まがことのは




第九章











 奏は蓮をなだめるように動く方の腕で彼の肩を軽く叩くと、体を離した。そのまま、手近にあった教卓を軽々持ち上げる。力を溜める様子もなく、相手に向かって投げつけた。威嚇射撃のような一撃は、魔族へたどり着く前に弾き飛ばされ、空中で四散して、黒板にいくつか破片をめり込ませただけに終わった。
「やはりお前もか……」
 人間なら死んで当然の重傷を負わせたはずだった。けれどそこに相手が立っていても魔族は驚かなかった。蓮同様鬼の姿をした奏に、彼の体の傷が治りかけているのも、理由を尋ねる必要はないだろう。
「女子供には優しいのではなかったか」
「大抵の場合はって言っただろ?」
 あんなものを投げつけられて、普通の人間なら、首でも折って死にかねない。挙げ足をとるように言う魔族の言葉ではあったが、奏は少しも動じた様子はなかった。それは彼が自分に許している唯一の矛盾だったから。
「蓮に手を出した場合は、俺の言う「大抵」に含まれない。もう手段を選ぶ優しさは持ち合わせてないよ、さすがの俺も」
 穏やかな笑顔で言う。
「あんたは俺のこと、あんたを侮ってると言うけど、その程度の力はあると思ってるよ。一応、これでも、体は魔族だからね」
「愚かなことを」
 奏の言葉すべてに対して、魔族は憎々しげに吐き出した。
「魔族のくせにわたしを止めて何とする」
「だからなんだって?」
 奏は平然と問い返す。鬼だからなんだって?
「人を助けて何になるというのだ。何の特になる?」
「あのねえ。何か勘違いしているようだからお教えして差し上げますけど」
 わざとらしい調子で、奏はわざわざ丁寧に前口上を上げた。
「俺は人間なんですよお」
 頭から二本の角を生やして、金の瞳をしたまま。唇の端から鋭い牙を覗かせたままで彼は楽しげに宣言する。
「その姿で何を言う」
「だから、ちょっとばかし体が頑丈で、そんでもって少しばかり個性の強いだけの人なんだ。今までもこれからもずっと。俺たちが人に仇なすことはあり得ない」
 嘲りと共に言われてもまったく揺るがない。自信と信念。生を受けてから数百年、それだけは失わずに悠久の時を生きてきた。
「人間として生まれ人間として生きてきた。途中ちょっと色々あってまあ長生きしてるけど、死ぬときも人間として、「らしい」理由で死にたい」
 そんな彼を魔族は軽蔑の眼差しで見る。
「ただの巻き添えでここにいる、この小娘を殺すことは、人の技なのか?」
「俺は人間だけど、生きてきた時代が、この子たちとは違うんだ。人を殺した事もあるし、殺せる。守るためなら殺せる」
 本当はそれをしたくないから、あんなに犠牲を払って、傷だらけになってまでその結論を回避しようとしたのだけども。
 大きく足を踏み出した。拳を握り締めて、振りかぶる。だが殴りつけたその拳は、指先も動かさずに防御した魔族に当てる事ができなかった。何もないはずの空間で、少女に触れる事もできずに止まっている。
「蓮ちゃん、頼む」
 背中から言われて、渋々の顔で蓮が――そのくせ、言われるまでもなく援護できるよう控えていた彼が、同じように両手を伸ばす。
 奏の意図など説明されなくても分かる。結局彼は、ここにいる無力な人たちを巻き込みたくないのだ。だから敵を追い出そうとしている。
 そして身を守る事はできても、魔族の憑いた少女の足では、懇親の力を込めた彼ら二人の力の前に、その場に踏みとどまることができなかった。蓮の攻撃のせいで亀裂の走った壁に押し付けられ、魔族の結界に触れた壁がヒビを増やしていく。ついには壁が崩れ、ほとんど吹き飛ばされる勢いで、少女は壁の向こうに追い出されていた。
 美佐子は都雅を連れて逃げるとき、どこかへ身を隠そうと思った。手近な教室でもどこでも良かったはずなのに、彼女が逃げ込んだのは無意識のうちに、自分のクラスの教室だった。ちょうど建物の二階、壁の向こうは何の障害物もない運動場だ。
 奏は頓着せずに壁に開いた穴へ手をかけると、またぎこして飛び降りた。面倒くさそうな顔の蓮がすぐに後を追う。
 残されたのは、唖然としている人々だった。




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