空蝉
八、それは幻。

「私はとても薄情な女ですもの。夫を亡くしても、こうして囲われ者になっても、恥もせずに悠々と生きていけるのですもの。簡単にあの方を受け入れられるのですもの。きっと、他に誰を招いていようとおかしくないと思っておいでだわ。恥も外聞も、罪の意識すらない。そういう人間を、怖いと思ってもおかしくはありませんでしょう?」
 僕は後悔した。今度こそ、自分を殴りつけたくなる程。彼女の揚げ足をとるようなことを、簡単に言うべきではなかった。
 いつも軽口のように、ごっこ遊びのように繰り返しながらも、彼女は決して遊んではいないのだろう。いや、遊んでいるのかもしれない。分からない。けれど意外なことに、彼女はとても冷静だった。本気なのか、からかっているのか、気まぐれなのか真剣にそう思っているのか疑いたくなるが、何も分かっていないとか、ただおもしろがっているわけでは決してない。彼女の言葉を真に受けて笑われ、そうかと思いこちらが侮っていると、ふいに真面目に語る。
「こういったご病気になってしまわれる人が、何も感じていないなどと言うことはありません。何の心配もいりませんよ」
 釣りこまれるように、僕は言っていた。
「必ず治ります。あなたが諦めさえしなければ」
「先生は?」
「僕は医者です。あなたが諦めない限りは、僕も諦めません」
「私がもういいと言ったら、諦めておしまいになるの?」
「諦めたくはありませんが、諦めざるを得ません。強要することはできませんからね。きっとその前に、しつこく説得するとは思いますが」
 諦めないと断言したほうが、彼女の力になったのかもしれない。けれど、融通の利かない僕の言葉に、彼女は小さく笑みをこぼした。
 いつもより力ないが、楽しそうな表情を見せた彼女に、僕は少しほっとした。
「先生はとても真面目な方ね。私、先生のそういうところが好きよ」
 唐突な言葉に、真剣に彼女を励ましていたつもりだった僕は、純朴な少年のように頬が赤くなるのが分かった。僕は面食らいながら、そして簡単にからめとられる自分を情けなく思いながら、小さく息を吐いた。
 くるくると振り回されているのが分かる。それは僕が単純で、すぐに人の言葉を真に受けるのも大きいが、気怠そうに、物憂い空気を纏う彼女が、時折あまりにも無邪気に、楽しそうに笑うからだ。笑ってほしいと思ってしまうからだ。
「生真面目で融通が利かないとはよく言われます」
 あまり彼女に翻弄されてはいけない。犬や猫を好きだというのと同じことだ。良い人だとか、優しい人だとか、そういうただの褒め言葉なだけだ。
「滅多なことをおっしゃってはいけませんよ。橋本様のお耳に入ったら誤解されてしまいます」
 それに、と僕は慎重に付け足した。
 見当外れならば随分と恥ずかしいことだが、それでも僕は、ゆっくり言った。
「医者に恋をするなんて、幻ですよ」
「どうして?」
「献身的に介護をして話を聞くから、ご自分を特別だとお思いになったり、僕に対して良すぎる印象を持たれているだけです。患者さんは僕にとっては、患者さんです」
「今までのお医者様はそんなことありませんでした。私を見下したり、子爵のご紹介なのに、手篭めにしようとしたり」
 さらりとつむがれた言葉に窮する。僕が応えられずにいると、彼女は唐突に詠った。声が掠れて、囁くようではあったけれど。
「ヘボンさんでも草津の湯でも、恋の病はなおりゃせぬ」
 横浜のあたりで流行った俗謡だ。彼女が自分で世間知らずと言うほど、世俗のことを知らないわけではないのだ。知性がある、教養がある、語ることは戯言でも、艶やかな仕草は上品だった。
「先生でも治せませんの?」
 僕をまっすぐに見上げて、唇に薄く笑みを浮かべたまま、若い娘のような言葉を言う。
 彼女の言う人は、米国からやって来た医療伝道宣教師だ。明治学院の創設者で、僕が未熟であるという以前に、彼ほどの志のある人にかなうはずもない。
「ヘボン医師に治せないものが、僕にどうにかできるわけもありません」
 彼女は、僕の言葉にくすくすと笑い出した。冗談でしたのに、と。
「先生の方が私にはいいお医者様です。いいわ、先生が治療してくださるのなら、私も諦めません」
 良かった、と僕は息をついた。知らず知らずの内に体が強張っていたようで、息を吐いたと同時に力が抜けた。ずり下がってきていた眼鏡を人差し指で押し上げる。
「熱を測って、喉の腫れを見たいのですが、大丈夫ですか? もしおつらいのでしたら、今日はお薬だけお渡しして、失礼しますが」
「治療は構わないの。だけど、私に触れてはだめ」
 そんな無茶なことを彼女は言う。まるで下心があるかのように言われた気がして僕は少し戸惑ったが、そうではないのも分かっていた。
 彼女はいつも矛盾している。いつも二つのことに切り裂かれている。艶やかさと、疲れきった思考と。人といるのは好きではないと言いながら、他人のことを認め誉めることができる。人といると疲れるといいながら、自分に触れるなと言いながら、人のことを求めている。
「何を気にしておられるのか分かりませんが、あなたが死に追いやったわけでもないでしょうに」
 ふと、彼女が名乗る姓は誰のものだろうと考えた。
 亡くなったと言っていた夫の、どちらかの名だろうか。実家に嫌われていると言っていたが、実家の名だろうか。ゆらめくような彼女の態度もあいまって、得体の知れなさが深くなる。
 彼女は何者なのか。
 彼女は自分の素性については何も言わない。つい先程、二度も夫を亡くし、実家に煙たがられていると言ったが、それは素性ではない。だからふいに、この人は何者なのだろうかと疑問が沸く。医者に話す必要があることでもないから言わないだけかもしれない。ただ語るのが億劫なだけなのかもしれないし、気にも留めていないからなのかもしれない。気に留めていないから話し、気に留めていないから話さない。
 己の過去も。この先のことも。
 彼女はローレライなのだと、言われたことを思い出す。
 けれど、ローレライの伝説でさえ、真実がある。ローレライは川辺に座し、歌声で船乗りを惑わし死なせる妖女だが、彼女の座る岩があると言われている辺りは、水面に巨岩が多く突き出て、川床にも岩礁が横たわっている。船乗りには難所だというだけだ。座礁したり遭難する人間が多くいたというだけの話だ。その真実を知るまで、人は不可思議なことを恐れて、あやかしのせいにした。もしくは、真実を知っていても、人が多く死ぬ不吉に神秘を求め、自分たちを慰めた。
 伝説の裏には、つまらない現実がある。もちろん事故は不幸だし悲しいことだが、伝説を恐れて、得体の知れない怪奇に恐れる心からしてみれば、つまらない、そこに転がる簡単な事実でしかない。
 彼女の言うことが事実で、彼女の周りで起きたことも事実であるならば、そういった不運な積み重ねがたまたまそこにあっただけにすぎない。
 けれど、僕の想いを見透かしたように、彼女はつぶやいた。
「そういう流れを引き寄せることが、人としての私の間違いなのだもの」
 そうなのだろうか。そんなことを言ってしまっては、何もかもが報われない気がした。彼女に触れて死んだという男たちですら。相手にとってみれば、たったひとつであっても、決定的なものを自分の身に引き寄せたのだから、それは相手の間違いではないのか。そういうなら、やはり彼女自身が間違いの元になってしまう。
 人が、間違いだなんて、そんなことあるはずもないのに。
 うまく口に出来ず、どうすべきか身動きとれずにいると、今度は、帰らないで、と声がかかる。
 弱々しく「帰らないで」と。
「僕といることは、負担にはなりませんか」
「なりませんわ」
 変わらない声音だったが、はっきりと言った。
「人と接することはとても疲れます。だけど、ひとりでいることも、疲れますの。余計なことをたくさん考えてしまうから」
 儚くて図太くて物憂げで弱い。闇の淵に悠然と腰掛けて、覗き込みはしても、けれど踏み込みはしない。決してそこから進まない。
 ひどく物憂げなのは分かる。死にたがっているように見える。だが、彼女は諦めてなどいない。
 最後に残るのは、強さだ。控えめではあっても、執着のような情念ではあっても。
 そんな人だから、こうして病に侵されてしまう。それでも、そんな人だから、疲弊し力の入らない体を持ち上げ、向けられる蔑む目をからかい笑いながら、生きている。諦めずに。
「わかりました。ここにいます」
 そう応えると、安堵したように彼女は目を閉ざした。
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