まがことのは




第五章









 
 無機質で、単純にまっすぐな廊下が見える。窓の外には月の光、天井からは蛍光灯の白い光。真昼の村の光景などではない。
 やっぱり、これが現実。
「おーい、お嬢さん大丈夫か?」
 訳が分からないが、とにかく何かに引き込まれかけたのだけは分かって、奏は隣の崇子に声をかけた。彼女は、立っていられるのが不思議なくらいに震えていた。みるみる目に涙がにじみ、体の震えで零れ落ちる。
 だけど、奏が見た光景は、奏自身にしか意味のないもののはずだった。あれを見て、確かに奏は古い傷をえぐられることになるけれど、崇子には何の関係もないただの古びた村の光景でしかないはずだ。
 ――違うものが見えている?
「おい、大丈夫か」
 異常なほどに怯えている崇子の肩に手をあてると、体に目一杯力を入れていた彼女は、いっそう体をこわばらせて息を飲み込んだ。弾みで後ろへ飛び退さって、せわしない動きで辺りを見回す。視界には奏を捕らえているはずなのに、視線は彼を通り越している。見えていない。
「お嬢さん。おい、しっかりしろ」
 逃げた彼女を追いかけて真正面に出て、奏が彼女の両肩をつかんで揺さぶると、彼女は息を吸い込んでそのまま止まってしまった。揺さぶる奏の手になすがままになってがくがくと震えていた崇子は、突然目を見開く。
 奏を通り越してはるか遠くを眺めていた瞳が、唐突に彼の顔で焦点を結ぶ。再び首を巡らせて辺りをうかがって、目を瞬いて、それから再び視線が奏に戻ってきた。
「……あ」
 体はこわばったまま、呆けたような声を出す。自分がどこにいるのか、何をしていたのかを懸命に思い出そうとしているようだった。それからさらにもう一度辺りを見回して、冷たい廊下を、閉められた白い教室の扉を、はめられたすり硝子の教室の窓を見て、ようやく何かに思い至ったのか、詰めていた息を長く吐き出した。
「鬼頭さん……」
「だから、奏って呼んでくれってば。ややこしいだろ?」
 この際どうでもいいことを、しつこく彼は言った。あまりに普段の口調だ。いぶかしげな表情で崇子が彼を見遣る。けれど彼女は、すぐに少しこわばったままの顔で、ぎこちなく笑う。明るい口調に誘われるように。――笑おうとした。
 奏は、軽く笑みを返してから、今のは一体なんだったのかねえとつぶやき、歩き出そうとした。けれど唐突に後ろからすごい勢いで引っ張られて、できなかった。
「ぐえっ」
 襟首を引っ張られ、唐突に喉を圧迫された奏の口から、つぶれたカエルのような声が出た。涙のにじんだ非難の眼差しで、後ろにいた崇子の方を顧みる。奏のシャツを乱暴に掴んだ彼女は、注意を促すと言うよりは、置いていかれまいとすがりついているようだった。それから震える彼女の指さす方を見る。
 廊下の途中に、人影が見えた。
 まだ校内に生徒がいたのか、と思った。それとも、肝試しとか言って、隠れていたのだろうか。――いや、それはないか。スウェットを着たラフな格好で登校する生徒はいない。だとしたら忘れ物を取りに戻ってきたのかもしれない。普通なら、そう考えるだろう。相手が忽然と現れたのでなければ。
 つい先刻まで、そこに誰もいなかったと断言できる。電気がついていなかった時のことまでは言明できないが、妙な幻影がちらついた直後、蛍光灯の明かりの下で現実を確かめるために辺りを見回したのだから、それも舐めるように見渡したのだから、間違いない。
 なのに、皓々と白い光に照らし出されて、一人の少女が立っていた。ぴくりとも動かずにそこにいた。髪の乱れもなく、呼吸の乱れも見られず、ただ唐突にそこに立ち尽くしていた。
 ――霊か?
 崇子との昼の会話を思い出しながら、考える。だが、照らし出された少女の足元には影があり、少女が確かにそこに存在していることを証明していた。霊ではない。実体がある。
 ――幻覚?
 先刻の光景がよみがえって、その可能性も捨てきれないことに思い至る。高度な幻術ならば、影など再現するのも難しいことではない。
 でも、彼自身の感覚が、あれは実体だと告げている。あれは、そこに存在する確かな何かだ。
 あれが皆の言っていた怪奇現象という奴の元凶だろうか。ならば先刻の光景も、あれの仕業だろうか。とにかくそれを確かめて――思うと同時、奏は慌てて両手で耳を塞ぐ。
 大きく息を吸い込んだ崇子の口から、盛大な悲鳴が響き渡った。



「高天原に神留ります 神漏岐 神漏美命以て 皇御祖神伊邪那岐大神 筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に禊祓ひ給ふ時に 生まれませる祓戸の大神等 諸々の禍事罪穢を祓ひ給ひ清め給へと白す事の由を 天津神 國津神 八百萬神等共に聞こし食せと恐み恐み白す」
 そして彼女は唐突に祝詞をまくし立て始める。素人が、困ったときの神頼みをしている姿を彷彿とさせた。目の前に現れた影のことよりも崇子の反応に驚いた奏は、祝詞の効果に少し不安を覚えたが、効果は、あった。
 廊下の向こうに見える影が、揺らいだ。――よろめいたのではなく。確かに、揺らいだ。電波をさえぎられたテレビの画像がゆがむかのように、存在が揺らいだ。
 映像……?
 そんなはずはないのに。そう考えながらも、俺の感覚が鈍ったか、あれは幻か何かの類かと、思うが。否。少し違う。
 揺らいだのはそれ自身ではなかった。それ自身に重なって見える波動が苦しげにゆがんで、まるで人影そのものがねじれたかのように見えただけ。錯覚だ。
 だが変化があったという事は、やはり人ではあり得ない。
「……術者か」
 少しも堪えた様子もなく、少女の高い声が場に切り込むように落とされた。静かな中に、その声はよく響く。そしてあまりにも普通の少女の声で、独白のように感慨深げに言ったその頃にはゆらぎも元に戻っている。利いたと思ったのはわずかの間。
 ――祝詞が利かない?
 崇子はその事実に混乱を極めたようだった。がくがくと震えている。祝詞を唱える声も消えてしまった。
「ようやっと術者が来やったか。少し手が遅くはないかねえ」
 攻撃されたことを少しも痛みに感じていない様子で、妙に時代かかった言葉を使う少女に、奏は内心同意していた。確かに、十数人も死者が出てやっと行動を起こすのは遅すぎる。学校側は早めに取り組んだようだが、めずらしくも出遅れたのは協会の方か。こういったことは、次の被害が出ないよう時間との勝負のように、取り組む早さが要求されると言うのに、今頃なのはおかしい。
 問いかけようとして崇子を見て、けれど奏はあきらめた。怯えて身をこわばらせてしまっていて、話しかけても気づいてくれないだろう。
「術者の血肉は良い糧だ。ずっと待っておったのだよ」
 自分を排除する計画でそこに相手がいるのに、少しも気に留めた様子がなく、少女は笑う。
「ついでに、少し腕試しがしたい。付き合うてもらおうかの」
 続けて――ひた、と音がする。
 ひた、ひた、ひた。……裸足の足で、歩いてくる音。
 祝詞が利かないならば、やはり霊の類ではない。そして魔族であったとしても、怯えて不意をつかれた巫女程度の祝詞では効果がないほどの強者という事になる。
「祝詞が利かないとなると俺の出番かな」
 近づいてくるその影に対し、奏は軽く言った。怯えきっている崇子に反して、気負いもてらいもない。相手は少し顔をしかめたようだった。
「恐れぬか」
 不満と同時に、不快だ、という響きもこめられた声。その瞬間。
 ぴくりともしなかった少女の方に、ただならない気配が生まれた。大きな光、蛍光灯の光など圧してしまう巨大なもの。力に押しのけられて、教室のドアが外れて倒れる。廊下のガラスが砕ける。アルミのサッシがゆがむ。壁を、そして天井を削り、蛍光灯を割りながら唐突に放たれたその強大な力。
 それにしても、こんなに強大な力を持つ相手とは聞いてなかったぞ、と心の中で吐く。崇子の口ぶりでは、確かにわけのわからないやっかいな相手だというようなことだったが、力そのものがここまで強いとは聞いていない。それをうかがわせるような要素はなかったはずだ。
 そう、相手は「そう思わせなかった」のだ。今まで慎重に、その力の割には大人しめに活動してきた『それ』は、ここに来て突然力をあらわした。――術者が来たことで、事実を隠す限界を悟った。だから実力行使をしようとしている。そしてよく分からないが――腕試し、と。
 崇子が、震えながら必死に柏手を打って、祝詞を唱えようとしたようだった。守りの技は、彼女の分野だろう。あの様子で無茶だなと思ったが、しないわけにも、せずにもいられないのも人間の性だろう。
「はいはいちょっとごめんよ」
 のほほんとした声で、崇子の肩を持って軽く押しのける。奏は彼女のかわりに、目前に迫った力の塊の前に立った。同時、無造作に片手を伸ばす。
「そんな、無茶……奏さん!」
 崇子が驚愕の声を上げる。



 蛍光灯が割れて電気も消えた。光を放っていた力の塊も消えて、辺りには静けさと闇が帰ってきている。驚きのあまりに崇子は恐怖を忘れていた。
「大丈夫なんですか……」
 放たれた害意の塊は、奏の手の先で止まっていた。何の呪文もない。特殊な力を施した手袋などをしているわけではないのに。キャッチボールをしているかのように単純に受け止めて、そして彼はそれを、素手で握りつぶしたのだ。
 普通なら後ろまで吹き飛ばされ、挙句圧死していてもおかしくない。あの力の塊には、コンクリートの壁を軽く押しのけるほどの力があったのだから。
「ああ、平気平気。俺、作りが頑丈なんだよ」
 飄々とした様子で崇子の方を見ると、奏は魔力を受け止めた手をひらひらさせて笑った。あまりに平然としていつもどおりだ。骨が鋼鉄ででも出来てるんじゃないだろうか。
「この辺で起きてる怪奇現象とやらの元凶って、あいつだと思う? あれ倒せば終わりかな」
 しかも彼は平気な顔で相手を指さして、崇子に問う。答えられずにいると、かわりに向こうにいた少女が応えた。
「倒すと言うか。昨今の人の子というものは、我らへの恐れの心をなくしたと見える」
 苦々しく言うその言葉、やはりその者が人でないことを示していた。その人ならざるものは、続けて言う。
「これは我が肉体ではない。あくまで借り物。精神も肉体もまだ生きている。隠れ蓑としてまとっていたに過ぎぬただの何の力の持たぬ人間だ。お前たちに、殺せるか?」
 隠れ蓑と、それは言う。とり憑いているのだ。だが同時に『人質』の意味をも持っている。人の弱いところを突いてくる。昔ならいざ知らず、人死にに慣れていない今この時代この国においては、とても有効な手段だ。
「うっわ、やらしー」
 奏が声をあげる。相手の脅しも何もまるで利いていない顔と口調だった。目の前の者を、これを排除するには、少女の体から魔族を追い出す必要があることが、分かっているのだろうか。
 道理で違和感があったはずだ。崇子の祝詞に反応して揺らいだのは少女の体ではなく、少女にとり憑いた魔族の波動だったのだから。
「俺、あまんり器用なことは得意じゃないんだけど、お嬢さん何とかできる?」
「え……」
 急に、再び渦中に放り込まれた。崇子は、何も言えなかった。立っているのがやっとで、状況を見ているのがやっとで。――協会から派遣されてた者として、逃げ出さずにいるのがやっとで。
 彼女を見て、奏はぽりぽりと頭を掻く。それから突然、崇子の腕をひっつかんで一目散に逃げ出した。




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