですか」
「余計な口出しは必要ない」
「お金以外に、彼女のために何か犠牲にすることは出来ないのですか」
一口に華族と言っても、すべての者が平民に比べて富んでいるのかというと、決してそういう訳ではなかった。爵位が高くとも、あるのは家格だけで、実際は貧困にあえぎ、爵位を返上する者も決して少なくはない。ご一新の際に功労があり爵位を戴いた者はそうでもないが、商売や、働くことをそもそも知らない貴族だった人間は、うまく立ち回ることを知らず、不平ばかりを口にしているのが内実だ。だが子爵の場合は、貿易の事業を成功させ、名実共に、平民よりも上にあるのは確かだった。
真実、僕自身がそういった階級の人間の庇護の下にあり、好きに勉学に勤しむことが出来たのもわかっている。今だってそうだ。だから、僕は彼のような人間を責める事はできないし、するつもりもなかった。今までは。
だが、あまりの傲慢さに、手が震えた。僕はどちらかと言えば、人に情けなく思われようとも、争いを避ける人間だった。人とぶつかることをずっと避けてきた。火種を被っても、ごまかし笑いをして逃げた。だからあの日も、逃げたのだ。
けれど、手が震える。慣れない感情に――いつも抑えて蓋をして忘れているものに翻弄され、扱いきれずにいた。瞼が痙攣する。
僕の言葉に、子爵は何を言っているのだ、という表情を見せた。
「だが、私が庇護している」
「彼女はあなたの玩具ではありません!」
持て余した力に突き動かされるまま、僕は叫んでいた。彼の言うことは、何の不思議もない現実だ。事実だ。でもそこに、人に対する扱いはない。確かに彼女は、彼に金で買われた人だとしても。彼の手の振り方一つで、生活のすべてを決められてしまうのだとしても。彼がもし、彼女に囚われ、ただひたすら彼女を貪欲に求めているだけなのだとしても。
例え金が間に絡んではいても、病の恋人に対する行動とは思えなかった。傲慢で、自分勝手で。
子爵は、それ以上何も言わず、黙って僕を見ていた。
静かとは言い難い、妬心の浮いた歪んだ眼差しとも違う、しかし、蔑むわけでもない目だった。身分ある男として己自身をわきまえた理性のある、人を吟味する目。
彼は、そのまま何も言わずに踵を返す。待たせていた馬車へ向かって歩き出した。だからと言って、身の程をわきまえず噛み付いたことが、何事もなく済むとは限らないけれど、暗黙の中に声が聞こえた気がした。お前もかと。
――ローレライ。
彼女のことを、子爵がそう言っていたと聞いたのを思い出す。
身の程知らずがと責められるよりも、身が竦むようだった。足が、体が凍りつく。
違う、と言いたかった。
僕はあなたとは違うと。あなたちとは。
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