「親父がとろいから、宴を見そびれたじゃないか」 「誰のせいだと思ってるんだ、お前は」 「俺のせいじゃないよ。先に喧嘩売ってきたのあっちだし」 「だからって、相手の腕を折るような喧嘩の仕方があるか!」 「だーから、それはわざとじゃないって! あっちが勝手にこけてしかもこけ方が下手だっただけだよ!」 父親と言い合いながら歩いていた少年の声が、一際大きく上がる。周囲の人間の目が自分たちの方に向くのに気がついて、父親は、分かった分かった、ととりあえず少年を宥めた。 春の桜花、神宮家の執り行う観桜宴も終わり、あとは人々が好き勝手に騒いでいる状態だったから、多少騒いだところで大して目立たないのが救いだ。 旅装の二人は、つい先程桜花に辿り着いたところだった。観桜宴を目当てに来たのなら、到着が遅すぎるくらいだ。少年が近くの武家の子どもと喧嘩騒ぎを起こしたせいで、問題を片付けるのに時間がかかってしまったせいだった。 「紫雲(しうん)のこと馬鹿にするからだ」 明流(あかる)は、拗ねたように言葉を落とす。父親はそんな少年を見て、苦笑した。 「他の土地から遠出してきてた子だったんだから、仕方ないだろう。富岡で、お前の前で、あの子を馬鹿にする人間なんてもういないよ」 「そういう問題じゃないだろー。人の外見のことでからかうなんて、どこの土地でだってやっちゃいけないことだ」 「まあ、そりゃそうだが」 からかいたくもなるよなあ、あの子相手なら、と父親は小さくつぶやいた。話の種に挙がっているのは、少女かと見まごうような美しい顔立ちをしている少年だった。気になる女の子にちょっかいを出すのと同じで、子どもたちがその少年をからかったりするのは、他愛のないいたずらのようなもので、大人の目からしてみれば仕方の無いことのようにも、ほほえましいことにも映るのだが。 しかしながら、当の本人が恐ろしく強いことと、その子には始終一緒にこのやんちゃ坊主がくっついていて、彼をからかうような人間にはまったく容赦しないことが、問題といえば問題だった。 父親は、思い出したのか、再び腹をたててむっつりとした顔をしている息子を見下ろし、やれやれと笑みを落とす。この子は、普段はまったく怒らない子だった。そんな感情をどこかに置いてきたのかというくらい、いつもにこにこしている。ただ親友がからかわれた時だけ、無視を決め込む友人のかわりのように、怒ってみせる。 桜花の城下町を、城へ向かう道を真っ直ぐに歩いていると、遠めに大きな舞台が見えた。飲んで食べて浮かれ騒ぐ人。目を遣ってから、彼は視界の隅に入ったものにギョッとして、視線を戻した。舞台よりも少し手前にある茶店の店先に、見覚えのある人物がいる。 がっくりと脱力して、頭を垂らした父親に、少年が不思議そうな声をあげた。 「どうした、親父」 「いや、別に……」 「おう、泰明! 久しぶりだな」 声をかけられて、父親は大きなため息をついた。 視線の先に、店先で団子を頬張っている人がいた。それを認めて、父親は足を止める。彼に声を駆けた男は、店の奥に声をかけて小銭を置くと、脇においていた刀を帯びに差して立ち上がる。歩み寄ってくる相手に、父親は呆れた目で言った。 「……何をやってるんですか」 「散歩だ散歩」 「だからって、どうして買い食いなんてしてるんです」 「別にいいだろ、文句言うなよ。お前は、あっちに来るより、城下の方が気楽だろうと思って、わざわざここで待っててやったのに」 「そりゃそうですけど。お一人ですか?」 「うん、面倒だから」 「……相変わらずですね」 辟易したように応える父親に、相手は陽気に続ける。 「宴の間に姿が見えないから、来るのをやめたのかと思った」 「息子の元服祝いに、観桜宴に連れて行ってやると、約束してしまったものですから。ついでに、あなたに会いに行くのもいいかと思って」 「ついでか」 遠慮のない物言いに、相手が破顔した。 それから、二人のやりとりを、怪訝そうに見守っていた少年を見る。相手の視線に気がついて、父親は少年の肩を押して相手の前に立たせると、ゆっくりと言った。 「これは、うちの不詳の跡継ぎで、明流と言います。やんちゃばかり起こす問題児ですが」 「この子が?」 「ええ、うちにはこれ以外、子どもはおりませんから。今年で十五になります」 何かを含めるような言葉に、相手は小さく苦笑した。 「……なるほど」 「こいつが問題を起こしたせいで、遅くなってしまいました」 「余計なこと言うなよ、親父」 唇をとがらせて明流が口を挟む。すると父親は、ますますため息をついた。 「まったく、似なくていいところばっかり似てしまって」 なるほど、と男は再び言うと、楽しそうに笑って少年を見た。明流が、きょとんとした顔で相手を見返すのを見てから、泰明は少年に向かって言う。 「わたしは武藤様に挨拶してくるから、お前はその方と一緒にいろ。迷子になるなよ」 「分かった」 気軽に了解して、少年は父親に笑みを向ける。その様子を不安そうに見てから、父親はため息をつくと、男に礼をしてから踵を返して歩き出した。 父親の後姿を見送ってから、少年は男を見上げて、屈託なく笑って声をかける。 「おじさん、親父の知り合い? 親父がこっちに知り合いいるなんて知らなかったなあ」 「昔、富岡で世話になったことがある」 「そうなんだ。親父はお人よしだからなあ」 お人よしといえば、にこにこと笑う少年からもそんな空気が見える。そんな自分の事は棚に上げて、明流は続けて言った。 「おじさん、桜花には詳しいの?」 「ああ、かなり詳しいぞ。案内なら任せろ。何が見たい?」 「ええと、まだ市とか閉まってないよね。買い物をちょっとしたいんだけど」 「それなら、まだまだ大丈夫だろう」 何が欲しいんだ? と問いが返って来る。 「それが、よくわからないんだ」 とりあえず見てまわる、と応えて明流は顔をあげる。人懐こくにこにこと笑う少年を見て、笑い返しながら、相手は思わずのようにつぶやいた。 「茜子によく似てる」 「あ、ほんと? 俺、叔母さんのことよく知らないんだけど、皆そう言うから、やっぱ似てるのかなあ」 「お前がふたつのときに亡くなったのだったか」 「うん、そう。でも俺、顔はうちの誰にも似てないってよく言われる」 母上に似たのかなあと、少年はひとりでぶつぶつとつぶやいている。その母親というのも、彼は見たことがないと言っていた。幼い頃に母親も亡くなったのだと。 相手は、小さく苦笑する。本当は、泰明が結婚したことは一度もなく、少年の言う「母上」と言う人が、存在したことはないのだが。 「それは、随分と寂しいだろう」 「そうでもないよ。うち結構、近所の人の溜まり場になってるんだ。俺が人を呼ぶからいつの間にかそうなったって、親父は呆れてるけどね。それに、すっごく仲がいい友達もいるから」 話しながら歩き出す。賑やかな人の波をぬって、市のたてられた広場へ行くと、そこには所狭しと品物を並べて、客の呼び込みをする人、そして声をかけられ、買い物に誘われることを楽しむ人々であふれていた。今日の観桜宴をもって市も閉められる。最後の勢いで、人々の声はひときわ大きい。 その人並みを、口をぽかんと開けて眺めてから、少年は楽しそうに道端に広げられた物へ目を向ける。あれは何これは何と相手に声をかけてはしゃいでいた明流は、道を進むごとに、だんだん困ったような顔になっていた。 「どうしようかなあ」 「土産か?」 うん、と少年は神妙な顔で頷いた。 「友達に、お土産買って帰る約束してて。百合殿には何か、かんざしとか買って帰ろうと思うんだけど、紫雲は、わからないなあ」 「何が欲しいとか言ってなかったのか」 「欲がないんだ、あいつ」 土産を買って帰ると言う約束も、明流が一方的に宣言したようなものだった。あいつ、とその友人のことを言ってから、明流は思い出したように説明する。 「常盤さまが――ええと、近くの寺の人なんだけど、俺がまだガキの頃に、行き倒れてた女の人と子どもを拾って助けたんだ。今もずっと寺にいて、俺の親友なんだけど」 同い年なんだ、と少年は笑う。 それを聞いて、相手の男はそうか、とつぶやく。おかしそうに笑った。 「あいつは、つくづく、拾いものが好きだな」 物好きめと、付け足して。言葉を拾って少年が聞き返す前に相手は、思い出したように言った。 「買い物の前に、わたしの用事につきあってくれないか」 「うん、いいよ。別に俺、他に用があるわけじゃないし。親父の言いつけ聞いとかないと、後がうるさいからなあ」 ついこの間、問題起こしたばっかだし。 にっこり笑って明流が応える。相手はそれに笑みを返して、遠慮がちに明流の頭に手をおいた。 「常盤さま、こんにちはー!」 門前で、箒を持って掃除をしていた坊主を見かけて、少年が明るい声をかける。夕刻、緩慢な仕草で働いていた坊主は、顔を上げて、おう、と笑った。 「もう帰ってきたのか。どうだった、桜花は」 「すっごくきれいだったよ。人も多くて賑やかだった。ちょっと、人疲れしちゃったなあ」 「お前は、田舎育ちだからな」 そうだよ、と気軽に応えて、明流は相手に問いかけた。 「紫雲は?」 「お前がしばらく留守で静かなうちに、読みたいものがあるって、奥で大人しく勉強していたな」 「なんだよその言い方」 軽く笑ってから、明流は坊主に、ありがとう、と言って手を振る。坊主が返事を返した時には、もう走り出していた。勝手知ったる寺の中を駆けていく。顔見知りたちに声をかけて、知人が籠もっているだろう部屋に辿り着くと、大きな声をあげる。 「紫雲、ただいま!」 文机を前に、書物を広げていた紫雲は、驚いた顔で明流を見た。 「もう帰ってきたんだ、早かったんだね」 「うんそう。さっき着いたばっか」 「さっき帰ってきたばっかりで、もうこっちに遊びに来たのか」 呆れて、紫雲が言う。山村様も困ってるんじゃないのか、と思ったが、部屋の中に駆け込んできて、目の前でにこにこ笑っている顔を見ていると、ちょっとした説教も言う気が失せてしまった。 旅装のままの相手を改めて見て、それからいつもと違うことに気がついた。 「あれ、なんだかいつもと違う刀だね」 ああこれ、と明流は腰の刀を、鞘ごと帯から引き抜いて見せる。 「元服祝いにもらったんだ。親父の知り合いの人なんだけど。どうも親父、最初っからその人と示し合わせてたらしくてさ。刀鍛治のところに連れてかれて、ひょいっともらっちゃったよ」 「なんか、すごく高そうなんだけど……」 「だろ? 俺もびっくりだよ。でも親父が妙に真面目な顔で貰っとけって言うからさ」 それから、と少年は刀を帯に戻すと、反対の手に持っていたものを持ち上げる。にっこりと顔に笑みを浮かべて、明流は別の刀を差し出した。 「紫雲にも」 少年は、びっくりした顔でそれを押し戻した。 「もらえないよ」 「いや、もらってくれないと困る」 明流はちょっと困ったように笑って言った。 「友達に土産を買うって言ってたら、親父の知り合いの人が、買ってくれたんだ。あんまり高価なものは困るなあって言ってたら、また親父が貰っておけって言うから。多分、すんごい金持ちの人だぜ。身なりも良かったし、親父がずっとへこへこしてたから」 「へこへこって……」 なんだいそれは、と紫雲もつられたように笑う。 「紫雲のこと話したら、その子はお前のこと、ずっと助けてくれる人かって聞くから、一生俺は紫雲を助けるし、紫雲は俺を助けてくれるんだって言ったんだ。そしたら、じゃあその子に、って言って、くれた。お前のことずっと助けてくれるように、わたしからもお願いしたいからってさ。刀をあげたり貰ったりって、その人にとって、大切な意味があるんだって」 そう言われてしまうと、その人の気持ちも、明流の気持ちまで断るようで、紫雲はますます困ってしまった。 躊躇いながら手を伸ばす。すると明流は、はい、と何の頓着もなくその刀を紫雲の手に渡した。 ありがとう、とつぶやいて受け取ってから、少しもてあましたような表情で、紫雲は手の内の刀を見る。寺にやっかいになってはいても、寺の稚児などではなかったし、いつも袴をはいてどちらかというと武家の者のようなものを纏っていた。明流と一緒に剣の稽古をするのはいつものことで、護身用にと母が短剣をくれたので、それを腰に差してはいるが。刀を帯びるのは、それとは違う意味合いがある。 「母上は、いまちょっと休んでるんだ。朝から体調が良くなくて」 「それじゃあ、紫雲から渡しておいてくれ。明日またくるよ。土産話でもしに」 明流は背負ったままだった荷物の中から、紫雲の母親への土産を取り出すと、これも気軽に、はい、と渡した。 「明日はじゃあ、何か見舞いでも持ってくる。体によさそうな食い物とか見繕って」 「いいよ、そんな。いつも悪いから」 「いいんだよー。うちには人が少ないから、食べ物とか結構余ってるんだし。元気になって、百合殿がうちに遊びに来てくれたら、親父も喜ぶし」 な、と明るく少年は笑う。そういわれてしまうと、いつも何も言い返せなくなってしまう。ありがとう、とただつぶやいて、紫雲も同じように笑った。 慌しく明流が帰ってから、紫雲は書物を閉じて、貰った刀を手に立ち上がる。少し躊躇して、遠慮がちながらそれを帯に差す。普段持っている懐剣よりも、ずっしりとした重みがそこにあった。 部屋を出て、母親が休んでいるところへと向かう。居候をしている親子のための部屋は、寺でもずっと奥の方にあった。紫雲が部屋の中を窺い見ると、寝具の上に身を起こした母親がいた。 「母上、もうお加減はよろしいのですか?」 丁寧に言いながら、部屋の中へと足を踏み入れる。薄暗い部屋の中、母親は穏やかに笑いながら、息子を振り返った。 「少し休んだら、ずっと良くなったわ」 穏やかに言って、それから彼女は刀を帯びた紫雲を見て、驚いた顔をした。それに少し困ったような顔を向けて、紫雲は彼女の横へ膝をついた。 「良かった。さっきまで、明流が来てたんですよ」 「もう、桜花から帰ってらしたの?」 「お土産を持って帰ってくれました。別にいいって言ってたのに」 そう、と母親の力ない返事がある。 「その刀は、どうしたの?」 「明流が、お土産だって。こんなに高価なもの、もらえないって言ったのですけど。母上にもお土産を持ってきてくれましたよ。……母上?」 母親の顔が強張っている。部屋に入った時に聞いた声が、幾分か明るかったのに対し、それは暗く沈んでしまっていた。体調が良くなったとは、とても思えない。 不安に思い、声をかける紫雲に、何でもないというように首を振るが――彼女は、青ざめた顔を両手で覆ってしまった。 ――遠い生家。そして、幼少の頃からずっと過ごし、大好きな人との出会いと別れを、そして苦しみばかりを味わったところ。冷酷なばかりの夫と、彼を取り巻く人々。結局、陰謀に陥れられて、殺される前に必死で逃げ出した国。 それでも寂しいとは思わなかった。かつて人が、故郷に帰りたいとつぶやいたのと同じようには、自分の故郷を振り返ることなどなかった。大切な我が子と、そしてかの人が愛した土地で、こうして穏やかに過ごすことができるのだから。 手を離して目をあげると、心配そうな我が子の顔があった。身寄りのない土地で、寺の好意に甘えてなんとか留まることの出来ている場所で彼は、母親を守るのだと、周りに対して虚勢を張って、我を張って生きてきた。明流に出会うまで、周りの人間をすべて敵だと認識しているような子だった。 意志の強さがあらわれた眉。流麗な黒い髪。そして夜の色の瞳。成長するにつれて、その父によく似てきた面差し。刀を身に帯びて立つその姿は、いやでもその人を思い出させた。けれども紫雲の――優しく、相手を気遣う色をたたえた瞳。 不安そうな顔に向けて、彼女は小さく笑みを零した。一度笑うと、次々とこみあげてくるものがある。 「あなたは、わたくしが大好きだった人に、似てきたわね」 穏やかで優しくて、意志の強い人だった。 紫雲はますます困惑して、くすくすと笑う母親を見る。彼女が父親のことを口にするのは滅多にないことで、それもこんなに穏やかな表情をすることはまずない。だから、父のことではないのだろうとは、わかるけれど。だからこそ、困ってしまう。 「からかわないでください」 母親は、ただ笑っている。その様子が楽しそうなので、紫雲は抗議するのをやめた。小さく息を吐いて、ただ微苦笑をうかべる。 手招く母親の方へ膝を進めると、彼女は息子を引き寄せた。小さな頃、奪われかけた命も、もう元服を迎える年になった。このまま、穏やかに時が過ぎてくれるのを願う。 「明流様にお礼を言わなくては」 「うん」 「何か、お返しをしないとね」 うん、と紫雲はただ頷く。多分明流は、体を治して、土産に買って帰ったかんざしをして、うちに遊びに来てくれればそれでいいと、笑って言うだろうけれど。 波乱が再び起こるまで、あと三年の月日がある。――十二歳になる神宮の跡継ぎが病で亡くなり、飛田は跡目争いの同族殺しの末に、跡継ぎになる人間を失った。そして、神宮家と飛田家とが対峙する戦場で、両家の当主が同時に討ち死にする。 それまでの、小さな日々。
おわり
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