まがことのは




第九章








 目の前は相変わらず暗い。薄暗くてよく見えない。視界には骨っぽい自分の両手と、小汚い教室の床があるばかり。幻惑じゃない。
 よくもまあ、昔のことを、これだけまざまざと思い出させてくれたものだと思う。魔族の術は、彼女の脳に記憶されている、普段は覚えていないような細かなことまでも、掘り起こしてくれたのだろう。家の外見も内装も、まったく変わりがなく記憶の中に眠っていた。ここ数年、どう振り返っても家に近寄った記憶がないから、夢に見た家も変わりないはずだ。本当に、昔のまま、その再現だったのだから。
 しかも、わざわざ思考が後ろ向きになるよう、細工までしてくれて。
「でも、まあ、相手が悪かったなあ」
 喉の奥で笑いがもれる。
 お母さん、などと呼びかけたのが、たとえ夢の中だとて。一体どれくらいぶりだろう。
「都雅ちゃん、大丈夫? 気分悪くない?」
 間近い場所から声が聞こえて、肩に置かれた手を軽く叩いた。大丈夫だ、との意志を込めて。
 穏やかに笑う少女を見つけて、笑みを深める。側に控えるように少年の姿の菊が映る。どうかしてみると、姉弟に見えないこともない。
「大丈夫だ。――悪い。面倒かけた」
 笑顔と素直な言葉が飛び出して、菊が驚く前に怯えた。それに苦笑しながら、都雅は顔を上げる。
 いつもの飄々とした顔で、清々しいまでに憮然とした、あまりに少女とは思えないきつめの瞳で、大穴の開いた壁を見る。
「何がどうなってる?」
「男の子二人、覚えてる? あの人たちが、彩香を運動場に連れ出したの」
「……そうか」
 淡白に応えて、今度は教室の隅に、意心地悪そうにしている崇子へ目を向ける。
「協会の人間だと言ったな。そこで何をしてる」
 言葉も声も、もういつもの調子に戻っていた。突然かけられた声に、崇子は肩を震わせた。
「何のためにここにいる。何のために働いてる」
「わたしは……」
「命がけになることもあるって分かっててやってるんだろ。あたしみたいなガキでさえ分かってる。だから協会と取引するときに、あたしは余計ないちゃもんつけられる羽目になったんだ。お前が自分で選んだんだろうが。やる気もなくて人の足を引っ張るだけなら、はじめからこの仕事するんじゃねえ」
 きつい都雅の言葉に崇子は目を見開いてから、目を伏せてそらしてしまう。
「でもわたしは……」
 言い返そうとしたようだっが、それ以上の言葉がなかった。
 うつむいた崇子から顔を背けて、都雅はそのまま踵を返そうとした。去っていこうとした、その都雅の腕を美佐子が掴む。しっかりと押しとどめていた。きつめの目で見てくる都雅を少女はしっかりと見返した。不安だったから。
「ねえ、都雅ちゃん。一緒の学校を受験しないかってわたし聞いたよね。進学するかしないかとか、そういうのだけじゃなくて、小さくても大きくても、どっちか選ばないといけない時って、あるよね」
「……ああ」
「都雅ちゃんも、色々選んで、こうして命懸けでお仕事して、あの魔族追いかけてきて、わたしを助けてくれてるんだよね」
「まあ、そうだな」
「わたしは、菊ちゃんから事情を伝え聞いただけで、詳しく知らないけど、一つだけ聞くわ。もしわたしと、雅牙君と、同時に危険だったら、どっちを助ける?」
 一瞬言葉に詰まった都雅を、美佐子は都雅とは違う意味での、彼女らしい強い瞳で見ている。
「都雅ちゃん。迷わないで。雅牙君を助けてね」
 都雅を友達だと言った彼女は、決して驕っているわけではない。都雅が、見知らぬ他人でしかなかった自分を助けてくれたのを覚えているから。事情をよく調べもしないで頼んでしまった新條家での事件も、結果的には助けてくれたのだから。
「ああ、気をつける」
 苦笑とともに都雅はつぶやいた。数日前、美佐子が高校の話をした時のように、どこか困惑しているような表情だった。
 そして彼女はまた立ち上がる。マントを翻して、細い体を起き上がらせる。
 押さえつけられたって、拒絶されたって、誰の思い通りにもならない。屈しない。自分の意思で、そこに踏みとどまってみせる。
 何度だって、立ち向かってやる。



 あちこちに無残な傷跡の残る教室に立ち尽くして、美佐子は穴の方を見ている。容赦ない力のぶつけられた跡の、その象徴のような穴。ドアではなく、せめて窓でもなく、用意された入り口を無視して明けられた侵入口は、何かを象徴するかのようにそこに開いている。
「わたし、都雅ちゃんを追う」
 唐突に言い出した美佐子に、少年姿の菊が慌てて彼女の腕を引っ張った。
「何を突然言い出すのじゃ」
「だって、彩香も放っておけない。わたしにできることがあったら、したいの」
「……美佐子ちゃん。わしは美佐子ちゃんの言うことなら何だろうと邪魔はしないが、これだけは反対じゃ」
 気を引くように彼女の腕を掴んだまま、菊は翠の眼差しをうつむける。
「わしは新藤家での都雅を見ておる。わしらが共におったがために、あやつはわしらを守ろうと必要以上の大怪我をしたんじゃ。わしらが追って行ったところで、足手まといにしかならぬ。自身の身すら守る事もできぬのに、これ以上負担にはなれぬ。あれは、決して態度に見せぬが、律儀な娘じゃからのう」
 そうだね、と応じて美佐子は微笑する。そんな場合ではないけれども。
「でも、だからこそ、隠れて逃げてていいのかな。もともと飛び込んできたのはわたしなのに。それによくは分からないけど、みんながそれだけ大変だと言うんなら、ここに残っても追いかけて行っても、危険なのには変わらない気がする」
 そんな主人を見上げて、菊はやれやれという様子で首を振る。何を言っても止められそうにない。だいたい、菊自身の性分としても、こんなところでうずくまっていられるものでもなかった。さてどうしたものかと思ったが、おずおずと割り込んだ声があった。
「ひとつ、お願いがあるんです」
 顔を上げて、美佐子と菊が振り返る。萎縮したように身を縮めて崇子が立っていた。電気もついていない教室の中でそうしている彼女は、怯えているというよりもとても寒そうだった。
 ――何をやっている、と言われて答えられなかった。
 自分でも情けなくて、言い訳もできなかった。
「わたし、きっとあの女の子を助けることができると思います」
「本当ですか?」
 美佐子が驚いて声を上げる。崇子は、ぎこちなく唇の端だけで笑った。
「難しいけど、やってみます。それで、できればここにいて欲しいんです。いてくれるだけでいいから。そうしたら、わたしもあなたと一緒に、彼女たちの後を追います。戦う自信はないけど、守るくらいならできると思う。――あんまり近くまで行けるかどうか、自信はないけど」
 今は魔族もそう近くにはいない。けれど相手の思惑を挫くような行動をしたものを、許さないはずだ。成功するしないに関わらず。仕掛けたものが近くにいなくても、一体どこの誰がそれをしようとしたのかくらい、分かるはずだ。だから目の前にいないからと言って、行動を起こすことは決して安全ではない。都雅か、奏たちが止めてくれればいいけれど、それはあまりにも相手に甘えすぎと言うものだ。
 しかし、魔族は都雅に執着している様子だったし、崇子が何をしようと気にもとめないかもしれず、行動を起こせば反撃を受けるかもしれない、ということは崇子の杞憂かもしれなかった。しかし彼らは気まぐれでもあったから何が起こるか予想もつかない。起きるかもしれない、起きないかもしれないことに対して、彼女の心は逡巡している。
 心は怯える。葛藤を繰り返す。可能性であっても標的になるのなら、恐ろしい事に変わりはない。体の震えが止まらないくらい。一人だったらきっと逃げ出している。
 情けないと言えば情けない、そんな申し出に、美佐子は微笑んだ。
「お願いします」





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