あの時身篭らなければ、ここにはいなかった。 それは密やかに抱いてきた確信のようなものだった。否、確信と言うよりは確定だ。事実そうだったろう、という予想。 自分自身も、彼も、果たして行動を起しただろうか。 神宮の奥方になろうなどとは思っていなかった。そんなこと、想像もつくことではなかったのだ。自分のために多くを望んだことなどない。 「どうする」 白い月を見ながら、彼は言った。 桔梗は、寝具に横たえていた身を起こし、黙ってその後ろ姿を見る。 空けた障子の向こう、庭を照らす月光が静かに降り注いでいた。 「どうする、お前は」 男は背を向けたまま、再度問う。 強引なくせに、決め付けたら人の意志など気にもしないくせに、こうして時折身を引く。こちらの意識を諮るように。相手が惑うのを楽しむように。 ――武士の娘でもない桔梗の方が神宮に来たのは、紅巴を身篭ったからだった。けれどその理由を失った。 ここにいる必要がなくなった。 去るのか、留まるのか。 彼は、息子の遺体に取りすがって泣きもしない女を、どう思っているのだろうか。 「お忘れなのですか」 薄く頬に笑みをにじませて桔梗は言った。 神宮当主が振り向く。顔だけを向けて彼女を見る彼の顔には、いつもの笑みがない。桔梗は笑みを深めた。月に照らされた顔は、薄い藍色の影を帯びていた。 「生涯お側にいると約束いたしました」 ああ、とただ声が返る。 「あなたは、仲の良い女性が随分といらっしゃったようですし、そういった方々はあなたに限らず仲の良い男性が多くいらしたようですから、わたくしのことも同じように考えていらっしゃるのかもしれませんけれど。わたくしのように、己の身しか持たない女は、そのようなことで嘘をつきません」 言葉すら真実味を失えば、誰も彼女を信じない。その存在に価値を持たない。 遺体を見たときも、葬儀の間も、泣いたり叫んだりしなかったのは、ただ覚悟を決めていたからだ。最初に、神宮へ来たときに。――はじめに、この男に出会ったときに。 だから――だが身篭らなければ、ここにはいなかった。断言できるだろうか。 この人は、身篭ったからといって、女をわざわざ呼び寄せる人にも思えなかった。情に厚いとは決して思えなかった。臣下へ向ける情と、女へ向ける情には、明らかな差があった。あの当時は、特別跡継ぎをほしがっていたようにも思えなかったし、当時の神宮家は、娶る正室のことでもめていた。側室を城へ招くのには時期が悪すぎた。 それなのに、紅巴を身篭った桔梗を城に招き入れた。 彼女が身篭ったのを察したからこそ彼は行動を起こして、彼女を城に迎え入れた。単に感情ではなく、それは用意周到に、反対の声を抑え込めるよう着々と準備を進めたのだ。 身篭ったから。それは、きっかけに過ぎないのかもしれない。 状況は、彼の起した行動は、十分信ずるに足るものだった。 ――けれど彼は、あまり余計なことを語らないから、確信にはならない。 やはり、信ずるにはあまりにも真意が見えない。誠実とは程遠い人だけれども。 「だろうな」 頬に笑みが刻まれる。いつものように、悠然とした顔だった。 そして彼は、また顔を背ける。月に照らされた青い庭を見遣って、ひとつ息をついた。 すまぬ、と小さな声が耳に届く。 量れない女だ、と心の中でひそかにつぶやく。 だからこそ、と再度心中つぶやく。 真意が知りたくなったのかもしれない。捕らえてみたくなったのかもしれない。 欲の無い――決して無いわけではないが、それに振り回されない人の考え方を、知りたかったのかもしれない。 そしてこの母だからこそ、紅巴はあのように生き、散ったのだろう。 何者よりも、もしかしたら自由に、我がままに、自分の意志に従っていたのかもしれないと思った。それは彼自身への、自虐的な慰めでもあったが。 常に無い自分の弱さに、つまらない笑いがもれる。 それでも神宮は続いていくのだ。ここへ到るまでに命を落とした臣たちの死を、そして今は紅巴が身を賭して守ったものを、絶やすわけにはいかない。 もう一度約束が必要ですか、と、笑い含みの声がある。 子供の駄々に付き合う母親のような声だ。 ――否、と顔に笑みをはいて答える。 さほどには、弱くない。 おわり
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