まがことのは




第三章








 顔を背けて一人、都雅は眉をしかめて床を睨みつけている。家からの迎えが来ると言っていたから、別の人間だったらいいなと思っていたが、甘かったようだ。息子のことで、この人が家でじっとしているわけがない。
 関わりたくなかったから、自分のせいにされたくなかったから、雅牙を家に帰そうとしていたのに。このふざけた事態から、日常とは関係のないあり得ない事態から、遠ざけようとしていたのに。
「これは神舞の奥様、お久しゅうございます」
 穏やかに言いながら森崎老は、都雅に対したときと変わらない笑みを彼女に向けた。動揺など欠片もしていない。相手の用件も分かっているはずなのに、それだけ堂々とした――むしろ図々しいとも言える態度がとれるのは、年の功というだけではないだろう。
「表向きの挨拶は聞きたくないわ。ご連絡いただいて感謝します。雅牙を迎えに参りましたので、即刻帰して下さいな」
 母親の方も森崎の態度など気にもせず、遠慮もなく広い玄関を横切ると、きつく言い放った。容赦のない厳しい口調にも、森崎老人は動じない。
「もちろんのことでございます。雅牙様がお帰りになりたくないと申されておりましたので、お迎えに来ていただいたのです」
「何を悠長なことを言っているの。新藤さんは今ご自分の立場が分かっていらっしゃるの? それに、聞けば、こちらの孝司さんは何かに狙われているのだそうではないの。こちらのお屋敷の様子は一体どうなさったというの? 余計な厄介ごとに雅牙を巻き込まないでちょうだい。雅牙は仮にも神舞グループの御曹司なのよ。かすり傷でもさせたら、どうなるか分かっているの?」
 さらにヒステリックに言い連ねようと口を開いて、彼女は急に止まった。その目が、露骨に顔をしかめている都雅を、凝視している。
 今頃、気がついた。もう一人の、彼女の子どもがここにいたことに、今更。
「なにをしているのこんなところで」
 女は一度口を閉ざし、低く抑えた声で、都雅に言った。嫌悪がありありとあらわれている。
 ――その態度の違いはなんなのだ。
「あんたに関係あるか?」
 都雅は森崎に対したときのように、否、それ以上に唇の端をゆがめて笑いながら、応えた。
「なんて憎たらしい。雅牙とは大違い」
「あんたに似たらしいな。残念ながら」
 昔から変わらない心の疼きがある。同じ相手に、同じような言葉をどれだけ言われ慣れていても、やはり堪える。こんなとき、自分の弱さを実感させられて、それがさらに苛立ちまで呼び起こす。
 言い返した都雅に、女は急に声を荒げた。
「減らず口は聞きたくないわ。雅牙を巻き込んだのはお前でしょう! 雅牙をどうするつもりなのよ! わたしの大切なあの子を傷つけたりしたら、許さないから!」
 わたしの大切な子……?
「今日のことだって、雅牙が学校をさぼるなんてあり得ないもの。お前が何か悪い影響を与えたに決まっているわ。野蛮なことばかりして。わたしの雅牙に近寄らないで、化け物!」
 泣きたかった。 それじゃあ、あたしは、なんだというのだろう。
 雅牙を傷つけたら許さないというくせに、目の前の子どもはどうでもいいのか。
 ――化け物?
 叫ばれた言葉を、心の中で反芻する。くだらないな。そう思う。同じことを繰り返す相手も、いちいち、動揺させられる自分も、実にくだらない。
 家を逃げ出したのは、もっとしっかり立つためだったのに。何も変わってない。
「うるせえな。だったら、とっとと雅牙を連れて帰ればいいだろ!」
 意気を振り絞って、鋭い目を相手に向けながら怒鳴る。黙っていたら、萎縮してしまいそうだった。動揺を、今更動かされてしまった自分への怒りに摩り替える。泣くのなんて冗談じゃない。振り回されてたまるか。そんなこと、プライドが許さない。
 何よりも、挫けてしまうわけに行かなかった。自分の弱さを知っているから。――心が血を流していても。つらいからと言ってよろめくだけでなく、言葉が痛いからと言ってうずくまるのではなく、立ち向かうために、自分を守るために選んだ道だったから。
 どうしてもこの事態を避けたかったから、早く雅牙を帰らせようとしたのに、まったく無駄になってしまった。母親は雅牙がこういった普通でない状況に巻き込まれるのを、心から恐れている。何よりも恐怖している。それは比例して都雅を嫌う原因でもあった。
 どんなに関係ないと言っても、相手は聞こうとしない。分かろうとしない。罵られるのが分かっていたから、こんなに嫌な気分になるのが分かっていたから、はじめから分かっていたから。
 だからわざわざここに来たのに。二度と関わるなと、雅牙に釘を刺しておかなければと、思っていた。鉢合わせするかもしれないとは思っていたけれど――もうちょっと、動揺せずにいられると思ったのは、どうやら自分への買いかぶりだったらしい。余計に腹が立つ。
「言われなくても……!」
 都雅に言い返そうとした女だったが、最後まで言えずに、声は途中で悲鳴に変わった。
 成り行きを見守っていた猫が、突然彼女に飛びかかったからだ。爪と牙を遠慮なくこれでもかと突き立てて、彼女のスカートに飛びついた菊猫に、女は驚きのあまり金切り声をあげて振り払おうとした。
 けれど菊もそこは年の功。身軽くその手を避けると、玄関の隅の方まで逃げてしまった。しかも、爪の端に彼女のスカートの端を引っかけたままだったから、見事にほつれてしまっている。菊は呑気に舌を覗かせて相手を見上げた。
「なんなの、この猫は!」
 母親は怒りと興奮で頬を赤く染めて、都雅と森崎をにらみつける。
「ただの野良猫だろ? 何恐がってんだよ」
 知らず強張っていた都雅の肩から力が抜けていた。顔からは、思い詰めたような色が消えていた。唇の端をつり上げて笑う。ゆがめて、ではなくて。
 普段の調子に戻っていた。
 そんな彼女を睨みつけて、女は再びまくしたてようとする、が。
「お母さん!」
 割り込んだのは、まだ高い少年の声だった。
「お母さん、どうしたの」
 吹き抜けになっている二階から、少年が二人駆け下りてきているところだった。雅牙と、その後ろにいるのは、孝司という少年だろう。その姿を認めると、母親は再び声を上げた。
「雅牙、何をしているの!」
 母親の剣幕に驚いて雅牙は思わずのように足を止めた。異様な雰囲気に包まれている階下を見下ろす。その場の雰囲気にか、思い至ることだったからか、連れ戻されそうだということを悟ったのだろう。それ以上降りてこようとはしなかった。置いた手で、手すりをきつく握って。
「ぼくは帰らないよ。今日はここに泊めさせてもらう」
「何を言っているの。こんなことに関わるものじゃないわ。早くいらっしゃい」
「いやだ。友だちを見捨てられない。力になれないけど、一緒にいるって約束したんだから。……お姉ちゃんだって、心配して来てくれたんだ。どうしてそんな声で、ひどいこと言うの」
 いつになく頑として聞かない雅牙に、母親は詰まってしまっていた。
「雅牙、やめておけ」
 都雅は嫌々ながら、それを顔全面にあらわしながら、口をはさむ。
 関わるのはやめておけ、という意志のこもった一言には、他の意味も込められている。雅牙が何か言ったところで、今の彼女たちの環境が変わるわけではない。彼女自身が、何年も努力して無駄だったのだから。特に今は事態がややこしくなるだけだ。彼が素直に帰ればいいだけのことだ。
 けれど首を左右に振って、重ねて少年は言う。
「どうしてみんなが大変なときに、少しでも助けになりたいと思ったら駄目なの。自分のことだけ考えろってことなの? ……そんなお母さん、嫌いだ」
 必死の愛情を雅牙に注いでいる母親は、雅牙本人に言われて固まってしまった。しかも、素直で人の気持ちをよく考える頭のいい雅牙は、普段なら、他人を拒絶する言葉を口にしない。
 母親は雅牙が口にした言葉に、彼が逆らったのだという事実に、ひどく衝撃を受けていた。傷ついた、などと生易しいものでない。表情がそれを物語っている。混迷して、何が起こっているのか分からないと言うよりも、どう反応すればいいのか分からないと言うような表情だった。
 それは、一瞬後に、激しい怒りへと取って代わる。多分、先程都雅が、自分の中の混乱を怒りに摩り替えたのと同じように。
「いいわ。雅牙までそんなことを言うのなら、勝手になさいっ。何が起きたって知りませんからね! ……もちろん、何かあったときには、お前が助けたがっている新藤家にも責任をとってもらいますからね!」
 彼女は確か、息子のことを心配してここに駆けつけてきたはずだった。新藤家が何やら厄介ごとに巻き込まれていることなど承知していて、さらにこの屋敷そのものもどうやら大変らしいという情報まで手に入れて、実際に屋敷の様子を目にして、本当に大事のようだと察したはずだった。それがもしかしたら大事な息子の命に関わるかも知れないとも、思ったはずだった。……なのに。息子が何を言おうと、引きずってでも帰るところだろうに、この反応は変だと都雅は思う。もう他に言いようがなかったのかもしれないが。
 都雅を見ようともせず、母親は、来たときよりも乱暴な動作で玄関の戸を開け放った。ヒールの音を響かせながら、もう二度と振り返りもせずに帰ってしまった。ばたん、と重層な響きとともに、戸が閉まる。
 途端その場に、奇妙な沈黙が落ちた。嵐が去った後のような静けさが、妙な空気をとどまらせている。改めて何かを言おうとしても馬鹿のような台詞しか思い浮かばず、それをわざわざ口にするのはさらに仕方がない気がして、誰もが口を開かない。
 とりあえず都雅が大仰にため息をつく。少し気弱そうに鳴きながら見上げてくる猫には、つい笑ってしまった。おかしみやら不快さやら、色々隠そうとして、ゆがんでしまったのが自分で分かる。
「よくやった。かなりスッとしたぞ」
 そんな彼女の笑みに、菊は奇妙な表情で口を閉ざした。牙を噛み締めて、唇を半端に開いた、不安そうで不可解そうな表情だった。猫の表情なんてよく分からないが、そう見えた。
「さて、どうしようかな……」
 そんな菊の思惑など普段通り微塵も気にせず、都雅はのんびりと言った。
「お姉ちゃん」
 嬉しそうな響きを込めた声が、再度ため息をついた都雅へかけられる。思わず、都雅は眉を片方つり上げる。嫌そうな顔、というわけでも、怒ったわけでもなく。
 ――仕方ないなあ。
「おい、お前」
 まっすぐに立って、揺るぎない瞳で、森崎老人を見る。
「仕方ないから、仕事請けてやる。そのかわり、金のあるやつからはそれ相応にいただくから、そのつもりでいろ」




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