まがことのは




第六章











 夜の学校が怖いのは、昼間とはまるで別の場所に見えるからだ。人と声にあふれているはずの場所が、暗闇と静寂に支配されて、よく知っているはずの場所なのに、まったく未知の場所のように思えるからだ。酷似しているのに、まるで別の場所のようだから。――自分一人だけ切り離されて、別の異空間へ来てしまったような、孤独と恐怖。
 いつもは人が支配しているはずの空間が、別の者に蹂躙されているように見えてしまう。うずくまった闇の中に、何か恐ろしい生き物がいても不思議でないように、思えてしまうから。
 ――そして彼らの目の前、夜を彷徨うものがいた。少女の皮をまとって。
 奏が壊した玄関口から漏れ入る月の光をうけずにいられる場所で、光を背後に流して。ただ沈黙と闇の落ちる中に、後ろを仄かに照らし出されて、そこにいた。逃げた奏たちを見て相手がどう思ったのか、それは分からない。だが、それを楽しんでいるのは確かだった。
 逆光で暗くなった顔で笑う。唇を吊り上げて、笑う。白い歯がこぼれて見えたために、それが分かった。
 離脱したところで逃げられたわけでないのは分かっていたから、今更なのだけど。崇子が息を呑む。そして、視界がまたゆらいだ。
 周波数の合わないテレビのように、ぐらぐらと現実と幻影が乱れて入る。思わずこめかみを押さえて、目をしばたいてしまった。また、何か声が聞こえる――
 けれども、自分をさいなむような、いたたまれなくするような声は、高飛車な声にさえぎられて消えた。
「うっわ。何あれ。何をそんなに慌ててんのかと思ってたけど、奏ってばあんな小娘ちゃん一人に勝てなかったのお?」
 腰に手を当てて、身をそらすようにして美しい姿勢をしている蓮が、容赦のない一言を突きつけている。眼前の少女にも、奏たちにも。
 奏は苦笑するよりも笑ってしまった。
「外見は人間だけど、中に魔族が入ってるんだよ。あんまり無差別に攻撃するなよ」
「何それ。ぼくがまるで誰彼構わず攻撃しまくる危険人物みたいな言い方して。だいたい、ぼくは手を貸さないって言っただろっ」
「はいはい」
 この期に及んでわがままな蓮に対し、奏はそれ以上何も言わない。かわりに、彼らを待ち受けていた魔族から顔をそらして、崇子のほうをうかがう。
「お嬢さん?」
 再び身をすくめて、震えたまま魔族を凝視している崇子に声をかける。彼女には、やはり相変わらずな奏の反応も蓮の反応も理解できなかった。そして彼女自身、何もできなかった。いつもいつも、悪いくせだと思うけれど、何もできない。さっき敵わなかったことが強く脳裏に残っているから、恐くて恐くて祝詞を唱える声ももう出ない。――だめなのだ、本当に。
 普段は平気だったが、この世ならざるものを前にすると、身がすくんでしまうのだ。例え能力者であろうと仕方ない。だって、恐いことに変わりはない。
 協会も、彼女のその性格には手を焼いていた。だからこそ、この学校からも手を増やしてほしいと言われたときには、喜んでそうしたくらいだ。だが協会内部は手を離せなかった。
 神舞家と新藤家から、子どもを連れ去った「高位魔族」の捜索を頼まれていた協会は、どうしてもそちらを優先せざるを得なかった。それは財界でも大きな力を持つ両家からの依頼だということもあり、同時に「高位魔族」の驚異からでもあった。野放しにするわけにはいかなかったのだ。現在も皆が血眼で探している。
 だから協会はどうしても人手を割けず、外部でも名の知れた者に依頼をしたが、簡単に断られてしまった。慌てて、その者と並んで有名な奏たちに依頼をするよう、学校側に言ったわけだったが。
 そのからくりを分かっていても、崇子は何もできなかった。何もできずに、かばうように前に立っている人たちの後ろに隠れるように立ち尽くして、少女を見ていることしかできなかった。
「どうする?」
 愉悦にあふれた声で、魔族が問いかけてくる。また逃げ出すのか、と。
「さあて、どうしようかなあ」
 のんびりと応じたのは、奏だった。いつもとなんら変わらない声音で。
「俺は、たいていの場合は、女子供には優しいんだよな。手が出せないとなると、どうしようもないなあ」
 状況をまるで分かっていないような言葉に、少女の顔にさげすむような表情が浮かぶ。追い詰めて楽しんでいるような愉悦と、嘲笑とが混ざったような表情だった。当然のように蓮が眉を吊り上げる。あくまで飄々としたままの奏と、残忍そのものの少女と、まるで正反対の空気を持ちながら、相手の気持ちを探るように沈黙が降りた。
 そのため、今まで気がつかなかった小さな物音が耳に届く。聞き間違えなどでなければ、足音だ。歩調からするに、こちらへ駆けてくる音。――そんな、はずは。
 少し驚きのにじんだ表情で、奏が足音の主を探すように、音が聞こえるほうに目を向けた。ぱたぱたと軽い足音は、目的を持った確かさで、間違いなくこちらへ向かってきていた。
 そして唐突に、音の主は姿を見せる。
「彩(あや)花(か)!?」
 声は向こうの方から聞こえた。魔族に憑かれた少女がいる向こうの方。ちょうど奏が壊した玄関口から駆け込んできたのだろう。肩で息をして、目の前の少女と同じくらいの年頃の少女が必死の顔でそこにいた。大人しそうな、けれどしっかりとした目をしている子だった。
「彩花、どうしたの。どうしてこんなところに……?」
 少女自身驚いてもいるようだったが、誰も予想などしていなかった少女の登場は、当然場の皆をそれ以上に驚かせた。一瞬新手の敵かと、もしくはまた幻でも見ているのかと思ったが、どうやら違う。あれは本当に、ただの少女だ。運悪く学校が結界で閉じ込められる前に足を踏み入れてしまったのだろう。そのまま一緒に巻き込まれてしまったとしか思えない。
 しかし、名を呼んだ。
 駆けてきた少女の思惑はどうであれ、彼女が誰であれ、彼女は囚われた少女の知人だ。奏はちらりと、この知人の少女の声で、魔族に囚われた少女が自分の意識を取り戻してくれないかと思ったが、甘いと考えるべきか。その程度で支配が緩むほど相手は生易しいものではない。魔族に囚われた少女は顔に浮かんでいたすべての感情を消して、つぶやいた。
「小娘……。あの時、死ななかった生き残りか」
 「生き残り」の言葉に、皆が校長の言葉を思い出す。事件の被害者は皆奇妙な死に方や、異常な状態での死体を残していたが、第一の事件だけが違っていた。
「お前のせいで三人も喰い損ねた」
 たった一人身を投げた生徒以外は、みな一命をとりとめ今も入院中だが――関わった人の中で、一人だけ動ける人がいたはずだ。第一発見者の少女。
 場に割り込まれ、声をかけられ、魔族の憑いた少女は、緩慢なゆったりとした動きで振り向いた。奏たちに背を向けることなどまるで気にもせず、余裕を持った態度で闖入者をうかがう。
 だが、それだけで済むわけがなかった。
 魔族の意図に気がついても、誰も、逃げろ、とか簡単な言葉も口にする暇がなかった。魔族のとり憑いた少女は振り返って闖入者を見、ついでのように片腕を振った。
 風がぶれた。目に見えない害意の塊のような力と、突然尋常でない勢いで押しやられた空気が抵抗し反発する力のせいで、まるで場がゆがんだように視界がゆがんだ。そして圧力は風を押しきって少女のほうへと駆け出した。それは、容赦のない速さで。
 考えるよりも早く奏は足を踏み出していた。少女がいるのは、魔族を挟んで向こう側。行って守ってやれない。庇ってもやれない。彼の力はあまりそういうことに向かない。例え出来るのだとしても、そのやり方を知らない。それでも走りかけた、が。
 その必要はなかった。
 迫り来るものに少女は悲鳴を上げ、まさに襲いかかられてしまうかというような瞬間。
 あまりに不自然な風が少女のまわりを吹き荒れた。彼女を取り囲むようにして渦巻き、力の塊を受け止める。容赦なく吹き飛ばした。衝突した地点で反発する力が生まれて、両脇の壁が耐え切れずに崩壊する。爆風にも似た風が、人々を襲う。
「魔道……っ?」
 手で顔をかばうようにして崇子が声を上げる。
 そんなはずはない。ここにいる者で魔道が使える者はいない。奏も蓮も、多分そういったタイプの能力者ではない。襲われたあの少女からも能力者であるような気配は感じられないのに。
 どういうこと……!?
 訳も分からず、崇子は少女の方を見た。暗い廊下の方を見上げた。
 その彼女の耳に、か細い猫の鳴き声が聞こえる。



 魔族にとりつかれた少女の向こうにいる、少女。そのさらに向こう。
 黒い影がいた。
 肩から全身にかけて黒い布に身を包んだその影は、足下から伸びる自身の影と同化してしまっているように見える。照り返す町の明かりでぼやけた闇になってしまっている夜の中にあって、さらに月明かりに照らされて、浮かび上がるようにしてそこにいた。
 確たる存在感を持って君臨するもの。黒い布で身を包み、足下に黒猫を従えて、まさしく絵に描いたような魔道士(ウィッチ)。
 それは静かな声で、それでいてどこか腹立たしげにつぶやく。
「やっと見つけた」
 ――――まるで呪詛のように。







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