まがことのは




第七章








 彼女はその名を凌霞(りょうか)といった。都雅に撃退された形で、転移した先の中空において、腹立たしげに新藤家の方向を睨んでいた。
 あってはならない事が起きていた。彼女の身は、その渦中にあった。
 彼女は捕食者だった。――それは正確な言葉ではないが、例えればそういうものだった。肉食動物が、温和な他の動物たちを食し血肉にするのと同じように、彼女は人の苦痛や恐怖を好物としていた。食するのではない。確かに糧にはなるが、飢えることを知らない彼女にとってはそれを見るのが、ただひたすらに愉悦なのだ。それを心の中でゆるゆると食(は)み、のた打ち回るのを逃がさず、決して許さず、逆らう事もできなくなるよう喰らい尽くすのが楽しかった。
 だが、一体どうしたことだと言うのだろう。
 人間を虐げるのは彼女にとって当然の、許された行為であり、相手が逆らうのは――もがき足掻くのはまた楽しみの一つではあったが、その結果彼女自身を傷つけるのはあってはならないことだった。
 それなのに、長命の彼女にとってそう遠くない昔に、人間たちの反撃にあって封印された我が身。しかもそのせいで、病んだ人間が起き上がる力をなくしてしまったかのように、衰えたこの力。
 それだけでも、許せることではないのに。あってはならない事だったのに。
 しかも今回は、人間の前から逃走する羽目になるなどと。なんという屈辱。ありうべからざる事だ。
 絶対的優位に立つ、力ある己が。魔族たるこの自分が。絶対にこのままにはしておかない。何としてもあの人間に復讐しなければ、怒りのあまりに自分自身が保てそうになかった。絶望に突き落として、生きて行く力も意志もそぎ落としてしまわなければ。どれだけ傷つけられても真っ向から睨みつけてくる、無遠慮で愚かな目を恐怖に染めて、二度と眼差しを強く上げて立つことができないようにしてやらなければ、傷つけられた自尊心がおさまらない。
 魔族の第一の本質は、何よりもその誇り高さだ。誇りを傷つけられた彼らは、その事実を抹消するため――誇りを傷つけた者を苦しめ消し去るためならば、手段など選ばない。
 そしてやはり彼女は捕食者だった。
 そもそも 人の血肉を喰らうという行為は魔族の中でも低俗な者たちの好むことで、彼女にとっては下賤のする事でしかない。魔族の中でも彼女のような者たちは、食事を必要としない。
 しかし確かに、人を食らうことで自らの力を回復することが出来るのも事実であり、そしてそれが一番手っ取り早い方法でもあった。まるで相手の命そのものを食するかのように。更に血肉にする相手が能力者であり、その力が強いほど、意味を増した。相手をその力ごと、自分の中に取り込むかのように。
 下賤の技だ。今の自分では仕方ないと思いながらもやはり腹立たしかった。そもそも、そんな必要に迫られなければならない現況も、あの少女の事も。
 苦しめてやらなければならない。ああ、きっと抵抗するだろう。歯向かうだろうとも。しかし、そうでなくては。起き上がろうと、立ち上がろうとしているところを抑え付け、苦しませ、のた打ち回らせなければ気がすまない。そう考えると、相手がなかなか屈しない者であることは、楽しみの種になった。それこそ、やりがいがあると言うものだ。
 そして、この手の中には切り札がある。
 人間の少女の目の前からさらってきた少年が、今は彼女の手の内にあった。気を失ってぐったりとしているが、生きている。
 手始めにこれを喰らってやろうかと、思う。この少年に限って、そして自分に恥辱を味わわせた少女を苦しめるためというそのことに限って、彼女は平然と、下賤の業だと言う事実を受け止めた。これを千々に切り裂いて喰らってやろう。それが成されたことを知れば、この少年が彼女の血肉になったことを知れば、あの小娘は何とするだろう。嘆くだろうか。それも、どれほどに?
 苛立ちの中において、それを想像してみることは、彼女を楽しませた。どうせならその目の前で喰らってやれば、どれだけ悔しがるだろうか。
 どうしてやろうかと、その手に抱えた少年を高く持ち上げ、まだ幼いその顔に頬を近づけるようにして伺う。
 やわらかそうな頬。小さな唇。牙をたてれば瑞々しい血があふれて滴り落ちていくのだろう。その赤い血が少年を染めていくのを思うと、それを目にしてみたくなる。先刻はどういうことかそれが出来なかったが、気のせいだろう。
 残虐な笑み頬にはき、さてどうしてやろうかと、再び考えていた。その彼女の目の前にいて少年は突然瞳を開いた。
 生気のあふれる瞳。力強いそれは、あふれでる精神力の強さゆえに、まるで光りを放っているかのような錯覚を与えた。
「これは……」
 思わず彼女の唇から、声がもれる。
 ――錯覚ではない……!
 ばちり、と目の前で火花が散っている。少年に触れている腕がちりちりと痛い。
「離せ」
 上空において、魔族の腕に支えられているだけの状態で、少年は命じていた。手を離されれば落ちてしまうだけだ。それが分かっていて言っている様子ではない。気絶していたのから覚めて、惑っている様子でもない。かと言って、意識が戻ったようではない。
 いぶかしみ、魔族が手を離さずにいると、少年は再び言った。
「離せ」
 尊大に命じるその意志は、再度力となって現れた。
 突然夜の中において、辺りが明るくなった。照らし出されて熱い。
 一瞬訳が分からなかった魔族は、その光りの元を見て愕然とした。燃えているのは自分の腕。少年を支えている腕だ。しかも何故か少年には燃え移らずに、業火となって燃えている。
 それを意識した瞬間、焼かれる痛みが襲いかかってきた。
 驚いているうちに、その腕がねじくれ始める。あり得ない形にゆがんでいく。ひねられたようになっていく。見えない何者かが、少年の体からその手を引き剥がそうとしているかのようだった。拒否している。拒絶している。彼女が触れるのを、拒絶している――
 嫌悪のあまり魔族は顔をゆがめる。
 無造作に少年を投げ捨てた。



 夜の町は、きらきらと光って美しかった。天上の星を地上にも蒔いたかのようなまばゆさ。だが無機質で暖かみがない。脆弱で、地表に巣食う人間たちが必死に模(かたど)った、おぞましいが故に、憐れなあまりに、美しい光。その明るい闇の中に、少年が落ちていく。
 少年を離した途端に炎の消えた腕を自らの力で癒し、彼女はただ見送っている。
 今日という日は、一体なんだというのだ。
 苛々と思うのはそのことばかりだった。繰り返し繰り返し、自分のことを恐れようともしなかった少女のことが、頭をよぎる。あの、強い意志の込められた、眼差し。少年に何かをしようとしたら力が発動するように、罠を仕掛けているなんて。小賢しいにもほどがある。
 だが――彼女は疑問を感じた。
 果たして罠を仕掛けるような時間が、あの時あの少女にあっただろうか? そんな暇があるなら、少女は少年がさらわれないよう守ることが出来たはずだ。
 それならば。それなら、今のは一体誰の仕業だというのだ?
 思うと同時に答えを出していた。もう、答えは一つしかない。
 それを思ってから、彼女は笑う。納得して、落ちていった少年の後を追った。




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