まがことのは




第四章








 ぱたり、ぱたり、ぱたりと、足音が遠ざかっていく。光を携えたそれが去っていき、闇が残った。ずっしりと垂れ込めた闇の中、さらにそれを凝らしたようなものがある。人の形をした重い影がひとつ。
 ただよう消毒液の臭い。カーテンにさえぎられた月明かりが、ぼんやりと霞むように満ちた白い部屋の中、締め切られた病室の中にそれはいた。光など通さない滞る闇。
 看護士が見回ったときには居なかったはずなのに。看護士は確かに戸を閉めていったはずなのに、確かにそこにたたずんでいた。人の寝ているベッドが三っつ並ぶ病室の中。
 黒曜の険しい瞳を眼前に据えて、滑るように歩き始める。
 その動きにともなって、ベッドに寝ている少女たちを囲うカーテンが順番に持ち上げられていく。誰も手を触れていないのに、風だというにはあまりに不自然な動きで、自らふわりと持ち上がっていた。
 眠っているのは、皆同じ年頃の少女たちだった。人影は少女たちを物色するように眺めながら、一番部屋の奥の窓際のベッドで寝ていた少女に目を止める。めくられていたカーテンは、興味を示したその人影の意志に応えるように自ら開いていった。静かな音をたてて。
 窓にかけられたカーテンの、隙間からもれる月明かりのもとで少女は、どこか焦燥した表情をしていた。昨日運び込まれてから、昼間やっと目が覚めた少女は、再び眠りに落ちてからは起きる気配がない。
 この部屋に寝ている少女たちの手首には、皆同じように包帯が巻かれていた。
 ――自殺を図った痕。それも集団自殺だ。
 一命をとりとめることが出来たのは、発見が早かったからの一言につきる。手首を切った直後の発見だったから、何もかもが間に合ったのだ。学校側と親の希望で話は外にもれないように抑えられているが、少女たちの身体についた傷の痕はもう消えないだろう。
 どうして、そんなことを。
 思い当たるような前兆はなかったのかと問われて、親も教師も沈黙した。ごく普通の家庭にいて、普通の生活をしていたはずだった。ひとりひとりが悩み事を抱えていたとしても、全員が同時に手首を切るなんて、簡単に起こりえることではない。若者をターゲットにした怪しげな宗教だとか、そういう類のものなどに引っかかった様子なんてなかったのに。
 結局、親や当人にとっては重要な問題であることを、警察は一言で片づけた。曰く「受験のストレスではないか」と。他に原因らしいものが見つからなかったのだから、仕方がないことでもあったが。
 けれど今、人影が目を止めた少女には――その少女だけには、もう一つの要素とも言えるようなものがあった。
 ただでさえプレッシャーを抱え込むこの時期に、親が離婚の話で割れている。
 友人たちの誰にも話していないことではあったが、彼女の心に影を落とす大きな要因であることは確かだった。それゆえに、人影が少女に目を止めるほどに、他の二人の少女よりも彼女は心に闇を抱え込んでいた。
 じっと検分するように見られて、少女は瞳を開く。他の二人は何も気がつかないで眠ったままなのに、その少女だけ命じられたように、誘われるように目を覚ました。
 瞳に映るのは、白い部屋に満ちた夜の闇。白いカーテンの隙間からもれる月明かり。そして相反して闇を滞らせたような、人影。
 少女の前には、美しい女性がいた。禍々しい、血塗られたような紅の唇をつり上げて笑う、闇の化身のようなそれ。
 目に写した瞬間、少女の表情が恐怖に染まる。
 人がいるはずのない時間帯だからとか、看護士でないからとか、そういうわけではない。例えそれを見たのが昼間であったとしても、人がたくさんいる場であったとしても、少女は――人間なら誰でもやはり恐怖したであろう。
 存在自体が、あまりにも邪悪だった。その気配を隠しもせずに、出来るくせにそれをしようともせず誇示するようにして、人影はたたずんでいた。嘲るように嗤う黒の一対を少女に向けて。そして彼女は、この気配を知っていた。感じたことのあるものだった。それも、とても恐ろしい記憶と一対になって、心の中にしまいこまれていた。
 死にたくなるような恐怖が沸きあがるのに、悲鳴が出ない。見つめられて、声が少しも出ない。
 けれども――意識は、やがて恐怖とは別の感情を持ち始める。じりじりと細胞の隙間から侵食されていくかのように、次第に心の中が均(なら)されていく。確かに、泣きわめいて助けを求めたい程の恐慌は心の中にあるのに、悲鳴をあげる必要などないと、心の別のどこかで判断していた。他を抑え込んでいた。
 それは少女を見る、瞳のせい。
 無言の命令を発する、瞳のせい。抗うことを許さない圧倒的な瞳。それが彼女の心を端からじわじわと、確実に侵略していっていた。
 惑わせる。溺れさせる。思考を奪う。――捕らえる。
 支配する。
 少女の瞳が少しずつ生気を失い始める。いつしか、恐怖の表情をしていたはずの少女から、恐れが消えていた。濁ったような黒い目で虚空を見る少女の顔には、何もなくなっていた。無表情と言うことすらためらいたくなるような、なんの感情も覗かせない、生気すらもなくした表情(かお)。
 それを見て闇のような女性は笑みを深める。満足げに瞳を細めて嗤う。
 そして、消えた。
 直後のこと。表情をなくした少女の顔に、感情が戻っている。けれどそれは少女めいたものなどではなくて。疲れていたものを覗かせていた、その少女の表情などであるはずもなく。
 喜々とした顔で、空を見つめて嗤った。
 月すらも覗き見ることしか許されない闇の中、無音の空間での出来事。





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