少女は暗い洞穴の前にたっていた。首を伸ばして覗き込めば、それは深淵へとつながっている。光りが奥へは届かなかった。
「これが、ただの穴に見えるとはな」
大人が屈まずに行ける程度に開いた穴に、封印の注連縄のされた向こう、暗澹とした世界が広がっている。漏れ出ている妖気を感じたし、好きこのんで、この向こうに踏み込みたがる人の気が知れなかった。
まあ、自分なら、全然一向に気にしないけれども。
「ただの穴ではないか」
つぶやいた者の翠の双眸は、同じように洞穴を見やっている。しかし、彼の目に映る洞穴は、人が十歩も進めば壁にぶち当たるような、狭いところだった。まるでかまくらのようだ、とその知識があったら思っただろう。そびえる山の中に、ぽつりと開いた穴。
「お前、それでよく妖怪がやってられるな?」
都雅(つが)は自分の足下にまとわりついて洞穴を窺っている黒猫に向かって、あきれを隠しもしない声で素っ気なく言った。憤慨した様子の猫が、鼻息を吐いて、彼女を見上げる。
「やかましいわ。おぬしのような化け物に言われとうない」
わしよりおぬしの方が余程妖怪じゃ、と菊は歯牙の向こうからぶつぶつとつぶやいた。いわゆる、化け猫、というやつである。
「そうか、そんなにあたしの才能がうらやましいか。へええ。そら知らなかった」
白々しい口調で言うと、少女は猫の首根っこを掴んだ。飼い猫ながら首輪をしていない菊の、まるで襟首を掴むようにして。
「なにをするんじゃ!」
「尊敬するあたしの役に立たせてやるから、ありがたく思え」
「な、なにおぬしまさか……!」
「黄泉の旅路を楽しんでね」
不似合いな女の子言葉で、不吉さを感じさせるくらいににっこりと笑うと、少女はおもむろに猫を洞穴の中に投げ入れた。猫が掠れた悲鳴のようなうなり声をあげ、宙を飛んでいく。目前に迫った岩肌に激突する寸前、爪を立てようと身構えた。けれど、その前足は、虚空を薙いだ。
予想した手応えが全くなく、あるはずの壁を通り抜けて、菊は危うく地面に激突しそうになる。そこはさすがに、身をひねって回避したが。
「おぬし、また乱暴なことばかりしおって……!」
文句を言いながら首を巡らして振り返る。けれど、あるはずの陽光がなかった。生い茂る木も、仁王立ちしていたセーラー服姿の少女も、ランドセルを背負った小さな少女も。自分の背後でぷっつりと、世界が途切れていた。
「なんじゃこれは……!」
黄泉の旅路を、と言われたのを思いだし、一瞬本当に死んでしまったのかと思う。明かりのない周辺は深淵の闇で、例え、懐中電灯を持って入ったところで照らすことが出来る類の闇ではないのは分かる。自分を包む大気が重苦しいのを感じていた。
しかし足下に触れる地面は、岩肌の感触に違いなかった。別次元に放り込まれたわけではないようだ。
「あの小娘」
とりあえず、悪態をつく。
のどかな午後の光の中で、都雅は腰に手を当て、満足げに立っていた。傍らの少女は、岩肌をすり抜けて消えていった菊を見て、目を見開いて口をぽかんと開けて立ちすくんでいた。猫が言葉をしゃべっているのにも驚いたのに。
「やっぱり、幻術か。ちょっと綻びてるな」
都雅は平然と、結界の方もか、とつぶやく。菊や都雅のような、尋常とは言い難い力を持ったものを通す程度には弱まっているようだ。実験体に菊を使って確信を得た彼女は、おもむろに隣の少女に顔を向ける。
「で、弟が消えたのがここだって?」
「うん。友達とかくれんぼしてて、順がここだったら絶対見つからないからって。なんか縄がかけてあるし行き止まりだし、隠れるとこなんかないし、何言ってるんだろうって思ってたの。そしたら探しに来てる声がしたから、あたしちょっと順から目を離して、そしたらいなくなってた」
「でも誰に言っても信じてもらえなかった、と」
うん、と少女は力無く頷いた。
「いきなり消えたって言っても、大人は誰も信じてくれないの。こんなところ迷うようなとこでもないし、隠れられる場所もないし。最初はあたしがちゃんと面倒見ておかないからだって、怒られて。でももう三日も帰ってこないから、誘拐じゃないかってことになったりしてて。そしたら、あたしだけでも無事で良かったって、今度はお母さん泣いてるの」
いわゆる、どこにでもある少し小高い山の中。山には中腹から上には家もなく木が茂っていて、急斜でもないから、子どもが遊ぶには最適の場所でもあった。ふもとにどこにでもあるような小さな神社があって。
「あたしもね、順がいなくなったとき、一緒に隠れようって言ってたのにどこ行ったんだろうって思って、探したの。そしたら鬼の子に見つかっちゃって、順の他の子もみんな見つかって、なのに順がどうしてもいないから、おかしいねって言っててね。みんなで探したのよ。この穴がどうとかいってたし、おかしいと思って入ろうとしたんだけど、あの壁、普通の壁だったのよ?」
少女は言いながら泣き出しそうになっていた。口をゆがめてこらえている。
「普通の壁なんだ。そういうことになってる」
高度な幻術とは、そういうものだ。手で触れても岩のごつごつとした感触があるし、ここは行き止まりだと、無意識に思いこむ。自分の知識の中にあるそのものを記憶の中から掘り起こし、勝手に想像して勝手に感じる。そういうことになっている。
それだけでなく封印とは、向こうから出てこられないものであるのと同時、こちらからも入れなくなっている。こちら側の人間を守るため、何も知らずに向こうに入ることがないよう、二重に用心してあったのだが。
「時々、子どもは見えないものを見たり聞いたりするんだ。そういうものらしい。あたしは普通とは違うし、あの猫も妖怪の類だから。見えるし……つっても、あの莫迦は見えなかったみたいだけど、ちょこっとどうこうすれば入れる」
ここまでゆるんでいては、少しも待たないうちにこの奥から封印されていたものが出てきた可能性が大きい。いなくなった少年は、ここに危険なものがあることを教えて、ある意味このあたりの人間を救ったとも言えなくもない。
「ま、あんたもあたしを見つけて運が良かった。助けてきてやるから、ちゃんと報酬用意してて待ってろ。ただ働きは性分じゃないんで」
都雅は唐突に歩き出す。不安そうに背中を見送る少女を振り返り、思い出したように言った。
「あるわけないけど、もし夕方になっても戻ってこなかったら、家に帰れ。あんたまでいなくなって、これ以上お母さんを悲しませんじゃねえぞ」
およそ少女とは思えない口調で、優しくもない声音で。まるで言い捨てるようだったけれど。
注連縄をくぐって、壁の向こうにセーラーカラーが消えていくのを、少女は不思議に頼もしい気持ちで見送った。
「ようやっと来やったか、この小娘!」
暗闇の中に入り込んだ途端、金切り声が聞こえた。同時にムッとするようなたちこめた妖気が体のまわりを押し包んだのを感じた。真夏に閉め切って暖房をたいた部屋の中に急に入ったような圧迫感と息苦しさ。――もちろん、暑くはなかったが。
都雅はとりあえず足を振り上げた。声のした辺りに当たりをつけて蹴り上げたつま先が、何かをかすめる。
「ギャッ。なにするか! 年寄りは労わらんか!」
おお、いたいた、とつぶやく少女に向かって、菊は再度怒鳴った。
「年寄りを労るのは、年の功で培った知識があって、体力が若者より劣るからだろ。お前は一応爺ぃだが、見た目は成猫ってより子猫に近いし、頭も悪いから、労る必要性を感じねえな」
「へりくつ吐きおって!」
「あたしにちろちろくっついて来るのが悪いんだろ。いやだったら、家で大人しく美佐子の膝ででも寝てればいいだろうが」
「美佐子ちゃんはまだ学校じゃ! ついでに言えばおぬしも学校だろうに!」
「あたしは頭がいいから学校なんて時々行けば十分。生活かかってるし、仕事しないわけには行かねえんだよ」
「がめついのう」
「何かしてもらったらお礼をするのは当然だろ。何度も言うが、あたしだってボランティアで魔道士やってるわけじゃないんでね」
どうやら、大量の血が流れた様子はない。少年は無事なようだと、それだけは確認する。
「こう暗いんじゃ、どうしようもねえな。封印解くか」
封印が解ければ、ここはただの洞窟だ。わずかとは言え陽光が入るに違いない。
「何言っとるか。入り口にはあの子がいるのじゃぞ。危険ではないか!」
「うるせえな。人間に化けるくらいしか能がないくせに、いちいちプロのすることに文句を言うな」
封印を解いてしまえば、外界から陽光が入るのと同様、こちらから封じられたものが出ることもできるのは当然だ。空間を閉じていた壁がなくなるのだから。しかし、封印の中に侵入することは出来たものの、今のままではどうしようもなかった。
菊がなにやらまたうるさく言う前に、都雅はぶつぶつと何かをつぶやき始めた。
唐突に風が吹き込んできた。息苦しく重かった空気が、突然軽くなった。急に視界が開けて、菊の瞳孔が細くなる。とは言え、洞窟の中のこと、そんなに明るくなったわけではないのだが、先刻の深淵の闇に比べれば、真昼のような明るさに感じてしまう。
菊は慌てて背後を振り返る。随分遠くなった洞窟の入り口に、赤いランドセルを背負った少女が不安そうに見ている。
だから危険じゃと言うに、と文句を言おうとして、菊は声を飲み込む。ほとんど本能で、迫り来る恐ろしいものを感じた。威嚇の鳴き声をあげながら、身をひねって飛び退さる。
激突する音がして、再び視界が黒く閉ざされた。――否。
寸前まで菊がいた場所に、黒いものがうずくまっている。菊のような艶やかな黒い毛ではない、ごつごつとした手触りを思わせる、薄汚れた毛並みが見える。唐突に視界を埋め尽くしたそれに、錯覚を覚えてしまった。
何か大きな、人間の大人二人分はありそうな生き物。――否、生き物ではない。
「いきなりなんじゃ、封印解かれたばかりじゃと言うに、元気な奴じゃの。これ、都雅! 早うなんとかせんか!」
少女がいたであろう場所に怒鳴り、菊は愕然とした。――いない。
けれど呆然としている暇などなかった。再び飛び退さる。妖怪の拳が、菊が居た場所に向かって振り下ろされていた。地面に亀裂が走る。
それは尋常でなく大きな猿のような姿をしていた。腕というか前足と言うべきか、前肢がとても長い。逃げ惑う菊の方を見た凶悪な目は、赤く光っている。しかし、顔の中に唯一つ。口に収まりきらない大きな牙が、のどかな陽光に照らされて見えた。――悪寒がする。逃げなくてはならない。
けれど、どこへ? 洞窟の外へ行けば、山を下りてしまえば、絶対に逃げられる。間違いもなく。けれど、人の居る場所へ導き出してしまう。そこにいる少女を巻き込んでしまう。危険だから封じられていたのだ、それはできない。ならば、奥へ? うかがい見る余裕はないが、どうやら洞窟の奥はそこそこ深いようだ。でも、行き止まりかも知れないのに?
いったい都雅はどうしたのかと、菊は走り回りながら恨めしく思った。しかし――察してしまう。
封印を解かれて、妖怪はどこへ向かうだろうか。この洞窟の外へか、弱っていた少年を食すために洞窟の奥か。彼らは自分を排す事が出来るものに敏感だから、魔道士たる都雅のところか。そのどれかなら、とにかく少年を守らなければならない。都雅はきっと少年のところへ行ったのだろう。
ここで時間を稼げと言うことに違いない。そして妖怪が外へ出ることがないよう、足止めをしろと。――嫌なわけではないけれども。
一言の相談もなく、承諾も得ず、またなんとも勝手な小娘だと、恨みは深くなる。たとえ深くなったところで、何も出来はしないのも分かっているが。
美佐子ちゃんに言いつけてやる、と。それは彼の飼い主であり、都雅の数少ない理解者で、彼女があまり強く出ることの出来ない数少ない相手だ。唯一出来る報復を、彼は固く誓ったのだった。
視界の端を黒い影がよぎる。けれどそれは惑ったように都雅の様子を窺って、彼女がそれを足止めしようとする気配を見せないのを確かめてから、頭上をかすめて、背後へと飛んでいった。都雅は気にせず奥へ進む。
洞窟は、入り口から十メートル程で折れ曲がっていた。折れ曲がった先で二つに別れ、両方ともすぐに突き当たりが見えた。だが一つは突き当たりの前で足場がなくなっている。下へと掘り進められた穴に凝り固まった妖気があって、どうやらそこに妖魔が長年封じられていたようだった。
反対の穴の奥に、誰かが倒れているのが見える。
「おい」
背後に激音を聞きながら、さしても慌てた様子もなく都雅は少年に近づいた。仰向けに倒れていたのは予想通り、依頼人が探していた弟に違いない。服はあちこちが破れて、彼自身傷だらけだった。両膝はすりむいて血を流していたし、片方の足はひどく腫れ上がっている。どこかに強くぶつけたらしく、額からも血を流していた。
「おい、生きてるか」
穴に入り込んでしまって、少年は驚いたに違いない。――菊が洞穴に放り込まれたとき、唐突に闇に閉ざされたことに驚愕したのと同じように。菊の場合は、彼自身が妖怪であったし、都雅が後ろから来るのが分かっていたから、少しの動揺でおさまった。事情も多少は分かっているから、どういうことなのか予想もついた。けれどこの幼い少年がそれでいられるわけがなかった。
恐慌を引き起こし、帰ろうとしたに違いない。けれど、あの闇だ。目を開けているのか閉じているのかも分からない、わずかの光りすら入らない闇。自分の手も足も見えないほどの暗闇で、方向感覚が失われて当然だった。出口はすぐそこのはずなのに、すぐ引き返したはずなのに、実際は違うところへ向かって歩いていた。歩いてもたどり着かない。一体どこへ歩いているのかも分からない。見えないのだから、あちこちに躓いて転んだのだろう。たとえそこにあったのがただの石ころでも、見えないのでは何が起こったのか分からない。でも転んでぶつけた体は痛いのだ。しかも、三日飲まず食わずで、全身は傷だらけで、歩く気力も体力もつきていたところだろう。彼の汚れた頬には、涙の筋がはっきりと見えた。
少年は閉じていた目を開いて、ぼんやりと宙を見た。黒以外の色彩が彼の目に入るのは、随分と久しぶりのことだった。一体目に見えるのが何なのか容易に判断できない。口を開いて話そうとしたが、からからで声が出ない。つばを飲み込みたかったが、力も入らなかった。
けれど、近くに誰かいるのが分かる。暗黒の中には、何かすごく恐いものがいるのが分かっていたけれど、それとは別のものだ。だって、額に当たる冷たい手が、とても暖かい。流れ込んでくるものが、じんわりと優しくて、暖かい。
「お姉ちゃん……?」
もう一度口を開いた彼は、何故かさっきは出来なかったのに、言葉を話すことが出来た。感覚がおかしくなって、背中の地面も感じなくなっていたのに、唐突に、冷たいと思った。
「残念ながら、あんたの姉ちゃんじゃない」
視界がはっきりしてくると、きつめの瞳と目があった。座っているのは、セーラー服を着た少女。
「ほら、立てるか?」
無機質な印象を与える声に問われて、無理だと反射で思った。何かにぶつけてからひどく右足が痛い。それから歩けなくなった。立てるわけがない。
「あんたの姉ちゃんが外で待ってる。外までだけでも自力で歩け。あたしは他にやることがあるから、お前に構ってられない」
都雅は素っ気なく言う。お姉ちゃんが、と少年はつぶやいて、無意識に体に力を込めた。――起きあがれる。痛みと空腹と疲れで、泣く気力すら耐えていたところだったのに。
都雅の手を借りて少年は立ち上がった。痛くて動かなくて、一体どうなってしまったのだろうと恐ろしく思っていた足が動く。まったく痛みが引いたわけではなかったけれど。
「悪いな、あたしは治癒が得意じゃないから、これで精一杯だ。でも自分で歩けるだろ」
全身の擦り傷が消えていた。頭はまだずきずきしていたし、膝の傷も消えてはいなかったけれど。腫れていた足は、大きな青あざ程度になっていた。まるでこの短い間に、時間が彼のところだけ進んだような錯覚を受ける。これなら歩ける。
でも問題は、体力の方だった。治癒できるのは外傷であって、体力や空腹がどうにかなるわけではない。
「ゆっくりでいいから、自分で来い。這ってでもいいから。明るいから、出口は分かるな?」
置いていかれるのだと思うと、助けおこしてくれた腕を掴む手に無意識の力がこもる。爪すらたててしまうほどに。
「聞こえるだろ。あたしはあれを何とかしなくちゃならない。でないとあたしもお前も外に出られない」
言われて、さっきからずっと大きな音が聞こえていたことに、ようやく気がついた。何か大きなものが壁に激突するような音。工事現場でよく聞くような音に似ている。
恐ろしいものがいるのは知っていた。それを思い出して、少年はさらに都雅の腕を強く掴む。――あんなものを、なんとかするなんて?
「大丈夫だから」
もし宥めるような口調なら、そんなの嘘だ、と返していたに違いない。けれど少女の言葉は決して優しい声音などではなかった。思いやるようなものでも、安心させようというものでもなかった。かといって自信にあふれているというわけでもなく。ただ、素っ気なく事実を述べただけのようだった。確定した事実。だからこそ、その裏に自信を見た。ああ、そうなのか、と素直に思ってしまった。
唐突に目の前の黒い妖怪が、横からの力に吹き飛ばされて、菊はようやく長い息を吐いた。
「遅いではないか!」
「あー、悪い悪い」
壁に激突して跳ね返った妖怪を見ながら、都雅はまったく心のこもらない声で言う。ムカムカしたが、逃げ回ったお陰であまり余裕がないので今は文句を言うのをやめた。
「お前はもうちょっと修行した方がいい」
けれど、そんなことを言われて、怒りは抑えようもなく突き上がる。ようやくなんとか整えた息でまくしたてた。
「おぬし、わしにこれだけ働かせておいて、よくもぬけぬけと……」
「だいたい人間に変化出来る妖怪ってのは、十分強いはずなんだ。お前、この穴の中でも平気で歩き回ってたじゃねえか」
「――ほ?」
「考えてもみろ。妖怪が封印されてる洞窟の中で子どもがどうして三日も無事でいられた。あの妖怪は、綻びた結界の中とはいえ、自由に身動きできなかった。封印が解けてすぐ飛び出してきたのを見ると、どうやら最初に封じ込められた場所からは移動していたようだが、それも亀の歩みだ。妖怪なら等しく影響を受けるはずだ。それをおまえはひょいひょい歩いてたんだぞ」
突然思いもしないことを言われて、菊は困惑した。視界の中で妖怪が身を起こしてこちらを睨んでいるが、あまり気にならなかった。――都雅もいることだし。
「しかしわしは、人間に変化する事しかしたことがないのじゃが」
「だから向上心のない奴は嫌いなんだ。もっと努力して少しはあたしに貢献してみろ、この役立たず」
「なんじゃ、人がこんなに苦労して妖怪を引きつけておいてやったというに、感謝の言葉もないのか、この恩知らずめ!」
「お前なんか、別に手伝ってもらう必要もなかったね。こんな雑魚に」
「本当に、美佐子ちゃんに告げ口してやるからな!」
「やれるもんならやってみろ。その喧嘩買うぞ」
にやりと笑って真正面を見ながら都雅が言う。表情に乏しい彼女がそんな不敵な笑みをすると、菊にとってそれは心底恐ろしかった。鋭利な表情を浮かべる横顔を菊に向けたまま、都雅の視線は身を起こした妖怪を見ている。こちらに向かって突進してこようと、身を沈めた――とき。都雅は片手をあげる。掌を、相手に向けて。
「砕けて消えよ」
小さなつぶやき。気負いもなく特別力を込めた様子もなく。精神集中したとか、そんなようすもなく。飄々とつぶやいた、ただそれだけで、何かが動いた。狭い洞窟の中、彼女の掌から何か大きな力の塊が吹き出されて、相手に激突した。情け容赦もない一撃は妖怪にぶち当たり、そのまま少しの障害を感じた様子もなく、壁に衝突する。轟音が反響して耳に痛く、衝撃で地面が揺れた。押しつぶされた妖怪は、砕けて体をぶちまけるよりも早く、灰燼に帰していた。跡形もなく。
都雅は手を掲げて、すらりと立ったまま、横目で菊を見る。思わず菊は、本能的に恐れを感じて後退さってしまった。
圧倒的な力。それで当然という態度。心底嫌みったらしいと思ったが、実力が伴う以上文句のつけようがなかった。
彼女の属する業界において、最強の名高い、魔道士。
「ま、言いたいんなら別に、美佐子に言ってもいいぞ。あいつのことだから、男の子助けられてよかったね、菊ちゃんもよくがんばったね、とか、笑いながら言うだろうよ。賭けてもいい」
あまりに予想できることを言われてしまって、猫は思わず威嚇するような恰好になった。
「そんな分の悪い賭けをするほど莫迦じゃないわい」
ぶつぶつとつぶやいている。にやりと笑った都雅の向こう、少年が歩いてくるのが見えた。
「お母さんもほっとなさったでしょうね。菊ちゃんも大活躍だったんだ」
案の定、少女はにっこり笑って言った。
美佐子の家の屋根の上だった。いつの間にかここでくつろぐ習慣のついた彼女たちは、そこに座り込んでいる。菊は美佐子の膝の上で頭をなでられながら、ごろごろとのどを鳴らしている。昼間の都雅との悶着はともかく、誉められて単純に喜んでいた。
「その子、本当に運が良かったわね。お姉ちゃんが、都雅ちゃんを見つけてくれて」
「――まあ、な」
少しくすぐったそうに都雅が受ける。
少年の姉が都雅を見つけたのは、本当に偶然だった。別の仕事で町を飛び回って――文字通りに「飛び回って」いた都雅を、偶然下校中に少女が見つけて、追いかけてきたのだ。弟を助けて、と頼まれた都雅が依頼を引き受けた。それでなければ、少年は餓死していたか、妖怪に食われていたか。
「それで、報酬に何もらったの?」
おかしそうに美佐子が言って、都雅は今度は少し罰が悪そうな顔をする。手に下げたビニール袋を見やって答えた。
「海苔煎餅」
人使いの荒い彼女の祖母に、買って帰るように指示されていた海苔煎餅である。
「このお人好しめ」
少女の膝の上で伸びきった猫が、彼女がいる場では自分に手を出さないことを知っているから、にやりと口の端を持ち上げながら言った。
「あんな雑魚、煎餅代でも高いくらいだ」
鼻で笑うように都雅が返す。よく言うものだ、と菊は内心吐き捨てた。封印されていたという事は、昔にあれと対峙した人間が、すぐには退治出来ずやむなく封印した、と言うことに違いない。その程度には強いはずだし、菊だってあの図体での敏捷さと破壊力は身にしみて知っている。腕が背中の毛をかすめるほどの危うさでずっと逃げ回っていたのだから。それをよくもまあ、簡単に言ってくれるものだった。
「やはり、おぬしのほうが余程化け物じゃ」
だらけきってつぶやいた菊の眼前に、都雅が拳を突き出して見せる。美佐子は微笑みながら見守っているばかりで、菊は怯えた目で都雅を見上げた。にやりと、不吉さすら感じさせる笑みを浮かべる目を見てしまった。
「こりねえな、お前も。その喧嘩買うぞ」
とりあえず、必死の思いで目をそらす。
終わり