まがことのは




第九章








 日に照らされた大地は、足の下で暖かな熱を持っていた。夕刻の明かりは目の前を赤く照らし、影を濃く映し出す。陰影が深く、色彩の変わった世界は不思議な別世界のようだった。少年は赤く照らし出されながら小さな村を横断して、細い畦道(あぜみち)を危なげなく駆け抜ける。
 刈り入れが終わった田は少し寂しげに、乾いた大地をさらしていた。田植えと刈り入れは、村が総出で行う大事業だ。いがみ合っている相手も互いに協力し、豊作を祈って小さな芽を植え付け、そして大地に感謝しながら、頭を垂れる稲穂を刈り取る。
 今年も決して豊作とは言えなかったが、飢饉にはならなかった。刈り入れ前にはそこに黄金の海が広がっていた。世間が荒れて、人々が飢え苦しんで入る中で、これだけのものを収穫できたことは本当に幸運だと、素直に村の誰もが思う。彼らの、なけなしの努力の成果だった。
 まだ忙しく落穂を拾う人々の中、目的の姿を見つけて、少年は大きく手を振った。
「父さん、そろそろ日が落ちるから帰って飯にしないかって、母さんが呼んでる」
 明るい少年の声に、腰をかがめていたうちの一人が顔を上げた。ついでその場にいた人々が次々と顔を上げ、時間を計るように夕日を見た。一生懸命に仕事をしていて、空の色彩が変わりつつあるのにも気がつかなかったようだ。
「そうだな、もうこんな時間か。すぐに行くって伝えて……いや、もうちょっとだから、お前も手伝え」
 父親に手招きされて、少年は穏やかな顔をにこりと笑ませて頷く。
「うん」
 応えると同時に駆けだして、田圃の乾いた土の上へ軽く飛び降りる。手近なところに落ちていた穂を、身をかがめて拾い出した。
 生きていく糧を得るための労働はつらくなどなく、自分の手で収穫を実感できることは彼にとっても楽しいことだった。これで来年もつつがなく過ごせる。問題さえ起こらなければ、戦火が拡大する事などなければ。
 芽を一つ一つ地に植え込み、そして稲穂の一つ一つを手にとって刈り取って、取り落とした最後の一つまで恩恵を余すことなく拾い集める、その動作のすべてが、まるで祈りのようだと思う。食物を作りその収穫を手にすることは、次の年の生活を保障することにつながる。それは、続く年への無事を祈る仕草のようだと、彼は静かに思っている。
 父の言う通り、作業は手早く終わりそうだった。もともと耕地はさほども広くは無いし、休まず働き続けてきたおかげで、あとは彼らの周辺を見回す程度になっていた。
 ――邪魔さえ入らなければ。
 悲鳴が聞こえた。途端に、田に出ていた人々が皆、申し合わせたかのような動きで手を止め、聞こえた方向を計る。そして、距離を。まるで状況をみようとするかのように。そんな彼らの耳に、聞き知った村人の声で「賊だ!」という叫び声が飛び込んできた。
 それを悟った後の彼らの動きは俊敏だった。手にした物を放り出し、もしくは逆に手にした鎌などの刃物を握り締め、駆けだして行く。
「お前は家に帰って、母さんと一緒にいろ!」
「でも、父さん!」
 父は少年の声を後ろに残して駆け出すと、畦道に放り出してあった鎌を手にとった。
「危ないと思ったら、村を捨てて逃げろ。いいな」
 念を押すように再度言い、一足で畦道に駆け上がると、同じように粗末な武器を手にした他の男たちと同じように、村の入り口の方へと走っていく。少年は困惑して立ち尽くしたまま後姿を見送ったが、ふと正気に返って慌てて走り出した。父とは違う方向へ。
 呆けている場合ではな。困惑している余裕などないのだ。抵抗するか、逃げるか。成功して生き延びるか、賊の手にかかって死ぬかだ。
 地面を蹴りつけ、家に駆け戻る。戸に垂れ下る簾を乱暴に開けると、すぐそこに母が立っていた。土間に立ち、食事の用意をしていたらしい母は、外の喧騒に訳も分からず困惑していたようだった。入ってきた影を見て一瞬びくりと肩を震わせ、それから相手を認めて息を吐く。
「母さん、逃げよう」
 少年は戸惑っている母の前を通り過ぎ、先刻まで母が野菜を刻んでいたらしい包丁を手にとる。それからすぐ引き返して、母の腕を掴んだ。
「でも、父さんが」
 突発事態に困惑気味の母親は、強く引く少年の手に、少し逆らう様子を見せた。家にいた彼女は外の様子も見ていないし、常に無い少年の様子に驚いている。――考えたくないのだ、日々恐れ続けてきたことが目の前に起きて。
 少年は母親を振り返ると、落ち着けるように丁寧に言った。
「賊が現れたんだ。皆が総出で抵抗してる。大丈夫、多分抑えられるよ。だけど万が一何かあったら困るから、ちょっと村から離れていよう?」
 彼の言葉で、母もようやく頷く。すぐに母の手を引いて外に出ようとした。駆けだした彼はけれども、簾を払っただけで一歩も外に出ることなく後退さってしまった。
 目の前に、刀を持った男たちがいる。逃げ出すのが少し遅かったようだった。喧騒は目前にまで拡大していた。――父さんは? 刹那脳裏に浮かんだが、それどころではなかった。目の前の男たちは今まさに、少年の家に入ろうとしていた。
 後退した少年に、後から続いていた母がぶつかる。彼女も目の前の存在に気がついて息を飲んだ。彼女の姿を見た男たちの間で、無言の会話が視線で交わされる。下卑た眼差しの、淀んだ視線が母親へ向かうのをみて、本能的に彼女は絶望と拒絶に全身の肌を粟立たせ、少年は全身の血が逆流するような感覚を味わった。滅多にそんなものにとらわれることなど無い彼は、激流のような感覚に翻弄されて、気がつくと相手に向かって突進していた。
 敵のうちひとりに包丁を突き出したが、それは横からの手に叩き落とされた。それでも勢いを殺さず突進する少年の渾身の力を込めた体当たりは、敵のひとりに攻撃を加え、敵はよろめいたが、それ以上にはなり得なかった。母も逃げようとはしたが如何せん相手が多すぎた。敵は家の中に侵入して来て、すぐに母はその手に捕らえられたし、少年自身は苛立ち混じりの舌うちとともに頭を刀の柄で殴りつけられ、容赦ない力で払いのけられた。
 大人の腕の一振りは、細身の少年を簡単に吹き飛ばし、彼は地面へ投げ出された。肘やら膝やらをすりむいたはずだったが、そんなことは頭に浮かばない。痛みもなかった。殴られた頭からどくどくと流れる血があるはずだったが、それは痛みよりも奇妙な眩暈を引き起こした。
「やめて、子供は助けて!」
 母親が叫ぶ声が、遠くの方で響いているように聞こえる。
 体中が熱く、目の前すら、すでに日が落ちて藍に染まった世界が再び赤い陰影に包まれたかのように赫く、瞳に流れる血管の血の奔流を透かし見ているかのように、赤く。口の中を切ったらしく、血の味が喉の奥に広がるのがさらに感情を煽る。
 それは穏やかな彼が、滅多に感じることの無い感情だった。その、怒りは。自分がどうかしてしまったのかと思うくらい、一度堰を切ったものは抑えようがないほどに、激しかった。その感情に免疫のない彼が、押し流されそうなほどに。殺意が体を突き動かす。
 手をついて、肘をついて身を起こす。顔をあげて敵を睨みつける。目に入るのは、彼を殴って赤い血のついた刀の柄。身をよじり逃げようとする母と、取り押さえようとする男たち。その手に持った刀についた、血の色。
 気がつくと彼は立ち上がっていた。何を思うよりも前に手を振り上げていた。鋭く堅い爪を武器のように振り上げ、相手の頭をめがけて振り下ろしていた。――彼は何故か、それが鋭く強く堅く、人の肌など簡単に傷つけられることを知っていた。その凶器は、狙った通りに敵の頭を傷つけ、それだけでなく頭蓋を砕き、血をあふれさせていた。
 何事かと少年を見た男たちが驚愕のあまりに凍りつく。中には刀を持って襲い掛かってくるものもいたが、何ほどのものでもない。刃は彼を傷つける前に自ら折れ、砕ける。
 気がつくと死体と血の中に、彼自身血を浴びて赤く染まって立っていた。奇妙な躍動感に突き動かされるようにして、敵を一掃し尽くしていたようだった。
 動きまわったはずなのに、呼吸は少しも乱れていない。疲れてもいない。身は妙に軽かった。ただ、頭の奥で何かが大きな音で脈打っているのだけを感じる。妙に気持ちがざわついている。
 けれども、突然自分がしたことへの違和感も疑問も、とりあえず彼の頭には浮いてこなかった。そんな問題は二の次だ。
「母さん、怪我してない?」
 とにかく母親の無事を確かめようと、震えている母親を落ち着けるつもりでそっと声をかける。顔に淡く笑みをはきながら。
 それなのに、耳に飛び込んできたのは恐怖の声だった。
「いやあっ。来ないで、化け物!」
 母親が、彼を見て悲鳴を上げた。乱暴に腕をつかまれ、引きずられたときよりも格段に恐怖の増した声で叫びながら、外へ飛び出した。一歩踏み出した、その向こうにちょうど、家の様子を見に戻ってきたらしい父がいて、驚いた顔で母を見る。そして少年を見る。
 父はその瞬間には表情を染め替えていた。単純な驚きは驚愕に、そしてすぐに嫌悪と恐怖に。ほとんど無意識のように、手にしていた鎌を振り上げた。どこの誰ともつかない賊の血のついた鎌を。彼が村を、家族を守るために傷つけた相手と同じように、排除するために。
 明確に覚えているのは、その瞬間までだった。







「禍言の葉」トップへ