まがことのは




第七章









「蓮ちゃん」
 ずっと成り行きを見ていた奏が静かに声を上げた。
 その後ろで、蓮が不快そうに眉を上げる。これから、このお人よしが口にしそうなことなど、予想するまでもなく彼には確実に分かる。不快極まりなく、蓮が奏に対して、もっとも許しがたいと思っていることだ。あまりにも彼らしくて嫌になることだ。
 彼らの目の前で、戻ってきた少女は倒れた相手が意識を失っているのに気がつき、背負い上げようとしていた。
「あの子達逃がすよ。お嬢さんと一緒に、行って助けてあげてくれないか」
 ――ほぅら、やっぱり。
 また、このバカは、こりもせずにこういうことを言う。
「念のために、とりあえず、お尋ねしてあげるけどね。奏はどうするのさ」
 尊大に、不機嫌を隠しもせず蓮は応えた。問いかけるというよりも、予想通りの答えを返してきたら承知しない、という不穏さをにじませた声。それに対して奏も、蓮の反応などはじめから分かっている顔でちらりと振り返って、笑った。
「俺はここに残って、逃げられるように少しでも時間稼ぎしておくよ」
「あのねえっ!」
「蓮ちゃん。時間がないんだ」
「悪い癖だ! いつもいつも言ってるけど、悪い癖だ。どうしていっつもそうなんだ。そこの小娘と違ってぼくらは組織の権威と責任を背負ってるわけでもないし、生活のための小銭稼ぎなんだから。あれがやばいんだったら、こんな馬鹿げたものにかかずらかってなくたって、何とか結界に穴でもこじ開けて逃げればいいじゃない! 依頼なんて他にもいくらだってある。そこまでするほどのことじゃないだろっ?」
 蓮は崇子をはっきりと指差して怒鳴る。びくりとして、動けずにいた崇子が肩を震わせた。――蓮の言うとおり、彼女の方こそ逃げ出せない立場なのだが。
「蓮ちゃん、頼むから」
「じゃあ、ぼくも残る」
「駄目だよ、逃がした先であの子ら守ってあげる人がいなきゃ」
「嫌だ! ぼくを逃がそうなんて考えて言ってるんだったら、絶対許さない!」
「うん、違うよ。本当は俺だってひとりで残るより蓮ちゃんにいてほしいさ」
 心細いしね? 奏はいつもの笑顔で嘘を吐いた。彼が口にした後半は本音ではあっても、蓮の問いかけに対しては嘘だった。それは蓮にも分かっている。何もかも分かっているから、余計に腹がたって仕方がないのだ。
 その間にも廊下の向こうでは、ぐったりした友人を背負い上げた少女が、逃げていこうとしている。懸命に逃げるそれは、自分の安全のためというよりも、突然気を失った友人を安全なところに連れて行くためのように思えた。守るためだった。悠然と追い詰めるものへの恐れを忘れるほど、その思いは強いように見えた。そして、愉悦を顔に浮かべながら、ゆっくりと魔族が一歩踏み出す。追い詰めて楽しむように。
「蓮」
 前を向いたまま後ろの壁を指差して、奏が強く言う。
「言うこと聞きなさい」
 今までの口調とは違う。なだめるようなものはない。決して押し付けない、けれど強さのこめられた声。
 蓮はその声に、口を閉じた。声を荒げられたわけでもないのに、逆らえない。反論しようとした言葉を飲み込む。形にしようとした意志を止められて、瞳にだけ凄まじく、自分の意を汲まない相手への抑えきれない怒りを見せて。唐突にくるりと踵を返した。
 口を挟めず戸惑っている崇子になど見向きもせず、彼女の横を通り抜けて、廊下の突き当りへとずんずん歩いていく。壁に向かって立つと、彼は怒りに任せたようにして手を振り上げた。鉄筋コンクリートで作られた校舎の壁へ、華奢な拳を叩きつける。
 崇子には、あんな強大なものを相手にひとりで居残ると言う奏同様、蓮まで気が触れたようにしか思えなかった。手の骨が砕ける、とまでは行かないまでも、拳が壊れることは考えるまでもなく分かりそうなものなのに。
 けれど轟音をあげて崩れたのは、堅く冷たくそびえる壁の方だった。大きな音に、さすがに魔族も足を止めて彼らを振り返る。なにやら楽しげだった顔が、いぶかしげに彼らを見る。その間にも蓮は残った壁を蹴りつけていた。人ひとりは通れそうなほどの穴が開く頃には、廊下の向こうでは、少女二人と猫は姿を消している。
 蓮は穴の縁に手をかけると、きつい声で言った。
「終わったら、ケーキ食べ放題」
「……了解」
 奏が苦笑する、その顔をもう見ようとせずに、蓮は穴を抜けて駆けだした。彼らのやり取りを困惑して見ていた崇子に、奏は魔族の方を見たままで穏やかに言う。
「お嬢さんも、行って」
 なんと言ったら良いものか。ともに魔族に遭遇して取り乱しているところを見られたからだろうか、何故だか奏には、自分自身の姑息な思考などばれていそうで、適当な言葉すらかけることが出来なかった。崇子は奏の顔を見る事ができず、自己嫌悪に陥りながらも蓮の後を追って走り出す。



 魔族は、逃げてしまった少女たちを追おうとはせず、蓮たちを気にかける様子もなく、ひとりその場にとどまった奏へ向き直って立ち尽くしていた。奏なら片手でその首などへし折ってしまえそうな、か弱い少女の姿のままで。
「随分と素直に足を止めていてくれるんだな。俺としては助かるけど」
 たった一人なのにも関わらず、奏は変わらず呑気な声で言った。
「わたしにとってみれば、お前たちのような人間など、欠片ほども用心すべき相手ではないし、取り逃がすようなものではないからねえ。少しばかり人から外れた力があろうとも、わたしに抗えるものか。ただ、お前の場合は少し気になってのう……」
「おや、やっぱ気づかれたかな」
「一応、聞いてやろう。今のお前の前にいるのは、ただの人間だ。お前が懸命にわたしを害そうとしたところで、傷がつくのはこの娘に過ぎぬ。わたしを廃する良い方法でもあるのかい?」
 さっきは逃げ出したくせに、と揶揄するようなこと含んだ言葉だった。馬鹿にされているのなど初めから分かっているが、奏はまったく取り合わずに言った。
 友人を背負って逃げようとしていた少女。懸命に何かをかばおうとする、力ない人の姿。あの姿には、覚えがある。先刻見せられた幻のせいで、余計に鮮明に思い出させられる。――逃がしてやりたいと、思った。それだけだ。
「俺も一応もう一回言っておくよ。俺は大抵の場合、女子供には優しいんだ」
 そんなことを、まるで冗談のように言う。暗に、何の手段も持ち合わせていないのだと。
「ならばどうやってわたしを殺す。たった一人で立ち向かえる相手だとでも侮ったか」
 こだわる相手に、奏は少しだけ肩を持ち上げて笑った。皮肉でもなく、悲観的でもなく、いつも通りに。静かというよりは、穏やかに。こんな場面では、愚かとしか言い様のない表情で。
「別に、何も」
「それで、何をしに、わざわざここに残った?」
「だから足止めだよ。どうにかする方法ってのはあるんだろうけど、今のとこ俺には分からない。だから今は何もしないよ。逃げてったあの子らが何かいい考え出してくれればいいなあって思うくらいで」
「足止めだとて、抗える力があると、多少なり自信がなければできまい」
「そんなもの、必要ないさ」
 誇り高き魔族が、苛立ってきているのが分かる。彼女は、多少なり奏の正体に興味を持って――都雅に対してのものとはまったく違い、彼女が魔族だからこそ当然の興味ではあったが、そして足を止め、その事を利用したように言われるのは、違う意味で侮られているようにも思うだろう。奏だって分かってはいたが、相変わらずに笑っていた。
「そうやって君が俺の話に耳を傾けて、一秒でも、二秒でもとどまっていることが、十分に足止めになるんだよ。俺たちみたいに弱い存在には、たったそれだけの時間ですら、生きながらえる種になることもある」
 人間は弱く愚かだ。けれど生存本能にかけては、他の種を寄せつけない狡猾さを持っている。圧倒的に不利な場合でも、ほんの数秒さえあれば、自分の立場を回復させるための方法を考えることができる。生き延びるために与えられたわずかな隙ですら見逃さず、生かすことができる。
 奏の穏やかで諭すような口調に、相手はとうとう完全に気分を害したようだった。
 少女は、破壊された壁の穴からもれ入る月明かりに照らされて、ただ立っている。指一本動かさなかった。そして唐突に空気が動いた。
 目に見えない力に風が震えた。突然現れた強大なものに追いやられた空気が、その凶悪さに震えるかのように振動して、一瞬視界がぶれた。
 それは、初めの出会い頭の時の非ではなかった。そんなに生易しいものではない。情け容赦のない相手の力に、奏は考えるよりも前に無意識の仕草で、身を守るように手を出す。
 投げつけられた力の塊が右の指先に触れた途端、小気味良い音がして、指がそれぞれあらぬ方を向いた。手首がまくれるように手が跳ね上がり、まるで煎餅でも割るかのように簡単にばきばきと腕の骨を折りながら迫ってくる。肩の骨を砕かれ、勢いに耐え切れず足が地面を離れた。蓮が開けた壁の穴の、ちょうど横に背中から激突したところで、放たれた力が霧散する。
 せっかく残っていた壁の残骸に亀裂が走った。そのまま壁にもたれるようにして、腕をだらりとぶら下げたまま、顔を上げる。すると目前に少女が立っていて、奏は素直に、足止めもここまでかと悟っていた。
「即死はしない程度にしてやろう。苦しみながら死んでゆけ」
 無慈悲に見下ろす少女の腕が持ち上げられて、掌が彼の方へ向く。夜の闇を払って、空間に光が生まれる。奏は静かな眼差しで、微笑すら浮かべながらその光景を眺めていた。
 片手はぼろ屑のようになってしまって完全に動かせないし、足も動かない。痛みが辛うじて彼を現実につなぎ止めていた。逃げる事もできないほどだったが、はじめから逃げるつもりはなかったから、さしても気に留める事ではないし。
 分かっていたことだ。
 もう自分のいる場所が見えない。光がまばゆくて目の前から、少女の姿も、長く暗い廊下も、月明かりも、消えていた。
 ただ、光が。――――光が。






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