目を開けると、小さな人影があった。 いつも小刀を抱き込んで眠る柳雅は、考えるよりも前にそれを探し、手元に見つからないのに気がついて、頭の中で悪態をついた。気を失う寸前だったせいで、いつもの習慣を忘れたか――意識がないうちに、治療に来た者がどこかへやったのか。どれだけ眠りこんでいたのか知らないが、まったく人が来ていないということはないだろうから、それにすら気づかなかったのは失態だ。 「目が覚めた?」 感情を抑えた声が落ちてくる。 小さな燈台の明かりに照らされた百合は、柳雅の枕の横に正座して、感情の見えない顔で見下ろしていた。 「お前一人か」 いくらか気が抜けた思いでつぶやくと、侍女は次の間に控えている、と答えが返ってきた。 「わたしとあなたは婚約者になったのだもの。お見舞いに来たって誰も文句なんて言わないわ」 淡々とした声に少し驚き、次いで笑いがこみあげてきた。嫌味を言えるとは思わなかった。この口が。 雪の降りしきる白蛇の城に、無言の帰還となった飛田当主の遺体が運び込まれた。それ以前に知らせが届いていた城の人間は、粛然とした面持ちで、主の帰還を迎え入れた。その中で、この目が、常にない激しさで柳雅を睨んでいたのを覚えている。 「どれだけ寝ていた」 部屋の中が暗く、時間がよく分からない。この季節、空はいつも雲が覆っているから、昼でも暗いことが多く、夜でも雪明りで真っ暗になるわけではない。眠り続けていたせいで少し感覚も狂ったのか、今が昼なのか夜なのかも分からなかった。 「さあ。昨日の夕方に帰り着いて、あなたが床についたのがその日の夜で、それから一度も目を覚まさなかったのなら、まる一日ね」 ――休みすぎた。柳雅は舌打ちをもらし、起き上がろうとして、傷の痛みに知れず呻きがもれた。肩が痛い。傷口が熱く、それに反するように体が寒く、重かった。 飛田の敵は、何も本條や神宮家だけではない。神宮は必死で飛田と停戦を結ぼうとしていたが、一刻も早く帰国する必要があったのは、飛田の側も同じだった。当主を亡くした隙を突こうとする他国に対する構えを整える必要がある。傷を負った彼を案じ、途中通る臣の城で休むよう幾度もすすめられたが、諸国への弱みを少しでも見せるわけにはいかないと、無理を押して白蛇に帰り着いたのが昨日。武装も解かないまま、家臣を呼び集めて号令を出して、その後の記憶がない。 「無理をしない方がいいわ」 さすがに、少し慌てたような様子で百合が止めようとしたが、柳雅はその手を振り払い、寝具の上に半身を起こした。 ――頭が重い。 歯を噛み締めて、自由に動く方の手で頭に手をやる。ひどく熱い。 「あなたは、いつも傷だらけなのね」 百合が呆れたような声を出す。痛みをこらえているせいで、彼女の方へ向ける目に鋭く力が入る。 傷があろうとなんだろうと、生き延びた者の勝ちだ。 「人を傷つけて、自分も傷つけられて、何が楽しいのか分からないわ」 「聞いたのか」 「神宮のご長男のことを言っているのなら、当然耳に入れました。柳祥様を弑虐して、神宮に逃げ帰ろうとして、失敗して、ご自害されたって」 「まったく、大胆なことをしてくれる」 彼女の言葉に乗じて、からかうように言うと、動じない瞳がただ静かに帰ってきた。柳雅は唇の端をつりあげ、心外だ、という様子を見せるようにして続ける。 「俺が何か企んだとでも言うのか?」 「どうだっていいことだわ、そんなこと。実際にはどうあれ、わたしは、あなたが何もしなかったなんて言っても、信じないから」 なるほど。心の中でつぶやき返す。なんだか、妙におかしかった。ごちゃごちゃと考えを巡らせながらも、結局謀に踊らされる立派な大人たちより、単純なこどもの感情の方が、的を射ている。 おかしみに、吐息と共に笑いが落ちた。嘲笑のようなものがこぼれ、また百合が何か文句を言うかと思ったが、彼女は静かに柳雅を見ている。 「死んでしまったのね」 つぶやきは、先程までとは打って変わって違った声音で落とされた。 少女が震える手を伸ばす。そこにいない人を愛しむように、柳雅の頬に触れた。そこに刻み込まれた傷。 ――かの人が、生きて存在した証。 「自害だなんて。……なんとなく、そんなことになりそうな気もしていたけど。やっと、おうちに帰れたのね……」 怒るよりも責めるよりも、ただ悲しく、優しい言葉だった。 講和の条件の中には、遺体の引渡しが含まれていた。結局彼は、飛田当主と同様、神宮家へ無言の帰宅となった。しかしながら本人が口を閉ざしたままだから、彼が一度飛田へ寝返ったことを神宮の人間がどう捕らえ、その遺体をどう扱うのかは分からない。――飛田の当主を討った、ということになっているのだから、一番の功労と言えばそうかもしれない。しかしながら、裏切りを繰り返した人間と言う烙印は、押されたままだ。 白蛇の城で、どんなむごい殺され方をしていたか分からない身だった。死体となっても、国へ帰ることが出来たのは、確かにましだったかもしれないが。後の世まで残る汚名か、死体となっても故郷へ帰るか。 くす、と小さく笑う。 「あいつは、お前に胤を残していかなかったのか?」 柳雅の問いに、少女は顔をこわばらせた。泣き出すか、また非難の言葉でも吐くかと思ったが、向けられた反応はまったく違うものだった。 「馬鹿にしないで!」 声を荒げる、ということの滅多にない少女の声とは思えなかった。彼女は手を引っ込め、大きく息を吸うと、再度言った。 「あの人を、そんな風に馬鹿にしないで」 相手が怪我人だと思い出して、大きな声を上げたことを、少し恥じているようだった。それでも抑えられない感情があるのだと、顔を見れば分かる。記憶の中の少女はいつも怯えてばかりだったのに、返ってきた反応には柳雅もさすがに驚いた。再び笑いを落として言う。 「お前は、ぐずぐず泣いてばっかりだと思っていたがな」 「あなたや――わたしみたいに、自分のことだけしか考えてない人ばかりじゃないって、分かったもの。わたしは確かに、泣いて嘆いてうるさいかもしれないけど、剣を使う方法なんて知らないけど、戦い方を知らないわけじゃないわ。教えてもらったもの」 そしてその戦い方は、誰もが同じ道を、同じ方法をとるわけではないのだ。どんな結末を迎えても。――選んでも。 「……なるほど」 くつくつと、喉の奥に笑いがこみあげてきた。声に出ないような笑いではあっても、傷に響く。少し動かすだけで、体の中に震えがわきおこってきていた。 折角身を起こしたが、やはりこのまま家臣と対峙するのは無理だろう。いつもなら我を張るところだが、そんな気も削がれてきていた。諦めて、柳雅は再び寝具の上に横になる。寝ている場合ではないが、他の人間に少しでも疲れや弱みを見せる方が、我慢がならない。 「やはり、もう少し休む。朝になったら起こすように言っておけ」 これ以上くだらない話をする気がないことを示して、仰向けに体を倒し、目を閉じた。人の反応を窺うようにして生きてきた彼女に、柳雅の無言の意志が伝わらないわけがない。少しの間だけ、暗い沈黙が落ちた。やがて重いものに耐えかねたのか、責めるように、なじるように彼女は言う。 「そんなに無防備でいいの」 目を開けると、少し腹を立てたような瞳が向けられていた。 「あなたの短刀がここにあるわ」 「お前に俺が殺せるか」 「できたらどうするの」 「そう言っている時点で、お前には無理だ」 再び瞳を閉じて、吐息とともに言う。いい加減、話をする力も尽きてきた。 「本当にそうしたかったら、口にする前に、行動に移せ」 「……あなたのように?」 今日の彼女は、どうやら随分と虫の居所が悪いらしい。普段なら決してしない口調と言葉が、再び落ちてくる。 柳雅は、ただ唇をつりあげて笑う。 「選べ。どうせ俺が死ねば、お前は柳司に与えられるだけだ。何も変わりはしない」 その弟が死ねば、叔父の誰か、従兄弟たちの誰かに、物のように渡されるだけのこと。彼女が嫁ぐということは、飛田当主になるのだという証明のようにして。そのために与えられる物のようにして。 ――どうせ人を害するのは、お前の「戦い方」ではないのだろう、と心の中でつぶやく。 飛田の血を継ぐくせに、甘いこの少女は、飛田当主の正室となって得る地位を望みもしない。権力を振りかざすことになど、思いも寄らないのだろう。 無力な少女の意を決した目覚めが、決して生易しい道にはならないことなど、分かりきっている。 勝手に、好きなようにすればいい。結果として傷ついて苦しむことになっても、関係のないことだ。それに、浅ましく地位にすがりつくような、愚かさを自覚しようともしない見苦しい女になられるよりは、よほど好ましいだろう。 甘美な優しさは、この伏魔の城では得難いものだから。 滅多になく己の愁傷な感情に、柳雅は心の中で笑う。傷と、不調のせいだ。明日になれば忘れる。 傍らに座したままの、少女の穏やかな気配を感じながら、彼は静かに眠りに落ちていた。
おわり
|