まがことのは




第九章










 奏が数えで十六歳。満年齢で言えば十五歳の時だった。決して平和な時代ではなかった。いざこざのようなものであった権力の奪い合いが戦へと発展し、都が燃え、多くの人が命を落とした。それを生き延びた人々も、家を失い、路頭に迷った。寒さをしのぐための場所も、日々の糧を得る手段もなくし、日々衰えて息絶えていくしかなかった。
 その中でも俺は幸せだった。家があり、家族があり、村は戦火を浴びなかった。時代は荒れていても、平和だった。自分たちの小さな世界で、小さな平和を築いていた。生活が苦しくても、毎日一生懸命に働いて、生きていたのに。
 日常という庭を荒らした闖入者が、正確にはなんだったか、覚えていない。もっと正しく言えば、知らないのだ。荒れた時代だったから、各地から無理矢理徴収されて行き場を失った兵達だというのが一番強い線だったが、そうとも限らない。ただの盗賊だったような気もする。あの荒れた時代にはそんな生き方しかできない人間も多くいて、それは確実に戦のせいで数を増やしていた。やはり彼らの小さな村ですら、戦禍そのものを免れることはできなかったということなのだろうか。
 結局彼らがどういう人間だったか、その時は知ろうとも思わなかった。そんな余裕などなかったし、必要もなかった。同時に、知る由もなかった。
 あまりに昔のことで、まあこの際どうでもいいや、といつも思うのだが。こうやって思い出すことが出来ると言うことは、やはり忘れることなど出来ない証拠なのかもしれない。刻銘に覚えているのは、とにかくその日に誰もが死んだという事だった。
 すべての始まり。けれどすべてが終わった日。
 気がつくと彼は立ち尽くしていた。途方に暮れて闇の中に、騒動が嘘のように静まり返った村の中に、ただ一人。
 完全に夜が更けて、頭上で月が地面を照らしている。ほんの数刻前まで、収穫の喜びに震えていた村が、今は仄かな明かりに包まれて、沈んでいる。人々は明日のために眠っているわけでもなく、ただ冷たい躯(むくろ)をさらして、二度と覚めることのない眠りに落ちている。その中で彼は、ただ一人で立ち尽くしている。
 倒れる人々の中、見慣れた人影を見つけて。ぞく、と心臓が妙な響きをたてた、そのままで、動くことができなくなってしまっていた。
 目の前の物が何だか、理解したくなくて。
 太陽の恵みをなくして冴えた地面に、こわばった体を横たえている物がある。命のぬくもりをなくして冷えた血を流して、その中に月を映して。その中に、変わり果てた奏自身の姿を映して。村中に転がる他の人々と同じように、死体をさらして倒れている。
 目をそらす事もできず、脳裏にこびりついて離れない光景を空虚な瞳で見ながら、空回る頭で彼は考える。
 血を流して横たわる両親の、その傷跡。
 あれは――?
「あれは、お前が殺したのだろう」
 彼が逃げようとする結論を、容赦なく指摘する声があった。自問自答で、自分自身を苛む声ではない。憐れむような、だからこそ相手を追い詰める優越に浸っているような、女の声が告げる。けれどもそれは、長い間自問し続けてきたことだった。
 俺は、親を殺してしまったのだろうか。あれは刀傷だろうか。無頼者たちの持っていた刀で斬られた傷だろうか。それとも、何か別の傷だろうか。――奏のこの爪で、牙で引き裂かれた傷だろうか。この手の血は、全身にかぶった返り血は、一体誰のものだというのだろう。守りたかったのに、守ろうと思って力を願ったのに、こんな、こんなことが、まさか。
 殺されてしまったのだろうか。それともこの手で殺してしまったのだろうか。
 ――――分からない。分からない。
 無理矢理揺さぶられるように、心は逡巡を繰り返す。罪悪感をあおる。動揺は、人ですらなくなってしまった自分の、罪深い存在を否定し始める。
 だって、悲しかった。
「だってあれは、お前を否定した」
 そう、俺を否定した。守ろうと思ったのに、まるで彼らを害するものであるかのように殺そうとした。
「悲しいだろう? 泣きたいだろう? 恨んでいるだろう? 殺したいと、思っただろう」
 声は絶え間なく囁きかけてくる。確かに恨んだかもしれない。あの時もし両親が悲鳴を上げず、手を差し伸べてくれたなら。村はそこまで、惨劇を極めた光景にはならなかったかもしれない。困惑は、勝手に人へ原因を押し付け始める。
 だって、逃げないで欲しかった。
「確かに、悲しい」
 恐怖を映す瞳が、悲しかった。拒絶する言葉が、悲しかった。今でも悲しい。思い出せばまた途方に暮れてしまいそうになるくらいだけれども。惑わす声に対して、奏は独りつぶやく。
「俺だって泣きたいけどさ」
 声は低く遠く、静かに穏やかに、暗闇に落ち込んで行く。声を落とした彼自身の姿形は、異形になった頃とまったく変わらなかったが、静けさの戻った瞳の強さが、生きてきた年月を示していた。
「俺はもう、こんなことでよろめくほど、若くないんだ」
 時代は移り変わり、多くの生き死にを、諍いを見てきた。それくらい長く生きてきた。そしてその間、昔を思い出して何度も考えた。自分の手は、親を引き裂いただろうか。牙にかけただろうか。でも、答えは出ない。
 もし日常が続いていたら。あれが起きなかったら、何かが違ったら。そうしたら誰も死ななかった。自分は人のままでいられた。人として生きて、死ねたかもしれない。きっかけさえなければ、答えのない問いに苦しみ続けることもなく、これといった波乱もなく生きていくことが出来ただろう。逡巡を繰り返す。後悔を繰り返す。責任の在りかを虚しく探し続ける。それはもう、人とは比べものにならないくらい、何度もしたことだった。
 だけど考えたって仕方ない。だって、事は起きてしまったのだから。そして俺は幼かったのだから。小さな日常さえ守る事ができないくらい、無力だった。力を願ってしまったのは、当然だったと思う。そして運がいいのか悪かったのか、きっと遠い遠い祖先に、鬼の血族がいたのだろう。先祖帰りだったのだろう、と言われたことがある。
 力を願って、手に入れることができる位置にいた。意図したことじゃなかった。たまたまその要素が自分の中にあっただけだ。
「後悔したって、しかたないじゃないか。俺にはどうすることもできなかったんだから」
 そして両親の行動も、仕方ないと思う。俺みたいな異形が目の前にいたら、誰だって恐いと思うんだ。泣いて誰かに助けを請うと思うんだ。大切に育てた子供が、そんなものになってしまったら、絶望すると思うんだ。
 俺は、自分に出来ることを望んだ。出来ることをしたんだ。たくさん悩んで、何度も考えた。それで、もういいじゃないか。
「やなことするなあ。こういうのは、なんつーか、やっちゃいけないことだぞ」
 一度目を閉じて、ごんごん、と拳で軽く頭を叩いてみる。悩む以外にすることがある。俺にはもう、立ち止まる以外にすることがあるんだから。もう今更、どう細工をしたって、揺るがない。今更こうして見せつけられても、もう効かない。昔のことだ、これは、もう起きてしまったことだ、変えられないことだ。言い聞かせながら、目を開く。
 暗くただ長い廊下が見えて、ああ現実だ、と悟る。
「こういう手だったんだな」
 やっと謎がとけた。それがお前の手か。
 結局、はじめに死んでしまった子も、自殺を図った子も。その後死んでしまった人たちも、きっとこの手で誘われてしまったのだろう。
 絶対の命令を下された。もしくは自分の心の暗闇を、無理矢理広げられた。普段どんなに強くて、動じないように見える人にだって、痛みに感じていることはある。隠しているだけで心に抱えた傷は誰だって持っている。それをえぐられた。死んでしまいたいと思うくらい。
「若い子にはつらいかも知れないなあ、これは」
 あの魔道士の子は大丈夫だろうか。
 まず、突然倒れた少女のことを思い出し、すぐに身内のことを思い浮かべた。
 小さく笑みをこぼしてから、自分の体を見下ろす。暗い夜にたった一人きり、崩れかけた壁にめりこむようにして、地面にへたりこんでいる姿は我ながら無残だった。着ていたシャツはぼろぼろに破れ、衣服には飛び散った血が染み込んでまだ鮮やかに赤い。これは誤魔化せそうにないなあと思いながら、砕かれた腕の様子を確かめる。
 右の腕は、どれだけ最新技術を駆使してもつなげられないほどに砕かれ、焼け爛れていたはずなのに、骨はどうやら元通りにつながり、新しい肉がそれを覆っている。ためしに動かして見ると、鈍い感は否めなかったが、彼の意思の通りに指がピクリと反応した。背中の方もとりあえず痛みはないし、最後に直撃を食らった腹の方も、別に内臓がはみ出ているわけでもなし、なんとかなりそうだ。
 幻を見せられている間に、魔族らしい驚異的な回復力が働いていたようだった。それだけの時間がたってしまったということでもあったが。
 自分の具合を確かめてから、立ち上がる、その時にはもう彼の姿は人でなくなっている。
「蓮ちゃんに怒られる前に、さっさと追いかけないと」
 楽しそうにつぶやく。普段の頑固さに比べて蓮が、精神的に追い詰められるととても弱いことを、奏はよく知っている。きっと彼は、たったひとりでは立っていられないだろう。
 自分を死に追い詰める前に、生きていくためのささやかな理由がある。理由になる人が、いるから。



 ――だけども。割り切ったと思っていても、わずかなり揺すぶられてしまった原因は、やはりあるのだと、思う。今でも惑わされてしまった、血に濡れたこの手。相変わらずのこの手。無頼者たちの血ならいいけれど。
 そう思う彼は優しげな外見に反して、害するものへの決定的な無慈悲さを身の内に宿していた。抵抗したのは当然だと思っている。自分たちの平穏を壊した相手を許せないと、今でも思っている。今でも、害するものへの最低限の抵抗は当然だと思っている。だからこれが、奴らの、せめて自分自身の血なら、いいのに。
 本当は、悲鳴をあげられたってかまわなかった。異形だからと捨てられたって良かったんだ。追いたてられて俺が殺されることになっても構わなかったから、ただ、生きていて欲しかった。だから悲しかった。自分が殺したのかもしれないという矛盾は永遠にそこに立ちふさがるけれど。
 本当に、それだけだったんだ。






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