まがことのは




第九章







 肩を震わせたままの都雅に気がついて、美佐子がそっと呼びかける。
「都雅ちゃん?」
 優しい声だった。決して害そうとする意志を感じ取れるものではなかった。
 ――けれども今、気を向けられること自体が、都雅にとって恐怖でしかなかった。
 自分でまずい状態だと分かっていた。今少しでも気を緩めたら、抑えられない。机に押し付けられた手が震えている。力を込められて震えている。その強い力に、分厚い木の板に亀裂が走った。四方へ向かって、ひび割れが走っていく。学校の机が例え簡単な造りのものとは言え、少女の力で壊れるような代物ではない。力が暴走している。混乱のあまり、魔力が抑えられなかった。
 ――子どもの頃、それを表に出さないよう必死の努力をしても、それでもあふれ出てしまった。その頃のように。
 ああ駄目だ。閃くように思ったのは、恐怖だった。
 母親に叱られる。また遠くなってしまう。もっと手が届かなくなる。
 してしまったことに怯えて、慌てて顔を上げた。染みついた怯えに体を震わせながら、うかがうように、長く伸びた前髪の間から辺りを見る。
 怒りに唇をゆがめた母親はいない。かわりに瞠目した少女がいる。そして後ろの方で、怯えて彼女を見ている女。驚愕に目を見開くその姿に、あの母親とどう違いがある。
「化け物!」
 幾度となく聞いた、ヒステリックな声がした。驚愕と侮蔑と、心の底からの拒絶を上品な顔に浮かべて叫ぶ母親。
 あれと、どう違う。
 隣の菊は、何も言わずに顔をしかめている。あれは、侮蔑とどう違う。嫌悪と、一体どこが違う。
 どうせ誰も誰も誰もあたしの存在なんか許してくれなくて。もがいてももがいても、懸命に気を引こうとしても、誰もが目を素通りさせていく。
「お前なんか、生まなきゃ良かった!」
 耳をふさいでも、聞こえる声がある。
 自分を生んだ人に存在を否定される、それがどれだけ痛いか、きっと知らない。言ってはならない相手、言ってはならない言葉。それを、よりによってその人に、言われることの痛み。
 ――もう嫌だ。
 愛してもらうための、懸命な努力も、何にもならなかった。受け止めてほしかった。特異な力を持って、人に気味悪がられても、母親には受け止めてほしかった。振り向いてもらおうと、必死になっていた。でも無駄だった。
「あたしなんてあたしなんて、あたしなんて、あたしなんて……!」
 手元に目を落として、つぶやく。壊れた机、壊してしまった手。繰り返される出来事、言葉、嫌悪、拒絶、憎悪。あの、視線。
 もう嫌だ。もうあの目もあの声も言葉も。もう見たくない。考えたくない。
 ――死んでしまえば。
 見なくてすむ。考えなくてすむ。どうせ、母親にすら望まれない、命。
 ――ねえ、高校どこ受けるか決めてる?
 問いかけが、心によみがえってくる。そんなこと聞かないで欲しい。そんな無責任なことを気軽に聞かないで。あたしは今日を耐えることで精一杯だから。
 明日のことは知らない。先のことを見通せない。どうしたいと思う、余裕がない。
 高校だとか将来のことだとかを聞かれても、そんな先のことは分かるかとしか答えられなかった。同じ年頃の子どもたちにとっては、間近に迫った一大事であっても。――でも幼い頃から、そのはじめから、毎日を耐えることで精一杯だったから。ずっとうまくいかなかったし、明日のことなんて考えられない。
「……死んでしまえば。あたしなんて、あたしなんて……」
 座りこんで頭を抱えて、つぶやきを落とす。短絡的にたどり着いた答えは、分かりやすく、そして彼女が一度退けたはずの道。
 間髪入れずに、諫める口調をもった美佐子の声が叫ぶ。
「都雅ちゃん!」
「うるさい!」
 ほぼ同時に、都雅が怒鳴った。恐喝するような声で。誰を、何を?
 ――死ねば楽になる? 何から、誰から、誰が……?
 誰が?
 あたしが? 相手が?
 目の前の教室の床が違うものに重なって見えた。こんなに小汚いものとは比べられない、ワックスで磨かれたフローリングの板と、小さな膝。現実とぶれて重なって、何が本当に見えているものなのか分からなくなってきていた。
 これは、いつのことだった?
 部屋は相変わらず薄暗く、自分の部屋の中でさえ満足に見えない。電気をつける気にはなれず、かと言ってそのままでいればさらに気が滅入る。
 何もかもが億劫で、無駄で、努力という言葉を嘲笑うほどの気力しかなかった。座り込んで、不必要に広い部屋の、部屋の主よりも存在を主張する家具たちに囲まれて、それにすら追いやられて、膝を抱えて隅でうずくまっている。木の床を見て考えている。
 ――多分、今まで何度も、死ぬことを考えたことはあるのだと思う。
 嫌な思いをしたとき、つらかったとき、きっと誰もが「死んでしまいたい」とかすめるように思う、その程度には死を思ったことがあるだろう。決して本気ではなくて、自分を慰める程度、不幸に浸っている程度の思いで。
 本当に死んでしまいたいと思ったのは、たった一度、あの時だけだった。
 消えてしまいたいと思った。死ぬなんてこと、多分、よくは分かっていなかっただろう。まだ小学生だったから。家を出たのは雅牙が小学校に上がった年で、あれは家を出る一年ほど前のことだ。
 だけどそう思った。途端、怒りが沸いてきた。
 こんなに思うほど努力して、寂しい思いをいっぱいして。おかげで、友達も作れなくて、何もかもうまくいかなくて。あたしのものをこれだけ、めちゃくちゃに壊されて、傷つけられて、それなのにさらに犠牲を払うのかと思うと、腹立たしかった。
 無駄なのだ、と痛烈に思った。悟るように思った言葉が心に刻み込まれた。
 これだけ努力して無駄だったのだ。だから、これからも努力し続けたところで無駄だろう。だからと言って、あたしが、あたし自身を諦めるのは、道理に合わない。もう十分やった。だからって、死ぬのではなくて――次に出来るのは、戦うことだ。拳を固めて振るうことではなく。心をよろって、自分自身を貫くこと。まだそれをしていない。今まで、自分を押し込めることしかしてこなかったから。
 決意した。決めてしまった。それ以来、今までしていたことをすべてやめた。すがりつこうとするのも、傷つくのを覚悟して近寄るのも。気を引くために魔力を抑え込むのも、媚びるような行動も、やめてしまった。さしのべるのをやめた手は、振り払われる前に、振り払った。壁を作らなければ弱い自分を守れないことを知っていたから。余計に周りの人々は彼女を奇異の目で見て、もしくは恐れて、近寄ろうとしなくなったけれども。
 ――でも、相手だって、苦しいのに?
 相手にも理由があって、痛みがあって、そのせいで自分につらくあたるのだと、知っている。いわゆる嫌な幼児体験というやつで。トラウマは、記憶と力を封じても、相手の心の奥底にいつも眠っている。いつ目を覚ましてもおかしくない状態で。それを露見させそうになる都雅の存在は、母親にとって忌まわしい力の記憶と同じように、拒絶しなければならないものだった。
 理屈では分かる。でも理解はしてあげられないよ。出来るわけがないじゃないか。
 それは理由にはならないよ。
 ――でも、そんなに苦しいのに?
「うるさい、うるさい、黙れ!」
 強いのね、と言った、その言葉はある意味都雅にとって皮肉だ。
 強いから戦えるわけじゃない。戦っているから、強いわけじゃない。自分は誰よりも本当は弱いのだと分かっている。ただ単に、弱みを見せるのが嫌いなだけ。同情されるのが嫌いなだけ。負けを認めるのが嫌いなだけ。そして弱いがゆえに戦うのだ。
 挫けても倒れても、逃げても負けてもまた帰ってこれるなら。また立ち上がって戦えるのならそうすればいい。でもあたしはそれが出来ないのを自分で分かってる。一度倒れたらもう立てない。それだけの気力はない。だから踏みとどまっているだけ。あの時もそれが分かっていたから、膝をついて倒れ込む寸前に、無理矢理にも立ち続けた。あきらめてしまったら、終わりだと分かる。だから、まだ。
 ――でも、だから今また、苦しい。
 当たり前だ。生きていれば誰だって苦しい。
 ――でも、ここまでの苦しみを味わうことなく、安穏に生きている人もいるのに。
 そんなこと、関係ない。あたしには関係ない。
 ――でも、誰もあたしを望まない。
「知るか、そんなこと」
 吐き捨てるようにつぶやく。知るか、人の思いなんて。もう振り回されない。十分振り回されてやったのだから。思い通りになんてなってたまるか。誰の言葉にも左右されない。
 ――でも、これからだって、傷つく。先を見通すことだって、できないくせに。
 だけども、死は選ぶものじゃないだろう。手段じゃないだろう。
 すべてを切り離してしまうには、まだ強さが足りなくても。忘れてしまうことはきっと一生できなくても。傷口は生々しくて、今はまた、母親に会ったせいで、幻惑のせいで、血を流しているのだろうけれど。
 あきらめない。血なんか流しっぱなしでもいい。傷なんか開いたままでも、今までだって構わなかった。これからも生きていける。
 この思い一つあれば、生きていける。
 ――――追い込まれて、岸壁に立たされて、あとはもう落ちるしかないというところまで来て、彼女が選んだのは、後退(あとじ)さることではなかった。
 抗うために前へ踏み出すこと。
 いつだって、希望の光は見えないけれど。だからこそ、強くなりたいといつも願う。強くありたい。
「都雅ちゃん」
 声をかけられるのは何度目か。声と同時に、支えてくれる手が肩に触れて、思わず笑ってしまった。案じるものと安堵の混ざった声。
 変な子だ、と思う。笑ってしまう。
 この先も一緒にいることを望んでくれた。そしてもう一人、同じことを言ってくれた人がいた。いつもさりげなく背中を支えてくれていた祖母を思い出す。ああ、帰るとも。こんなところで死ぬなんて冗談じゃない。
 ――強さがほしい。
 立ち続ける、強さ。
 人の言葉に惑わされない強さがほしい。何を言われても、どんな視線を向けられても、気にしないで立っていられる強さ。絶望を希望に変えられる強さ。
 人に微笑みかけることのできる、強さがほしい。
 ――――かすかな光、目を凝らせば見えないこともない。声をかけてくれる人がまだいるのなら。



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