まがことのは




第六章









 戸の前にたどり着いたはいいが、奏はすぐにドアを開けようとしなかった。ノブに手をかけて、そして大きくため息をつく。それは魔族に対峙したときよりも深刻な表情で、息は重く、何か覚悟を決めるような顔だった。
 彼は遠慮がちにノブを回し、ガチャリ、と小さな音がして、その音にすら奏は「まずい」というような顔をする。今までガラスを割ったり壁にヒビを入れたり、あれだけ盛大な音をたてていたのに。
「何騒がしいことしてんだよっ」
 完全にドアを開ける前、少しの隙間を開けて中をうかがおうとした奏は、怒鳴られて、困ったように眉を寄せた。「やっぱり怒られた」と小さくぼやくと、それで開き直ったのか、こそこそするのをやめて大きく戸を開く。
「仕方ないだろー。俺だって出来ることなら音便に処理したいものだよ。でもいきなりなんか出てくるわ、このお姉ちゃん問答無用で攻撃するわ、あっちも攻撃してくるわで大変だったんだからな」
 ぼやきながら部屋の中に入ると、電気をつけて蓮が寝ていたソファーの方へ行く。電気に眩しそうに目をしばたかせてから、蓮は迷惑そうに奏の方を見た。安眠を妨害されたことを怒っているらしい。
「あーもうやだやだやだ。愚痴っぽくて爺クサイよ奏」
 本当に嫌そうな顔で、臭いものをはたくような仕草をして蓮は言う。まったく容赦がない。
「蓮ちゃん、少しはボクの心配してください」
「はーん。そんなものするだけ無駄だろ。繊細なぼくはともかく、バカは殺しても死なないからねー」
「お前が繊細って言うんなら、世の中の人間全部繊細だな……」
「なあーんか言ったあ?」
 眉を吊り上げて、蓮が奏へ厳しい声を向ける。そんな他愛のない光景を繰り広げる彼らに、気が急いた崇子は割り込まずにいられなかった。
「あの」
 少し強い声を出したものの、瞬時に蓮の「部外者は割り込むな」と言わんばかりの眼差しが向けられて、少しすくんでしまった。けれども、奏の促すような視線に、それも消えた。
「あの……。大丈夫なんですか」
 たくさんの意味の込められた、一言だった。逃げなくてもいいのか、態勢を整えるなら作戦を錬らなくていいのか、どうしてそんなに平然としていられるのか。今だって追われているのに。今この瞬間にもここに、あれが現れるかもしれないのに。訳のわからないものを見せられて、超越した力を見せられて、恐ろしくないのか……?
 普通あれだけのものを見れば、能力者であっても多少は怖じ気づくものなのに、むしろ、ある程度以上能力がある者であれば、自分の力量も相手の力量もわかるものだから、余計に怖気づくものだろうに。目の前の二人にはそんなところは少しもない。――魔族のあの力量、尋常ではないものなのに。蓮と奏は最初と同じ調子で、不毛な会話をしている。極度の恐怖から辛うじて少し浮上して、けれどそんな二人の様子を見た崇子は呆れるというよりも、焦れていた。
 会話の内容……と言うこともあるが、あまりにも悠長に構えている二人が不思議で仕方ない。蓮はともかく奏は敵の様子を見ているのに、どうしてこんなに落ち着いていられるのか。
 そんな突き上げるような思いからの言葉だったが、崇子は蓮の強い瞳に見られてたじろいでしまった。
「全然大丈夫じゃない」
 彼は何当たり前のことを、とでも言うような態度で彼は言う。
「晩御飯は?」
 その言葉に、さすがにあきれ返って奏が返す。
「……お前なあ」
「ピザかなんかとってよ。でなかったら、コンビニ行って何か買ってきて」
「わがまま言うんじゃありません。さっき喰ったばっかだろうが。だいたいお金はどこから出すんだ」
「必要経費」
「……あんまり必要じゃないと思うんだが」
「腹が減っては戦が出来ぬっていうでしょ。これだから記憶力がないやつは嫌だねえ」
「お前、喰っちゃ寝してたら、太るぞお」
「なあに言ってんのお。生まれてこの方、肥満なんて言葉とは無縁な美しいこの僕に向かってそういうこと言う訳? 昔っから頭悪いと思ってたけど、やっぱ目もおかしいんじゃないのお。老眼鏡でも買ってくればあ?」
「頭悪くないモンっ。蓮に比べたら百倍いいモンっ」
「何ヤケになってんの。それが莫迦の証拠じゃん。もういいよ、ぼく俄然やる気なくしたしい。食べ物持ってきてくれないんだったら、ぼく力でないから奏一人で片づけてよね」
「まーひどいっ。か弱い奏君にそんなこと言うなんてっ」
 奏は頬に片手をあててからあまりにわざとらしく傷ついた表情をして、泣き真似なんてものをしていた。二人のあまりにのんきな会話に崇子が止める気力もなくして唖然として、もう口をはさむ言葉もなくしていた時だった。
 ――辺りの空気が、変わった。
 大気が閉じこめられた。外界から遮断された。息苦しくなるわけではないけれど、眼に見えてなにかが変わったわけではないけれど、世界が閉じられたのが感覚で分かる。
「結界……っ」
 崇子が上げた声は、語尾が震えていた。
 学校全体に、外から何者も入れないよう、そして中から誰もが出て行けないよう、魔族が結界をはったようだった。崇子が、最初にやろうとしていたこと。だが相手にやられてしまうと、これほど威圧感を感じるものはない。これで、ここから出られなくなってしまった。いよいよ本気であの魔族は、彼女たちを逃がすつもりがないようだ。
「どの範囲だ。分かる?」
「多分、校門から学校の敷地全体だと」
 奏に問われた崇子が即答する。閉じ込められた空気の感覚、感じる外部の遠さ。それをすぐに察知することができるほど、彼女自身並ならない霊力(ちから)を持っている証明だ。奏は少し微笑みながら続ける。
「そいじゃ、さっきので近所の人が警察に通報したとして、警察来ると思う?」
「通報されたのなら彼らも出ないわけにはいかないから、来ることは来るでしょう。でも協会から連絡がいっているはずだから、絶対に手出しはしてきません。かえって邪魔が入らないように見張ってくれる程度だと思います」
「そうか。なら良かった。結界あるんなら、中で何やっても外に迷惑かからないだろうけど、間違いはないにこしたことないしな。どっちにしろ入っては来れんだろうが」
 おどけていて何も考えていないようでもやはり奏は、悠然と構えているのに見合う程度、他の人間を気遣う余裕はあるようだった。蓮はフンと鼻を鳴らしただけだったが。魔族がどうとか言うことでなくて蓮の場合、これで彼の要求していた食料は完全に手に入らなくなってしまったということに怒っているようだ。
「どうしますか」
 あんなものをどうすればいいのか、何も思いつかなくて、むしろ問題を委託する思いで奏に問うが。
「まあ、なんとかなるさ」
「なんとかって……」
「ま、俺らもがんばるし。なんとかなるだろ」
 軽い調子での言葉が返ってきただけだった。能天気といえばその通りで、しかし同時にあまりにもお人よしな言葉だった。こういった事態への対処を仕事にしているのなら、崇子がきっとなんとかできる手段を持っているだろうということなど、普通なら思いつくだろう。当然奏も分かっているはずだ。なのに、何も言わない。
「俺らって言う? ぼく何もしないって言ったじゃん」
「あー、はいはい。がんばります」
 口を挟んだ蓮に対しても、飄々と応えていた。
 あの魔族が一体何者なのか、どうしてここにいるのか、そしてどうして少女を隠れ蓑などにしているのか、そんなことは一切分からなかったが奏は気にしていない。分からないものは分からないんだから仕方ない。とにかく攻撃してくることだし依頼されていることだし、どうやらあれが問題を起こしているもののようだから倒しておこう、という気軽さだった。
「さて蓮の無事も確かめたことだし、どうせあっちから仕掛けてくるだろうから、広い場所に移動しておこうかね。ここだとせっかくのトロフィーとか盾とか壊しちゃうし、こればっかりは修復不可能だからな」
 廊下の壁を壊したこととかガラスを割ったこととかはまるで気にしていない彼だったが、変なところで気を使っていた。
 手をふたたびノブに伸ばし、まわしてドアを開ける。文句たらたらな顔の蓮を最後尾に外に出る。





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