まがことのは




第四章







 都雅自身唇を噛みしめて衝撃をこらえた耳に聞こえたのは、雅牙の悲鳴だったのだろう。何の反応を返してやる余裕もなく、ただ鋭く息を吐いた。身じろぎすると背中が痛んだが、特に背骨に異常がある様子もない。なんとかなる。
 腕が動かないから、膝をかがめて、身を前に伏せるようにして起きあがる。目の前で魔族は、再び少年たちの方へ向き直っている。今度は、結界の存在など役には立たないかもしれない。でも、させるわけには行かない。
 身体の痛みに目眩もするし息があがるが、諦める原因にはならない。
 ――もう。何者にも。
 額を流れる汗をそのままにして、使いものにならない腕をだらりと垂らし、そこから血までも流しながら都雅は、もはや彼女に視線も向けていない相手を睨みつけている。
 都雅は足を踏み出して、さらにもう一歩踏み出して、魔族に近寄っていく。気配に気がついた魔族が美しい貌を向ける前に、再度息を吐き出した。
 ――――何者にも、邪魔されてなるものか。
「纏いて来たれ」
 静かに呪文を唱えた声に応じて、まわりの空気がぴたりと止まった。刹那、風が動く。収縮して、周りのありとあらゆるものを吸い寄せるような勢いで集う。都雅自身吸い寄せられそうになりながらも、ありったけの力を込めてその風を放った。
 耳が痛くなるような音をたてながら、それは、魔族に襲いかかる。
 魔族は、今度こそ確実に、風の塊に激突した。――決めつけていたから、油断していた。都雅が反撃に出ることなど不可能だと。強大な存在に衝突した衝撃は、重い音を響かせ、その音すら暴風に吹き飛ばされた。新たな衝撃がさらに激しい余波をまき散らす。空気が目に見えてゆがんで、部屋の中にあった家具が爆風で砕け飛んだ。残っていた部屋の壁さえも崩壊する。
 結界に守られて、そよ風すら感じずにいる少年たちは、自分たちのまわりのごく小さい空間のみに保たれている平穏な世界と、暴風に荒らされ壊れていく、目に見える世界の違いに、唖然としていた。あまりに常識離れた、繰り広げられる現実に。


 暴風のおさまった後、だがしかし魔族は変わらずたたずんでいた。変化などないように見えたが、それはまるで違っていた。魔族自身が感じるものは、違っていた。
 身体が軋む。何故だか、身が重い。考えて、額から頬をぬるりと流れ落ちるものに気がついた。少年たちに向かって手を伸ばしたまま止まっていた魔族は、のんびりとした動作でその手を持ち上げて、ぬぐい取る。白い手を濡らしたのは、人の持つものよりもどこか黒ずんだ赤い液体だった。あろうことかそれは、彼女の血だった。
 そんなはずはない。冗談ではなかった。あり得るはずのないこと。
 かすり傷だった。致命傷などとはほど遠い。自身の力で治すことなど簡単だし、放っておいておいてもすぐに癒える。だがこの自分が、人間に傷つけられるなどと。あってはならないことだ。矜持が許さない。――封じられた日の事を、屈辱を思い出す。
 しかしそれよりも、彼女が焦るように思うのは別の大きな要因があった。
 どういうことか、人間の術者の攻撃など何でもないはずなのに、身にのしかかるように、効いている。どうして身体を傷つける。それは確かに、目の前の取るに足りない少女が、予想以上の力の持ち主であったから、ということもあるが。それは所詮、人間の目で見ればの話。侮っていたからといえばそれもあるかもしれない。だがそれがどれほどの要因だというのか。
 愕然としてしまう。
 今まで対していたのが、取るに足りない、カスほどの力しか持ち合わせていない人間だったから、気にならなかった。気づかなかった。
 おかしい。認めたくないことではあったが、他に考えられなかった。自分の中に思っていたほどの力がない。
 力が出ないのだ。
 考えられるのは、ただ一つだけだった。長い間封じられて、本来の力を失っていた。ゆるゆると少しずつ、長い時をかけて、しかし確実に奪われていた。
 それは都雅にとって、大きな幸運だった。
 だが不幸もそこに共存していた。
 ――そしてそれよりも、脳裏をちらついて離れないことがある。それはさらに、魔族の中の怒りを煽る。
 さらに近づいてきていた都雅を、魔族は瞳を鋭く開いて睨みつける。


「お姉ちゃんっ」
 耐え切れないというように叫ぶ声が聞こえて、朦朧とする意識の中で都雅は怒鳴りつける。
「雅牙やめろ。引っ込んでるって、約束しただろっ」
 駆け寄ろうとした雅牙は、声の剣幕に止まった。雅牙には分からないが、都雅の張った守りの結界から、あと一歩で出てしまうという場で。
「でもお姉ちゃん……!」
「邪魔なんだよ!」
 言い募る雅牙に、再度怒鳴る。痛みのあまりに声に容赦がなかった。どうやら菊が雅牙を引き戻したのを見て、都雅は息を吐く。少しだけ、猫に感謝した。
 ――ああもう、まったく。
 心の中で思うことは、自分に対する呆れ。
 怪我することなんて、最初から分かっていたことだ。敵わないのなんか、始めから分かっていた。なのにどうしてこんなことをしているんだか。腕を折る程度で済んだことを感謝しなくてはならないくらいだ。これからどうなるか分からないが。
 思った途端、魔族の手に光りが灯った。巨大で目映い光を見ながら、とんでもなく近所迷惑だとかどこかで思っていた。
 光から目をそらし、うつむいて気を落ち着ける。少年たちを守る結界を張りながら、片手間にするような作業で防ぎきれるとは思わなかったが、仕方ない。あっちの結界を解いてしまっては本末転倒だ。自分自身は無傷で済まそうとは思っていないから、まあいい。どちらにしろ、他人にはともかく、自分にかける治癒だとか防御の魔法は苦手だし。
 光が投げつけられる気配と、また雅牙の声がしたが、それに気を向けてばかりもいられない。恐れてすくんでいる場合ではない。
 ――風の音は。
 流れる風はどこに。身を包む大気は。肌に触れる空気は。その源は。
 精神を研ぎ澄ませてその動きを感じ取る。全身で風の行方を追いながら力強く命じる。その流れを変えて、我と我のかばうものを守るようにと。抗うことを許さず、断固とした声で。
「風よ――!」
 言葉尻は轟音に消えた。それでも始めと同様、防御の呪文は確かに作動した。だが、やはりすべてを防ぐには足りない。痛みのせいで足を踏ん張るには、力が入らなくて、都雅は床になぎ倒されてしまった。そのまま、絨毯の上をすべっていく。
 うめき声がもれる。痛みのせいで、頭の中ではあらゆるものに悪態をついていた。母親も雅牙も、菊も美佐子も、ご大層なお金持ちの新藤家も、魔族も、まったく腹のたつ。何より自分自身に腹が立つ。どうしてくれようか、と思いながらも、都雅は歯を食いしばり、毛足の長い絨毯を睨みつける。折れた腕を床につくわけには行かず苦労はしたが、額を床につけて、膝をついて、身をひねるようにして起きあがる。
 長い前髪の間から、鋭い眼差しを向ける。


 人とは違う長さに生きる魔族にとっては幼く、圧力などない、ただの視線だ。しかしながら魔族は、きょとんとした面持ちで少女を見ていた。
 ――まだ、逆らえるのか?
 これほどに踏みにじられて、傷つけられて、まだ逆らおうとする人間など見たことがなかった。普通は怯えるものなのに、どうして。
 この、人間は。
 取るに足りない非力な人間のくせに。そして少女がかばおうとしている少年たちは確かに、自分を見て恐れ戦いているのに、少女自身は平然と、あろうことか攻撃までしてきた。深手まで負っているのに。まだ、歯向かってくるつもりでいる。
 こんな復讐劇、簡単に果たせるはずだった。遊びでしかなかった。少しの暇つぶしでしかないはずだった。そして自分は優位にいるはずなのに。相手はたかが人間、それも技を使えるのは少女のみに見える、だから一人きりで劣勢なはずなのに。どうしてそんなに平然としていられる。そんな人間は今まで、見たことがない。
 もう、当初の目的などどうでも良かった。怯えている少年を殺すことなど、もう、少しの楽しみも感じない。
 彼女の興味は、じわじわとわき上がる怒りはすべて、目の前の少女に向けられていた。今この自分に少しでも惨めさを感じさせた、たかが人間の少女。
 何より、何よりも――まとわりつくように意識から離れない、あの瞳。
 滅茶苦茶に引き裂いて、もとの形すら分からなくなるほどに引き裂いて、壊してしまわなくては気が済まない。何もかもを奪って苦しめてやらなくては。あの揺るがない瞳を恐怖に染めなければ。
 光が消えて再び月明かりの帰ってきた空間において、魔族は少女を一瞥し、そして眼差しを正面に据えた。
「菊!」
 駆け寄ることすら出来ない都雅は、とっさに怒鳴りつけるような声で呼んでいた。言われなくてもという様子で、牙を剥き出した菊が、懸命に彼らを守ろうとしている。
 意識を向けられて、少年たちは再び身をすくめる。魔族は再度手を伸べて、虚空を薙いだ。都雅が張った結界が、いとも簡単に破り取られてしまう。そのまま、立ちふさがる菊には構いもせず腕の一振りで化け猫をはじき飛ばすと、魔族は少年たちの方へ向かった。自らの血のついた白い手を伸ばしたのは、彼女が始めに狙っていた少年、ではなく。
 ――魔道士の少女が、怒鳴りつけた方。
 少女が気遣う素振りを見せた方。
 怯える孝司をかばった雅牙に、優雅な仕草で手を伸べる。彼女は、麗しいその貌(かんばせ)で、艶やかに笑んだ。魔族として得意とする彼女の力。惑わし惹きつける、妖(あやかし)の力を誇張するそれは、ただよっていた殺伐とした空気を一瞬にしてかき消すほどの、魅惑にあふれた笑みだった。
 その瞳に捕らえられて、雅牙は身動きとれなくなる。そして結果的に、ただびとならば、彼女の命には逆らえなくなる。
「雅牙!」
 必死の声で、都雅が呼んだ。
 ――けれど。
 はじめから雅牙は惑わされてなどいなかった。妖しく笑む凌霞に対し、正気を強く保った目で、その闇のような瞳を見返している。
 あり得ない。あり得ないあり得ない。
 今度こそ魔族は動揺した。この場においてことごとく誇りを傷つけられて、彼女の怒りは頂点に達していた。こうなったらもう。
 ――喰ろうてやる!
 カッと牙を剥いて、雅牙の細い首に噛みつこうとした。
 だが、出来なかった。
 都雅が後ろから攻撃魔法を放ったからでも、壁の残骸に頭を打ちつけて血を流している菊が、その喉元に噛みついたからでもない。防御しなかった魔族にとってそれらは確かに痛手ではあったが、食らいつけたなかったことに対する大した要因ではない。
 でも、出来ないのだ。強い抵抗が彼女の身体を縛っていた。
 何が起きたのか、どうしてなのか、その時その場にいた者、誰にも分からなかった。
 食らいつくことをあきらめ、しかしながら魔族は、雅牙のことをあきらめたわけではなかった。ことごとく自分の邪魔をされて、これだけはあきらめるわけにいかなかった。意地にもなっていた。
 再び菊を振り払い、雅牙の腕を掴んでいた。
「……雅牙っ」
 魔族が始めに狙っていた少年が、泣きながら叫ぶ。だがそれは彼女にとって、興味対象としては映らない。
「てめえ!」
 ねじ曲がった腕から血を流して、しっかりと床を踏みしめて立つ少女の声の方が、彼女の気を引いた。驚いた雅牙が魔族の腕を振り払おうと必死になっているのなど意にも解さず、少女の方を振り返る。
 そして彼女は、嗤う。
 荒れきったこの場において、流血と破壊に満ちたこの場において、それをもたらした本人であるにも関わらず、どこか優しささえ覗かせる表情。相手の愚かしさを憐れむ、けれど慈愛さえ錯覚させる顔で、嗤う。
 そんな笑みを残し、一瞬ひるんだ都雅を残して。
 ――消える。
 今度こそ、消えてしまった。
 雅牙を連れたままで。




「禍言の葉」トップへ