まがことのは




第四章









 無機質に部屋を照らしていた蛍光灯など消し飛んで、部屋の中には月明かりが差し込んでいる。庭に面していた壁も天井も大破し、広い部屋は、ベランダのようになってしまっていた。
 それ以上破壊の力が及んでいないのは、ひとえに都雅の防御が間に合ったからだ。本来ならこんなものでは済まなかっただろう。
 けれど轟音など、消し飛んでしまった壁や天井のことなど、驚きの道具にしかならなかった。そもそも、都雅が何をしたかなんて少年たちに分かるわけもない。その場にいる誰もが目を奪われたのも、戦慄のあまりに立ち竦んでしまったのも、そのせいなどではない。
「おや。おやおや。わたしの術を破るとは、どうしたことだと思うたが」
 沈黙と緊張を破って声が降ってきた。二階建ての建物、天井を破壊された部屋へ。すべらかに風の間を流れるような美しい声が。
 人々が見上げた先、中空にいたのは、一人の女。
 部屋に集った者たちを、闇を凝らしたような黒い瞳で見下ろして、嗤っていた。月を背負って夜空の直中に浮いている。豪奢な黒の着物をまとった、それ。
 ――やはり。
 都雅はそれを見て改めて確信する。
 自分の圧倒的な存在を、その揺るぎない優位を誇示するようにして、女は部屋にいる者たちを見ている。場に満ちた空気が異様だった。ただの冬の冷気だけではなく。空気が重く痛い。視線を受けている目が凍りつくような。目の前の者のまとう同じ空気に触れると同時、指先から凍りついてしまいそうな、そんな感覚。
 自身ですらこの世ならざる者である菊も、身動き取れずにいた。少年二人の命を背負いながらも、相手を睨みつけるのがやっとだった。理屈ではない。説明できる理由ではない。
 人ですら動物ですら、この世ならざるものの彼ですら無条件に恐れてしまう、本能。
 ――やはり、これは。
 これが魔族というのなら。これだけの妖気と圧迫感を放っていて、魔族でないと言うのはあり得ないことだが、人以外の何者にも見えない容姿を持つこれが、やはり魔族だというのなら。
 そしてこれだけの美貌を、他者を圧するようなものを持つのなら、これは魔鬼だ。一般に恐れられるような、奇怪な容貌を持つ姿形の恐ろしい魔族は、低級のもの。高位であればあるほど人に似て、そして美しい容姿を持つ。否、人が彼らに似ているのだとも言われるが。
 ――まったく、冗談じゃないと言うのに。
 思う都雅は、そよと吹く夜風に、セーラー服のままだったスカートをあおられて、今更ながらにマントを忘れたことに気がついた。たいしたことではないが、少し後悔した。学校の制服や部活のユニフォームと同じようなものだ。それを着ると、着る前の自分とは切り替わる。気持ちも、覚悟も。
 やがて鷹揚に、上から人々を見回した相手の眼差しは、ひたと都雅に据えられる。
「今度のは、少しは使えるようだねえ」
 嘲りの込められた声は、驚いてはいたが、楽しげでもあった。怒りのままに行動して、気がおさまるまで孝司や家の者をもてあそぶつもりだっただろう相手は、それよりも自分の術を防いだ者のことを楽しんでいた。絶対の優位を確信している魔族にとって、それは怒りよりも興味をわかせるに十分だった。
「お前の相手は後で存分にしてやる。わたしはその子どもに用があるゆえ、そこを退け」
 雅牙の腕にしがみつき、宙に浮く女を凝視して固まっていた孝司が、びくりと大きく震えた。雅牙は孝司をかばおうと、手を伸ばす。
 魔族の女は、紅の唇をつりあげて哀れみすらもって、いじらしい動きを見せる少年たちを見て、そして突然、消えた。闇を纏ったような存在だった相手のこと、消えていったのがまるで夜空に溶けたようで、都雅は呆気にとられてしまった。見上げた先には、月があるばかり。
 先刻の幻術のこともあって、化かされていたのかと一瞬思うが、呆けている場合ではない。瞳を険しくして気配を探る、しかしそんな努力を嘲笑うように、それは再び忽然と彼女の背後に現れる。
 染みるように再び現れた気配と、威嚇の声に、都雅は誘われるように振り返った。菊が、威嚇の爪を掲げている。突然眼前に迫った魔族に対して、視線からも守ろうとするように二人の少年を背後にかばい、小さな唇から牙を剥き出し、うなり声をもらしている。
 だがそんな、精一杯の抵抗を嘲笑うように、魔族は菊の存在を無視して両手を伸ばした。手を伸べて迫り来る恐怖そのもの――けれどその手は、菊にも孝司にも雅牙にも、触れることが出来なかった。窓ガラスを叩きつけたように、突然少年たちの前で止まった。あまりの唐突さに、少年たち肩をふるわせる。
 ――結界。
 菊と魔族と、その技術を知る者たちだけがひらめくように言葉を脳裏に浮かばせる。大した妨げになるものではない、けれど阻まれたことに、そして結界の存在に気がつかなかったことに、魔族が歯がみする。
 その直後、熱波があたりを襲った。魔族も、立ちふさがる菊にも、その後頭部を凝視する少年たちにも。赫い光に頬を灼かれて、誰もが目を瞠って止まってしまった。夜を圧して赤く染め上げながら、突然目の前に現れた、紅蓮の業火……!
 意表を突かれて、魔族が振り返る。炎は少年たちをも呑み込む勢いだったが、それも結界に阻まれて、彼らの頬を赤く染めるに留まった。目の前に迫りながらも決して肌には触れない、立体映像を見ているかのような奇妙な感覚に襲われながらも、少年たちには、炎が魔族を完全に呑み込んだように思えただろう。
 けれどそれは、相手を押し包むだけだった。炎の舌は魔族の肌、そのどこに触れることも許されず、空気を舐めただけでかき消されてしまう。
 攻撃されたということよりも、不意をつかれたということに、魔族の女は美しい貌を先刻よりも確実に怒りに染めて、眼前を見る。その先で手を掲げて直立する少女が「ちい」と舌打ちをした。
 魔族は、少女が再び何かを仕掛けるよりも早く、手を振り払った。都雅はそれに気がついて、技を仕掛けるのをやめる。とっさに両腕を交差させて身を守ろうとした。その腕に、振り払う魔族の手が当たる。ただ、それだけの動きなのに。
 単調な音がして、少女の両腕が折れた。勢いのまま吹き飛んだ都雅が、置かれていた机にぶつかって止まる。
 悲鳴が上がった。




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