まがことのは




第六章















 階段を駆け下り、三階を通り越して二階にたどり着いたところで、奏は下るのをやめた。さらに降りようと踊場を見たときに、見たくないものを見てしまったからだった。
 まあ、それはそうだよな、と思うのだが。
 踊場に窓は配置されておらず、いっそう沈んだ闇の中で、笑いながら少女がたたずんでいた。先刻となんら変わらない姿で、相変わらず息も乱さずに。そもそも相手は忽然と目の前に現れたのだ。いくらがんばって走って逃げたところで、ポンポンとどこにでも現れることのできる相手から、そう簡単に逃げられるものではないだろう。
 奏としても離脱したのは別に逃げ切ってしまいたいわけではなく、態勢を整える時間が欲しかったのだけれど。あれくらいのものはまったく怖くもないし平気だったが、人を盾にされるとやはり弱かった。特に、女子供などを前に出されると、お手上げだ。しかも状況は奏の不得意な分野で、頼みの綱の崇子があれではまったくもってダメだ。
 しかし相手はやはり、離脱するのを許してくれるつもりはないらしい。さてどうしたものかねえ、と考えながら、彼がめざしているのはやはり校長室だった。とにかく蓮のところに戻るしかない。
 奏はくるりと行き先を変えると、今度は廊下を駆け出す。緊張にか恐怖にか、脚が突っ張ってしまってうまく走れない崇子の腕を引っ張ってなんとか前へ進んでいく。
 校舎は「ロ」の字型をしているが、それは厳密に言うならば「生徒が授業で使用する教室のある場所」のことで、職員室や校長室、事務室などは、二階建ての建物が付加的につけられていた。さらにそこから曲がった先に体育館があるので、デジタル数字の「9」のような形だ。奏はその二階建ての建物の方に走りこんだが。
「奏さん……こっちは。だめですよ……!」
 息を切らした口から、崇子がなんとか声を出す。
 声もないくらい怯えていた彼女が、それでも言葉を出して奏に注意せざるを得ないことがあった。今までの恐怖に勝る恐れを思い描いたから。彼女は、奏よりもこの学校の見取り図を正しく頭に入れていたようだった。たどり着いた先は行き止まりで、下に下りるための階段がなかった。――追い詰められた。
「なんだ。やれやれ、行き止まりなのか」
 絶望を顔ににじませる崇子に反して、のんきにため息をついた奏がつぶやく。走ってきたのに息を切らした様子もなく、ほのかな明かりの差し込む窓と、反対側の暗い教室を見比べた。プレートには「図書室」とある。この下に、職員室と玄関、そして校長室があった。
「あっちから行ったほうが早いよなあ。んー、でも蓮が入れてくれるとは思えないし…。真下に行くのも、ちょっと骨だしなあ」
 ぶつぶつとつぶやきながら右の窓を見て、左の扉を見て、奏は空いている手でそこにある図書室の扉に手をかけた。当然――開かない。ふむ、とつぶやくと、彼はすぐに扉をあきらめた。厳密には扉を、ではなく、扉を手で開けるのを。
「いよっとぉ」
 気合のこもらない掛け声とともに、脚を振り上げる。扉の真ん中に踵が命中し、扉はいとも簡単に、教室の中へと倒れこんだ。その光景を唖然としたまま見ていた崇子の手を再度引こうとして、奏は彼女の反応が鈍いことに気がついて振り返る。
「もうちょっとだから、がんばれ」
「何が、もうちょっとなんですか……」
 別に逃げられるわけでないのに、そして崇子は逃げてならない立場なのに。思いつめた様子の崇子に対して、奏は頓着せずに軽々と彼女を抱えあげた。そのまま部屋の中へ駆け込む。
 教室の中は、部屋の隅や机の影が、窓から入る仄かな明かりを受けて、濃い闇を作り出している。その小さな明かりに誘われるように奏は窓へ直進していた。
「まさか……!」
 無意識に奏にしがみつきながら崇子が高い声を上げる。
「ここ、二階ですよ」
「それくらい、たいしたもんじゃないだろ」
 確かに、不可能な距離ではない。でも、無傷ですむ距離でもない――
「でも」
 反論を待たず奏は再び脚を振り上げ、ちょうど二枚の窓の真ん中、鍵がある辺りを蹴る――というよりは、勢いをつけて、踵で力いっぱい押した。普通にガラスを割るなんてものじゃない。奏の踵は窓を二枚、闇の向こうへ吹き飛ばした。どれほどの勢いだったのか、その際窓枠をゆがめ、ついでのように桟が埋まっていた壁に亀裂が走った。わざわざ窓を選んで、外へ通じる穴を開けようとした、その意味がまるでない。
 このあまりにも殻破りな味方に、ただただ瞠目するばかりだった崇子は、外へ向けて開いた穴のふちへ奏が軽々と足をかけたのに気がついて、今度はきつく目を閉じる。身を硬くして、ひっ、と小さく音を立てて息を吸い込んで、それだけが精一杯だった。
 地面に叩きつけられる衝撃は、一体どれほどのものなのだろう。投身自殺したという、この学校の生徒を思い出し、たかが二階から降りただけなのに、血の海の中に倒れる自分を想像した頃、体が解放されたような頼りのなさのあとで、ほんの少し体に重みが――せいぜい、ふいに転んでしまった時程度の衝撃が、奏の体が触れている部分から伝わってきた。
「お嬢さん、ほい、歩けるか」
 のんきな声が上から降ってきて目を開けると、正面玄関のまん前の地面に着地した衝撃を全部受けたはずの奏は、変わらずけろりとしていた。彼はガラスの破片の上に平気な顔で立ってる。そういえば、この人は異常なほどに頑丈だったのだと思い至って、崇子は一気に肩から力が抜けてしまった。
 地面に降ろされた彼女が何も言えずにいると、奏はちりちりと音を立ててガラスを砕きながら正面玄関の方へ走っていき、崇子が声をかけるまもなく、正面玄関の摺りガラスでできた戸を蹴飛ばした。とめられていた蝶番がはじけとび、吹き飛んだガラスの戸は石でできた玄関の石床にぶつかると、同時に盛大な音を響かせて枠だけを残し、いくつかのかけらになってしまった。彼はまたその上を平気な顔で歩いていく。
 もう色々な感情で疲れきったのもあって、脱力しきっていた崇子は置いていかれそうになって慌てて奏の後を追おうと小走りに駆けだしたが、その時またある事に気がついて、余計に体の力が抜けてしまった。
奏の緊張感のない声も、事の重大さが分かっていないような態度にもあきれていたのだが、駆け出したついでにその時ようやくチャリと小さな金属音に気がついたからだった。今更ながらに思い出し、ポケットに手を入れて確かめてしまった。手に触れる冷たい金属の束。校内の見回りをしていたのだから、当然校内の鍵を持っていたのに。動転しすぎていて気がつかなかった。少なくとも、図書室のドアも玄関の戸も壊す必要はなかったのに……。
 もう本当に今更だったけれど――そもそも、もしあのときに思い出したからと言って、崇子に奏を止める事ができたか、その間があったかどうかも問題だったけれど。多分無理だったろうな、と彼女は自分で断言してしまって、割れたガラスの破片の上を歩く頃には、もうあきらめも入っていた。そんな細かなことで悩んでいる場合ではないし。
 彼らはそうしてようやく、もとの校長室へと戻ってきたのだった。





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