まがことのは




第三章











 そこは豪邸の立ち並ぶ町の一角にあった。ひとつの家族が暮らすのに、これだけ大きな家が必要なものなのか、はなはだ疑問だ。きっとその気になれば、何日も何日も、同じ時刻同じ家の中にいる他の誰とも顔を合わせずに生活することも可能だろう。
 普段なら人の羨望の的にもなるその豪邸も今は、大きな門は大破され、整備されていたはずの庭木も、そこだけ強風が吹いたかのようになぎ倒され、家そのものにも大きな風穴が開いている。紫から紺へ染まりつつある空を背景にそびえ立つ洋館は、幽霊屋敷のようだった。静まり返っていて薄気味悪くて、人の気配も感じられなかった。
 さらに今は印象だけでなく、実際に屋敷に留まる人は少ない。そして留まっている人々ですら、息をひそめるようにしてそこにいた。だから物悲しさは、余計に強調されて映る。
 さて新藤家へついたものの、相手は大富豪である。何の約束もせずに押しかけた形になって、有無を言わさず追い返されるかもしれないと思った都雅だったが、その心配は必要なかった。
 彼女の応対をしたのは、初老の男だった。雅牙の同級生の父と言うには年を取りすぎていて、まるで祖父だ。どうやらこれは執事なのではないだろうか、とあたりをつけたところで、老人は森崎と名乗った。
「神舞家の方でいらっしゃいますか。ご足労おかけしてもうしわけありません。随分お早いですね」
 あれこれと詮索されることもない。都雅が来るのが分かっていたような口ぶりだった。
 その対応で、やはり雅牙がここにいることが確定した。少し、後手にまわってしまったらしい。家からの迎えが来るのなら、それに鉢合わせる前に、早く退散するに限る。だがその前に、どうしても雅牙に釘を刺しておく必要がある。
「さっさと呼んできてくれないか」
「それが、雅牙様がどうしても、こちらにとどまるのだとおっしゃっていまして。頑として動いてくださいません」
 ああそう、と都雅は唇の片方の端をつり上げて、笑みのような表情になった。
「本気で帰すつもりがあるのか」
「もちろんですとも。ですから、先程ご連絡したしましたでしょう。もうお迎えにいらっしゃったので、少し驚いているところですよ」
「あたしはあの家とは関係ない。どうでもいいから、さっさと雅牙を呼んでこないか」
 こういったことに、二度と関わりにならないよう、言い聞かせておかないと。
「先程から申し上げております通り、雅牙様ご本人が帰りたくないとおっしゃっておられますので、お呼びしてもこちらまでいらしてくださるかどうか。どうぞ、玄関先で長話も難ですから、おあがりになってください」
「あたしはここから先一歩たりとも、この家の中には入らない」
 都雅は、唇をゆがめて相手を見上げた。
「よほど、追い詰められていると見えるな」
 今新藤家は、世間を騒がせる噂の渦中にいる。それも随分と世俗的なことで、おもしろがられ、同時に惨事を巻き起こしたと攻められてもいる。もうすでに財界内で、信用問題などで支障が出ているはずだ。もし雅牙に怪我などさせようものなら、新藤家は、これほど痛手を被った事件に加えて、神舞家との関係を損ねかねない。
 察するに、新藤家にとっての最大の痛手は、家を破壊されたことでも、息子を狙われていることでもないはずだ。
 都雅の言葉に、森崎は少し口を閉ざした。そして、都雅の足元で座り、老人を見上げている黒猫に目を遣る。
「その猫は、あなたの猫ですか?」
「冗談でも、こいつと関係つけるのはやめてくれないか」
 菊が抗議の鳴き声をあげる。でも、そんなの関係ない。都雅が無視していると、森崎老人は、厳かともとれる声音で言った。
「では、あなたのご友人の猫ですね」
 菊は黙っていれば一見ただの猫だが、やはり、人と同じようにものを考え、言葉を話すことができる化け猫だ。首輪をしていないから迷いはするだろうが、人によってはその賢しらな翠の目が、強く印象に残ることもあるだろう。
「追い詰められているのかとおっしゃいましたね。恥を承知で申し上げますと、お言葉の通りだと言うしかありません。警備の人間も、色々と口実を口にして辞めてしまいましたし、人命がかかっておりますから」
 にこやかに、相手は言った。それはつまり、肯定を意味する。それと同時、美佐子を通じての依頼を蹴飛ばした都雅を責めている。つまらない理由で断るな、と。
「神舞家のお嬢さん。あなたの噂を、思いがけないところで耳にいたしました。随分と、恐れられておいでですね」
「何の話だ」
「今回の事態で、我々も色々とつてを辿り、事態収拾の努力をしたのですよ。魔道士殿」
 都雅は、笑いそうになった。こんな硬そうな、生真面目そうな老人の口から、ごっご遊びをする孫に対するような固有名詞を投げかけられるとは思わなかった。
「知ったことか」
 言い返して、下手を打ったかもしれないと、苦い思いが満ちる。森崎老が先に言ったように、本当に家に連絡をしていたのならば、雅牙を帰す気があったということだ。今それを翻したのは、都雅が来たから。
 神舞の人間には違いないが、どうやらこの事態に対抗する手段を持っているらしい人間が。
「あたしには関係ない。何度も言わせるなよ。いいからさっさと……」
 最後まで言えなかった。豪邸の中に、呼び鈴の音が響き渡る。都雅は言葉を止めて、後ろのドアに目をやり、ちい、と口中舌打ちした。
 都雅は雅牙の後を追うようにしてこの屋敷に来ている。もし雅牙が来てすぐに、この家の者が神舞家に連絡をしているとすれば……実に、慌てた家からの迎えが駆けつけてくるとして、ちょうどだ。
 この場から去るには、玄関の戸を抜けるか、家に上がりこむか、どちらかしかない。戸を抜ければ当然、呼び鈴を鳴らした客と鉢合わせする羽目になるし、上がり込めば老人の思惑通りになる。――もちろん、そんなことはお構いなしに、雅牙に釘を刺すだけ刺して帰ったってまったく構わないのだが、さっさと踵を返すことが出来るかどうか都雅には自信がない。都雅にとっては後門の虎前門の狼の心中で、逡巡してしまった。
 動きかねて、彼女が広い玄関に立ちつくしているうちに、門のようなドアが乱暴に開かれる。家の者が迎えに出るのも待たず、破壊された門をたやすくくぐって、家のドアすらも遠慮なく開け放ったのは、一人の女性だった。
 艶やかな黒髪を背に流し、控えめな化粧をしているその女性は、三十代も半ばという年齢を感じさせない装いと雰囲気をまとっていた。
 財界でも有名な神舞家に嫁ぎ、見事玉の輿に乗ったこの女性は、それだけに美しい顔立ちをしている。けれど今はその顔を険しくして、まっすぐ目の前に視線を据えていた。彼女が人と対する時、普段なら決してしない表情を、にこやかに出迎える森崎老人へ向けている。
 ――一番避けたい事態が起きていた。





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