まがことのは




第十章













 建物から出てしまうと、夜の色は決して恐怖ではなかった。月の明かりに満ちた闇は、優しく彼らを包んでいた。
 そして駆け回る子どものいない、寂しい運動場に人の姿が三つ。ほど遠くないところにいた奏たちへ近づいて、都雅は無遠慮とも言える眼差しで彼らを見た。
「鬼頭さん、ね」
 鬼の姿にも、表情を変えずにつぶやく。
「『狩人』――『同族狩り』か」
「おや、ご存知でしたか」
「情報収集も仕事のうちだ」
「お嬢ちゃん、渋いね」
 奏が楽しそうに笑って言う。
「お嬢ちゃんは、どうしてここに? ちなみに俺たちは、奇妙な現象をなんとかしてくれって、学校に雇われたんだけど」
「人探しだ」
「おやそうですか」
 答えになるような、ならないような、そもそも答えるつもりのないような都雅に、奏は呑気に言葉を返した。とりあえず敵対する相手でないのは確かだから、それ以外は答えを請う必要もない。自分勝手な、自分にしか分からないような物言いをする人は、蓮で十分に慣れていたし。
「どうだい、『破壊神』殿と俺たちなら、多少は楽できそうかい」
「馬鹿を言うな」
 それはやはり、お前らみたいな鬼と手を組むつもりなんてないってことなのか。やっぱそうかな、と少しばかり残念に思って奏は問いかけるのを止めた。
「お前は」
 少しばかり離れた場所に、魔族が少女の姿で立っている。声には、本人も気づいていないような震えがあった。その顔も、もう笑ってはいなかった。唇をゆがめて、思い通りに行かない事態に苛立ち、怒りの表情が表に漏れ出ていた。
「どうしてまだ、そこに立っている」
 なのに都雅は、相変わらずに平然と答えた。あれだけのことをされても――だからこそ。
「お前が気に食わないから」
 憮然とした態度に、魔族は眉をひそめる。うまくいかない物事は、余裕を失わせるに十分だった。そして、忘れてしまうにはあまりにも鮮烈な出来事を思い出す。なぎ倒しても突き返しても、馬鹿の一つ覚えのように立ち上がってくる少女。思う通りに運ばない現実。そんなこと、今までなかったと言うのに。
 魔族はさらに何かを言おうと口を開いた、けれども言葉は声にならなかった。びくんと、魔族の体が――少女の体が一度、跳ねた。
 驚いたように目を見開く。その顔は今までとはうって変わってあどけなかった。一体何が起こっているのか分からないと言う顔。分からなくて恐いという顔。助けを求めて泣きそうになっている、そんな顔。魔族の表情などではありえない。操られた表情ではない。
「誰だ?」
 都雅は一瞬何が起きたのか分からなかったが、いぶかしげにつぶやく。誰かが術を使っている。少女が魔族を追い出そうとしている。
「祝詞か」
 答えるようにつぶやいたのは奏だった。なんとかできるなら、崇子だけだと分かっていたし、彼女がそれをしてくれたということなのだろう。そして変化は、彼らの目の前で起きていた。



 抑圧された心が、何かに誘われるようにして表に出始める。優しい気、うながすような癒しの気に誘われて、光りを求めてさまよい出始める。
 確かにわたしは両親を憎んでいたと、彼女は自分の意識で思った。よりによってこんな時期に、自分たちの子どもにとって大事な時期に離婚の話などをし始める両親。そのせいで自分がどれだけ不安になるかなど考えもせずに、成績が下がれば怒り、部活に顔を出して帰りが遅くなれば怒る。息抜きのつもりだったのに、そんなことをする暇があったら勉強をしろと叱る。
 人の気も知らないで。努力している姿は、肝心な事は何も見ようとしないで。こんなに苦しんでるのも知らないで、勝手なものだと思う。自分たちが一番彼女の成績を下げる原因だというのに、それで彼女を叱るのだ。
 本当に、憎かった。勝手な大人が許せなかった。
 暗い心が膨れ上がっていく。それは急激で、自分でも怖くなるくらいの深さで、彼女は怒りと共に恐れてもいた。普通じゃないと感じた。こんなわたしはおかしい、普通じゃないと思い、そのことにまた傷つき、違和感を抱いた。
 そして異物感に――自分の中のそんな暗い部分に、何かがつけ込んでいるのに気づいた。次第にそれは強くなり、そして夜になるにつれて大きくなっていく。自分という者が抑圧されていくのが分かる。他の誰かを傷つけているのが分かる。
 そして自我をなくせば苦しみから解放されるのだと、それはいつもいつも語りかけてくる。声なき声は自分を捨ててしまえと、明け渡せと言ってくる。
 成すがままにここまで来てしまった。言うことを聞く魅力よりも、恐かった。でも彼女は、本当はいやだったのだ。それが強くなる夜が恐かった。でもそんな彼女の気持など誰も分かってくれない。真面目に聞いてくれたのなんて、美佐子だけだった。
 でも誰も彼女を助け出す方法なんて知らない。
 ――でも、こんなことになって、思うのだ。
 自分が苦しいからって、誰かを傷つけたいなんて思わなかった。本当は、そんなこと望んでいなかった。
 ――本当は、両親のことだって、悲しくてたまらなかっただけだ。一緒にいてほしいのに。家族でいてほしいのに、別れるなんてことを言い出したのが悲しかった。止めたくて、でも言えなくて、苦しんでいただけ。そんな自分がいやだっただけ。
 そのことに、彼女は気がついた。
 ――――明るい光に誘われるようにして、気づくことが出来た。太陽の光に誘われて目覚めるように。



 少女の体からあふれるようにして影がにじみ出てきていた。うずくまる華奢な背から、脱皮するかのようにはがれ出たのは、闇の色の着物をまとった背。絹糸の黒髪をぞろりと生やした頭。色をなくした白さの手。その鋭い爪。決して親しみを覚えさせることのない、凄絶な美しさを持つ貌。
 体を追い出された魔族は、闇の色の目で虚空を睨みつけた。首をめぐらして、ここにはいない者の方へ顔を向けた。この祝詞は覚えがある。目の前の者たちの影に隠れるように、震えていた巫女がいたことを思い出した。楽しみのおもちゃを取り上げられた子供のように、凌霞は不機嫌に顔を険しくした。
 今にも標的を変えそうな魔族に奏は、駆け出すべきか攻撃をするべきか惑ったが、それは杞憂に終わった。
 魔族は動けなかった。何者かがそれを許さなかった。
 先刻の崇子の術によって目覚めたのは、とり憑かれていた少女だけではなかったのだ。もう一つの、抑圧されていた者。目覚め誘われて、そのことによって助力を得て、そして自らの力で、魔族の内から出てこようとしていた。
 美しい姿形をした魔族のその腹の辺り。帯を締めたあたりに、ずるりと何かが現れる。まず前髪の生えた額。鼻梁。優しい眉。閉じられた瞳。いつもは笑みをたたえている唇。少年の顔が、魔族の腹にはまりこんでいた。
「雅牙……っ」
 彼の名を呼ぶ少女の声は、驚愕と怒りに揺れていた。






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