まがことのは




第八章














 都雅が目を覚ますと、遠い天井が見えた。等間隔に配備された蛍光灯の並ぶ暗い天井。背中の下は堅く、冷たい感触が衣服越しにじわじわと伝わってくる。床の上に寝かされているようだった。頭の下にだけ何か布のようなものが敷かれている。
 場所も状況も急に変わっていたが、どこで突然記憶が途切れたのか都雅にも分かっている。意識の中に急激に何かが浸食してくる威圧感がまだ生々しく心のどこかに残っている。
 まずいな。
 瞬いて、再び上を見る。自分で思うほど意識が暗かった。異様に緊張している。まるで怯えているかのようだ。張り詰めて、そして何もかも億劫になるほどに心が重い。
「都雅ちゃん」
 呼ぶ声に気がついて目を向けると、ほっとしたような表情の美佐子がいた。寒そうな格好をしているなと思ってから、頭に敷いていたのが、美佐子が着ていた上着のようだと気がつく。美佐子の隣には、少年が猫のような格好で座り込んでいる。誰かの体操着を拝借した菊だった。彼らの後ろには、灰色の鉄パイプの林が見える。机の脚と椅子の脚だ。どこかの教室に逃げ込んだのだろう。
 身を起こして座り込んで、自分の膝に目を落とせば、脇にたれた腕が見える。添え木のあてられた、傷ついた腕。思い出した途端に痛みが甦ってきた。他に外傷はないけれども、体は疲労で重く、気怠い。
 なんで、怪我なんてしてるんだ。そんな目にあったのに、どうしてこんなところにいるんだろう。どうしてあんな恐ろしいものを追ってきたんだろう。人に責められるのが嫌だから? 追い詰められて怖くて、仕方なく? こんなに傷ついているのに、分かってもくれなくて、無茶ばかり言って押し付けてくる人のために? 別に無理しなくたって、もっと楽な方法があるのに。
「都雅ちゃん、大丈夫? 怪我は? 倒れたときに頭打ったりしてない?」
 心配そうな美佐子の声が耳に届く。けれど都雅は応えず、陰鬱な表情で気だるく立ち上がった。途端によろけて、脇にあった机に手をつく羽目になった。腕の痛みが増して、唇を噛み締める。その様子を見ていた美佐子が、痛みの声さえ上げない都雅の替わりのように小さな悲鳴を上げた。
「都雅ちゃん! 無理しないで」
「放っとけ」
 駆けつけようとした美佐子に、拒絶の言葉を投げる。驚いた美佐子の足が遠慮がちに止まった。
「……でも、大丈夫なの? 都雅ちゃん、突然倒れたのよ」
「うるさい!」
 一喝と共に、都雅の拳が机を叩く。――殴ると言った方が当てはまるような動作で。腕は再びひどく痛んだが、やはり虚しく思う道具にしかならなかった。どうせ、こんな体。こんな命。
「都雅ちゃん……?」
 木の板に両手をあてて震えている少女に、先刻とは別の意味で驚いた美佐子が声をかける。都雅はもう、反応しなかった。美佐子は何が起こっているのか分からなくて、菊と目を合わせる。
 そして、拒絶を向けられたのに、都雅の方へと手を伸べる。肩に手を置こうと、もしくは腕を掴んで、もしくは肩を抱いて落ち着かせようとした。
 だがやはりそれは適わなかった。


 噴出すように現れた、圧倒的な存在感があった。動きを止めて目を向けずにいられないほどの、無視する事など許さない、そして出来るわけもないほどの、威圧感。
 電気のついていない暗い教室の、誰もいるはずのない場所へ突然沸いたもの。顔を上げて美佐子は、教室の黒板の前、教卓のその前に立つ少女を見つけた。良く見知った知人の姿をした、けれども彼女の日常からはかけ離れた存在。
 そこに君臨して夜の領分を支配するもの。
「彩香……」
 名を呼んで、それきり何もできなくなった。
 目の前の、様子がおかしい都雅のそばを離れられなかった。例え友人の元に駆けつけたところで、何もできないのも分かっていた。そして先刻廊下で見た、彼女の知っている友人とは思えない表情、行動を思い出して。
「おやおや」
 そんな美佐子の葛藤など目もくれず、少女は感嘆を込めた声をあげた。
 視線を送られても、都雅は反応を見せない。暗い瞳を自分の手に据えたまま、動こうとしなかった。何かに耐えるように、まわりを見遣る余裕のない目は一点から動かない。
 そんな中駆けてくる足音がして、美佐子も菊もびくりと顔を向ける。
 無遠慮に扉をガタガタ鳴らす音が響いた。鍵のかけられた扉に苛立つ声がする。美佐子がこの教室に駆け込んだときには、菊が教室の後ろ側の扉を蹴飛ばしてドアを開けた。今はそれをとりあえず元の位置に立てかけてあるだけなのだが、相手はそんなことに気づく余裕もないようだった。前側の扉を殴りつけたような短い音がして、扉がいきおいよく教室の中に倒れこんできた。突然緊迫する空間に割り込んできた音に、美佐子が再び、びくりと肩を震わせる。
 無遠慮に足を踏み込んできたのは、そんな動作が似合わない麗人だった。肩で息をして、自分が倒した板の上を歩き出すその動きも、彼のような佳人の仕草とするならば、少しも粗暴にはならない。教室に入るなり、彼の顔は険しくなったけれど。後ろから駆けてきた崇子に、美佐子たちの方を指差して、情け容赦のない冷たい声で命じる。
「目触りだからあっちで結界でもはっててよ。ガタガタ震えてたってそれくらいならできるだろ」
 あまりに不機嫌で容赦ない声と言葉に驚いた崇子は、一瞬足を止めたものの、壁伝いに教室の後列の方へ回りこんだ。最後尾の机のところに都雅が立っている。その横に美佐子がいて、彼女を守るように駆けつけて前に立つ菊がいる。
「ポンポンあちこちに現れて、便利でいいよねえ。ぼくも覚えようかな、そういうの」
 苛立ちの表情のまま、皮肉げに蓮が言う。その彼と、間近に立つ崇子を見遣り、怪訝そうに菊が声をあげた。
「おぬしら、もう一人はどうした」
 それはある意味、軽はずみな疑問だった。思ったことがすぐ口に出る傾向にある菊の良いところで悪いところだ。少し考えれば、何かの作戦でわざと別の場所にいるのだとか、遅れてきているのだとか、察せられるところなのに。もしくは。
「うるさいなっ。ちょっとくらい、状況を察するとかしてみたらどうだ! お前らのせいなのに!」
 蓮の剣幕に、初対面の相手ながら少し怖気づいて、それでもやはり菊は続けた。
「何をそんなに逆上しとるんじゃい」
「怒ってるからに、決まってるだろっ!」
 蓮が力いっぱい怒鳴る。初めから大層不機嫌だったのに、言うにつれてどんどん怒りが抑えられなくなっている。菊がようやく口をつぐんだのなど気にも留めず、眼差しは、はじめからずっとそのまま魔族に据えられていた。
 ――力いっぱい怒っているからに、決まっている。今この現状を目にして。
 そうなるだろうと分かっていた、けれども、あってはならない現状を視界におさめて。
「どうしてお前がそこにいるんだ」
 凄絶としか言い様のない容貌で、声を低く抑えて言葉を落とす。先刻の菊と同じ言葉を、わざわざ問いかける。眉をつりあげて、相手をにらみつける目が尋常でなかった。そんな視線を悠々と受けて、魔族は愉快そうに笑った。
「わざわざ聴きたいのかい? それを、わたしの口から」
 そう言って、彼女は嘲笑った。
 蓮が口をつぐむ。気圧されてとか、意気を挫かれたとか、そんなことではなくて。怒りのあまりに言葉も出せなくなった。一度大きく息を飲み込む。そして、吐く息と一緒に、震える言葉を落としていく。
「いいよ、別に。言わなくても。ああ分かってるよ。何がどうなってあんたがそこにいるのかくらい」
 さらにもう一呼吸。同時に彼は顔を上げて相手をきつく睨みつけた。
 途端、何もなかったのに。風も気配も、何かが動く様子もなかったのに、黒板の前に立つ少女が後ろへ吹き飛んだ。ドアがあるのとは反対側の壁に叩きつけられて、鈍い音がした。美佐子と、状況をうかがっていた崇子が息を呑む。都雅はもう顔を上げてもおらず、何かに耐えるようにうつむいたままだった。
「何をしとるんじゃ!」
 抗議の声を上げたのは菊だ。何が起きたのか分からなかったが、蓮がそれをしたことくらいは分かる。
 ――精神能力者(サイキック)……?
 崇子が驚いて彼を見る。希少能力だ。多少の素養さえあれば、勉学をつんで力をつける事のできる類の能力と違う。その力を、生まれ持った者だけが使うことのできるもの。驚いたが、彼らが簡単に壁を壊したりできたのもこれで納得が行く。そもそも体も頑丈ではあるのだろうが、念動も駆使していたに違いない。
 だが菊の抗議を蓮はまるで聞こえてもいないように無視した。本当に聞いていなかったのかもしれない。ただ彼は、魔族が壁を離れ、二歩ふらふらと歩いて止まったのを凝視している。
「お前……」
 魔族は、今まで誰もが躊躇した物事に、目の前の傍若無人な少年がまったく動じていないことに意表をつかれていた。彼女は今まで何度も口にしたことを、再び問う。
「分かっているのか。実際にお前の目の前にいるのは、ただの人間なのだぞ。しかも、そこにいる娘の友人だそうではないか」
「そんなこと、知ったことか」
 即答で返す蓮はまったく動じなかった。彼にとって、そんなことはどうでもいいのだ。――極端に言えば、他人なんて。
「ぼくにとって、お前がかぶってる人間なんかどうでもいいんだ。奏に比べれば、そんなの動かない置物と一緒だ」
「しかし、置き去りにして逃げ出したのはお前だろう」
 人の心理など決して理解できないくせに、知り尽くしてはいる魔族が、揶揄するように言った。
「でも、お前はしちゃいけないことをした。物事には、限度ってものがあるんだ」
「わたしがそれをするということくらい、お前だって分かっていたはずだろう? それでも逃げたのは、お前自身だろう」
 現実をつきつけられて、さすがに蓮も言葉を叩き返せなかった。歯を噛み締めて、勝気な瞳を足元に落とす。
 ――ああ、分かってるとも。
 奏はいつだって、自分を盾にして人を助けたがる。その気になれば、こんな魔族に対抗することくらいできるくせに。今まで無事だったから、これからだってそうとは限らないのに、あの底なしのお人よしは、いつもそうやって自分が傷ついている。蓮と出会ったばかりの時だって、そのせいで死にかけた。あの時の痛みが、奏が誰かのためにそれを繰り返すたび、心の中によみがえる。
 どれだけ繰り返せば気がすむのか。自分も相手も。どれだけ後悔すれば、ぼくはあの馬鹿の、馬鹿な癖を止められる?
「ああ、無理だって分かってるさ」
 もう誰に向けてでもなく、つぶやいた。
 馬鹿な性分だと言うことなど、誰よりも蓮自身が熟知していたことだ。相手も自分も。
 ――分かってるとも、ぼくが悪いのくらい。
 心の中で、念じるように強く繰り返す。結局最後に、何より腹が立つのは、こうなるのが分かっていて止められなかった自分。
 ――だからこれは。
 再び顔を上げる。もう何もかも吹っ切って、心底の憤慨にまかせて目前の敵を睨みつける。唐突に、まわりの空気が冴えた。






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