まがことのは




第八章








 両開きの家の戸の、大きなノブを、力一杯引く。子どもから見てそびえ立つようなドアはとても重たく、帰ってくるたびに、自分が中へ入るのを拒絶されているような気にさせられた。けれど今日はとにかく急いでいたから、いつもは扉の前で無意識に立ち止まってしまうのに、そんなこと忘れていた。自分が入れるだけの隙間を作って、家の中へ滑り込む。広い玄関に上がると、閉まる戸が大きな音をたてないように背中で支えた。
「ただいまあ」
 かちゃり、と静かな音とともに戸が閉まったのを確認してから、中へ向かって遠慮がちに声を上げた。うかがうように語尾が上がる。静かで広い空間に響いた幼い声に、声は返ってこない。分かっていたことだが、少女は悲しそうに眉を寄せた。
 でも、今日は大丈夫だもん。そう言い聞かせて、ぴかぴかと光る白い大理石の上に靴を脱ぎ、怒られないように丁寧に並べる。
 変わらないな、とふと思った。誰かが来るとか、何か物を買ったから内装を変えるとか、そう言う話は聞いてなかったから、朝家を出たときと少しも変わっているはずがないのは、当たり前なのに。
 けれどそう思ったことをすぐに忘れて、少女はワックスで磨かれたフローリングの上を、滑らないよう気をつけながら、早歩きで進んでいく。走って、音をたてて、怒られないように。
 目的の部屋の前にたどり着くと、分厚い木の扉を、こんこん、とノックして、しばらく待った。やはり返答はない。再び、暗い気持ちが、じわじわと這うように広がる。いないのかな、とも思ったけれど、そんなわけがないのを少女は知っていた。父親は忙しい人だったけれど、母親は父の仕事に関与していないし、大抵家にいた。それも二年前までは、お花だ舞踊だと、習い事に忙しく――まるで家にいるのが嫌なのだと言うように、飛び回っていたけれども。まるで、家にいる誰かを見るのが、嫌なのだと……。
 でも、きっと今日は……。
「お母さん」
 そっと、音をたてないようにドアを開けて、細い隙間から小さな顔を覗かせた。
 夕刻とも言えない、まだ陽が中天近くにとどまっている眩しい光りを、レースのカーテンでさえぎった部屋は、ぼんやりとしている。
 椅子に座って、穏やかな眼差しをしてうつむいている人がいた。長い髪を丁寧にとかして、育児の邪魔にならないよう、後ろで一つに束ねている。美人で頭のいい、物静かな人だと評判の母親は、子どもには大きすぎる、豪華すぎるベッドに眠る弟の顔をじっと見ていた。戸を開けた少女に、見向きもせず。気づいているはずなのに。
「あのね、今日テストがあったの。それでね」
 どうしたの、と先を促すはずの声がない。聞こえているはずなのに、表情に変化もない。微笑みも、苛立ちも。
 悲しくて、声が震えた。あきらめがじわじわと這い上がってくるのを、もう止められなかった。
「……あのね、百点とったの。クラスで、あたしだけだったの。先生にほめられたの」
 以前、クラスの子どもが別のテストで百点をとったとき、嬉しそうに言っていた。お母さんにほめてもらえる、と。だから、そういうものだと知って、それじゃあ、あたしもほめてもらえるかも知れない。そう思った。
 すぐに見せようと思って、ポケットにしまっていた紙を、取り出そうか迷った。おおきく花丸のついた、答案用紙。
 結局切り札を見せることにして、ドアノブを握ったままではどうしようもないことに気がつき、ドアを引いて隙間を広げる。玄関を通り抜けたときのように、そっと体を部屋の中に忍ばせようとした。
「寄らないで化け物」
 彼女の行動に、無感動な声が返ってきた。弟の顔を見たまま目も向けずに、静かな声音で、淡々と。
 肩をふるわせて、それから彼女は部屋に入りかけた足を引いた。ドアに足をぶつけた音がしても気にならなかった。痛みなど更に気がつかなかった。
「あの……お母さん」
 遠慮がちに少女が呼ぶと、母親は眉をひそめて彼女を見た。信じられない言葉を聞いた、というように。
「なんなの」
 呼びかけられての返答ではなかった。
 うるさいわね、一体どこの家の子が入り込んできてわめくのかしら、とでも言うような、迷惑そうな目をしていた。一体親はどういう教育をしているの、とでも言い出しそうな。お前とわたしは、全く関係がないのよ、と突き放して。
 ――そうやって蝕まれていく。そうやって人は、緩やかに、死んでいく。
 追いつめられて追いつめられて。刃を持ってされるよりも、首を絞められるよりも、緩慢に、淵へ淵へと追いやられていく。
 追いやるその罪深さを、理解もされないまま。当然とばかりに。
 朽ちていくのが、当然とばかりに。


 生きていることに希望が見えない。そんなものを見たことがない。
 ただ、絶望だけがこの心にいつもある。
 ――都雅ちゃんは強いのね。
 つい先刻言われた言葉が心をよぎる。
 まったく、無責任なことを言ってくれる。
 ――あたしは強くなんてない。
 いつも足下は揺らいでいる。しっかり踏みしめようと、立ち続けようとする足下が、目眩をおこしているようにゆらゆらと頼りない。
 死んでしまえば楽になれるのに、明日のことなど考えられなくても困ることなどないのに。
 それでも生きているのは、どうしてだろう。





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