「禍言の葉」番外








 軽快な電子音が響いている。
 場違いに呑気な音に、田川は意味もなくドキリとしてしまった。刑事二人と、すでに酔いなど吹き飛んでしまった様子の、サラリーマンらしき元酔っ払いの、すがるような視線にさらされながら、どうしようもなく困ってしまった。
 バス停の上にあった屋根が、田川のポケットで鳴っている着信メロディにかぶさるように、大きな音をたてて崩れ落ちた。大きく地名が書き出されて、行き先目印の役割をも果たしていた塊は、そのままベンチの上へ降ってくる。その場にいた皆が、悲鳴を上げた。
 田川と、彼にかばわれた人々の目の前では、間違いもなく化け物が暴れていた。『下賤の鬼』だ。右腕を無くしているこの鬼には見覚えがある。昼間に都雅が撃退した鬼に違いない。
 その『下賤の鬼』の様子を見ながら、田川は構えるようにあげていた両手を下ろした。途端に、榊と言い争っていたほうの刑事が、責めるような声をあげる。
「ちょっと! ちょっとあんた!」
 絶望の色の混じった声は、悲鳴のようだった。
 『下賤の鬼』が出た時、田川は思わず両手を上げて、構えるような格好を取って結界を張った。だから、目の前で、まさに彼らを狙って化け物が暴れているにもかかわらず、その攻撃は彼らに届いていなかったのだ。なのに田川が何食わぬ顔で構えるのをやめたので、驚いてしまったようだった。
 けれども田川は、責めるような声を上げられたことの意味が分からず、きょとんと刑事を見返した。彼が結界をはるとき、構えるような動きをとったのは、思わずというか癖のようなもので、強いて言えば術を発動させるときの集中のためだ。そのポーズに、術への意味はまったくなく、責められる意味が分からない。その証拠に、両手を下ろしてしまった彼の向こうで、『下賤の鬼』はまだ暴れているが、彼らはまだかすり傷ひとつうけていない。
「大丈夫ですよ、ほら。とりあえず」
 なだめるように笑いながら、田川はポケットから携帯電話を取り出す。画面に出ている着信の相手を確認したところで、場違いに単調で明るい音がぷつりと絶えてしまった。
「やっぱ榊さんだ」
 つぶやいた声には、少し恐怖の色がにじんでいる。かけなおそうとボタンをおしかけたところで、彼はまた違う音を拾った。正確には、声だ。
『ちょっと、田川さんっ。なんで電話に出ないのよ!』
 苛立った女の声が、どこからともなく、その場の人々の耳に届いた。彼と一緒にいた三人が驚きの声を上げ、慌ててあたりを見回すが、声の主はいない。
「すみません、今出ようとしたんですけど」
 田川にしか分からなかったが、正確には、地面から聞こえている。だから彼は地面の方を向いて声をかけた。
『遅いわよ! おかげで余計な霊力使う羽目になったじゃないの!』
「はあ、すみません。ちょっとたて込んでて」
『とにかく。こっちに『下賤の鬼』が出たの。二体もよ! とりあえず傷を負わせたところで逃げたから、あの子が後追ってるわ。あたしは脚を怪我して今動けないから、とにかく先に田川さんに連絡しておこうと思って電話してたのに、怪我人に余計な体力使わせないでよ!』
「怪我したんですか! 大丈夫ですか?」
『こんなのさっさと癒せるし、大した事じゃないわよ。こっちの連絡の方が一刻を争うと思って、痛いのに連絡してるんじゃないの! 川の方へ向かったみたいだから、田川さん早く追いかけてよ。あたしが動くより早いでしょ』
「あの、すみません。でもこっちにも『下賤の鬼』が出てまして……。結界はったはいいんですが、身動きとれなくなってしまいまして」
『そんなの、なんとかしなさいよ!』
「いやでも、僕は、結界師だから、攻撃ってのはまったく出来なくて、目の前のこれをどうにかするのは、無理なんですが……」
 田川の言葉に、刑事二人は、この世の終わりのような顔をした。あれだけ彼らに対して敵意をむきだしにしていた刑事は、そもそも化け物の存在など信じていなかった。だが実際に目の前で繰り広げられる光景を、認めないるわけにいかない。ただ唖然とするしかなかった。頼りの綱は、こういった事態を扱い慣れていて、自身も奇妙な技を使いこなす田川一人だったのに、彼にそんなことを言われては、ただ驚き、責めるしかない。そもそも、これの対処のために招かれていたはずなのに。
 けれども、彼らが文句を言うよりも前に、また彼らが驚きに声を出せなくなるような事がおきた。
 半透明の人影が現れたからだ。
 地面から湧いて出たようなその姿は、向こうが透けて見える幽霊のようだった。偉そうに腰に手を当て、怒りに眉をつりあげているその人間は、するりと地面を抜け出ると、田川に向かって指をつきつけながら、わめきたてた。
『あんたねっ。うじうじするのもいい加減にしなさいよっ。素人の、あんな十二歳やそこらの女の子が、化け物追いかけてってるのよ! うだうだ言い訳してる場合じゃないでしょ。あなたそれでも一応『協会』の能力者なんだから、それくらいどうにでもしなさいよ!』
 怒り狂ったその人影は、間違いなく榊だった。脚を怪我した、と言っていたわりにはとても元気そうだったが。怒鳴られて、その内容に、田川は苦笑するしかなかった。
 確かに、うじうじしていたと思う。昼間の失態からずっと。もしくは、もっと前から。結界師だという、能力者としても類稀であり、けれども役に立つのは難しい能力である自分を、情けなくも思っていたから。
 そんな彼の思惑を読んだように、榊が続けてわめいている。
『結界師ならそれはそれでやりようってもんがあるでしょうが。その力って捕縛にも使ったりするんでしょ。自分を守るんじゃなくて、相手を結界に閉じ込めて動きがとれないようにしとけばいいじゃないの! そしたらあたしがそっちに駆けつけたときにどうとでもしてあげるわよ』
「あ、なるほど。そうですね」
 ちょっとどころか、かなりの力量を必要とする荒業だが。少し悩んでしまった田川に、再び榊の怒りが刺激されてしまったようだった。
『そうですねじゃないわよ! まったく、シャキッとしてよねっ。怒りのあまりに勢い余って思念飛ばしちゃったじゃないのっ。余計な力を使いたくなかったから声だけにしてたのに!』
「はい、すみません……怪我の方は」
 大丈夫なんですか、と再び問いかけようとしたが、榊の勢いの方がよっぽど強かった。
『だいたいあなた、あの子のお目付け役でしょっ。さっさと駆けつけてサポートしてきなさいよ! あの子未成年なんだから、あなたがとろとろしてる間に補導されてたって知らないわよ。笑い話にもならないわ!』
 確かにその通りだと思うと田川は、言うだけ言ってもう姿を消してしまった相手に、すみません、と苦笑混じりにつぶやいた。
 それから、さて、と気合いを入れて、暴れている『下賤の鬼』の方へ眼差しを向ける。






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