寝ていても起きていてもあの人の面影が見える。
よく考えてみれば、この世こそが夢なのだから。





 その女が何者か、誰も知らない。


 士族の女だろうか。卑しい生まれではないだろうと思わせる立ち居振る舞いをする。
 指先まで丁寧で、上品だった。気が張り詰めているわけではなくて。動きがしなやかだった。ただ、物憂げではあるが。
「わたしに触ると、死ぬんですって」
 楽しそうに言った。歌うように。
「ご覚悟がおあり?」
 自意識過剰な女だ。
 それが、最初の印象だった。



ご一新から数十年。


「高辻の父の紹介で参りました。医者の刈谷義隆と申します」
 ああ、と納得したように声を上げ、けれど女性はぼくの白衣を見ながら、不思議そうに首を傾けた。
「高辻男爵のご子息が見えるのだとうかがっていたのですけれど」
「ええ、ぼくがそれで間違いありません。実際には、高辻の家の人間ではないので」




「彼女の病は、根気強く治療をしていけば、治らないものではありません。けれど、心の方が心配される病ですから、どうなるとも確証は言えませんが」



 夢かうつつか寝てか覚めてか。



「人と接するのは疲れますの」
「人が嫌いですか?」
「嫌いだなどとは申しませんわ。ただ、疲れる、と」


 どうして、男は彼女にひきつけられるのだろうか。


 ローレライ。椿姫。斎宮の姫皇子。人を惑わせ死に導く女。死病と若い嫉妬に弄ばれた女。穢れを断ち神に仕える清い女。
 ただ、不器用で不幸で翻弄され続けた女。



 ラ・トラヴィアータ




 道を踏み外した女。


 呪われた女。決して人と交われない人。


「橋本公は……」
「時々ひっそりとお見えになります。わたしはこんな風だからきちんとお迎えするのも億劫で、お傍にいてお話を聞いているくらいしかできないのに。それから、わたしを抱いてお帰りになるわ」
 どす黒いものが吹き上げ、体中を駆け巡り、目の前が赤くなった。
「もし、気分がお悪いのなら、お断りになれば良いのでは」



 蝉の声が頭に響く。ひどい眩暈と頭痛がした。自分の焼けるような意識を持て余し、うろたえ、翻弄されていた。


 最初から知っていたはずではないのか。彼女が子爵の女だと。


「どうせ何もかも、夢なのですもの」



 眠って見る夢。起きているときに見る夢。吐息の合間に見る錯綜の夢。  どれも、束の間の霞だ。
 揺れて消えるうつつの幻。淡い薄明かりの向こうに浮かんでは消える程度のもの。手に掴めなどしないものだ。



 彼女に触れた男が死ぬのなら。



 これは夢なのか、現実なのか、寝ているのか、起きているのか。

 君や来し我や行きけんおもほえず。
 あなたが来たのかわたしが行ったのか覚えていない、と詠われた歌だ。決して男と通じてはいけない女性が、恋しい男と束の間の逢瀬を持った翌朝、男に贈った歌。

 昨夜のことは夢だったのか現実だったのかも分からない。あなたとの逢瀬も、願ったあまりに見た夢なのか。




 笑いながら彼女は泣いていた。幸せそうに。




 それでも、ぼくは。









それは貞淑な妻の名か。
不器用で哀れな女の名か。