まがことのは




第十章








「おやおや……」
 自分の体を見下ろし、少しばかり驚いた、と言う風情で魔族はつぶやく。怒ってはいなかった。命じられることが嫌いな種族である彼女は、少女の体から追い出されたことには確かに許し難いものも感じたが、それ以上に、向けられた驚愕が心地良かった。足下に倒れ込む少女を見て、そして自分の腹部に見える少年の顔を見て、彼女はゆるりと笑った。
「困ったねえ」
 声は伸びやかに風に乗り、都雅の耳に届く。魔族は彼女を見て、紅の唇に笑みをはきながら眉根を寄せてみせる。月に照らされそこに君臨する闇の者は、数日前に見た魔族と変わりはなかった。もうその顔は笑ってはいなかった。怒ってもいなかった。人をもてあそぶことに喜びを見出す者の、そして自分の優位を知っている者の、無慈悲な残酷さがあった。
 ――だが、あれは。
「取り込んでいたのか……!」
 都雅はうめくような声を上げた。
 雅牙の顔はまるで魔族の体に直接埋まっているかのように見える。どう見ても質量的に不可能だから、魔族の体を媒体にした、どこか別の空間に捕らわれていると考えるのが妥当だろうか。
「さあて、どうする?」
 傲慢で、「遊ぶ」とか「目の前で食らう」などと、先刻口にした計画の片鱗も忘れたかのように、もうわずかですら逆らうのを許さないとばかりに立つ相手に、都雅は苦い顔をした。
「……勘違いしてるよなあ」
 ぶつぶつと口中つぶやく。
 魔族は、切り札を手にしたと思っている。都雅が雅牙を気遣って、魔族を攻撃できないだろうと決め付けているのなら、それは大きな間違いだと言ってやらなくてはならない気がしていた。そう思われるのは、何となく不本意だったから。雅牙を連れ帰らなければならないのは、あの母親の前に突っ返してやらないと、後がとても嫌なことになるからだ。それだけ。
 でも攻撃できないのは変わらない。
「おい、お前」
 ビシッと指をさして、都雅は仏頂面で言う。顔は魔族の方を向いたままだが、指の先にいたのは奏だった。
「頼みがある」
 傍若無人に言葉を吐く。言葉と態度のあまりの違いに、奏は一瞬考えてしまった。
「はい?」
 呆気にとられて奏が応えたところで、蓮が素速く割り込んだ。
「それが人にものを頼もうって態度な訳? あーやだやだ、これだから馬鹿は嫌いだよ」
「蓮ちゃん、それは君もあんまり人に言えたことじゃないと思うがね」
「奏は黙ってなっ。まったく奏が喋ると物事引っかき回してちっとも話が進まない」
「だからそりゃ、自分のことだろーがって。……で、何をして欲しいって?」
「魔族の腹に埋まってる奴を助ける。手を貸せ」
 蓮をなだめた奏に返ってきた当の都雅の言葉は、頼みがあるという割には命令口調だった。
「頼むから、無差別な攻撃はしてくれるな」
「どうして」
「弟だ」
 都雅は吐き出すように言った。その口調に首を傾げたが、奏は問い返してこなかった。それよりも、気になることがあったのだろう。
「俺たちと組むのって、気味悪いとは思わないのか?」
「馬鹿馬鹿しいことばっかりさっきからしつこいな、お前は」
 そんな場合じゃないんだぞ、と都雅は苛立たしげに言い返してくる。確かにそんな状況でもないし、化け猫と普通に会話したり脅したりしている相手には馬鹿げた問題かもしれない。
 ――だけど、さっきからこの少女は、普通の人が彼らの正体を知った時に見せる反応と違う。拒絶ばかりされてきたわけでもないが、はじめは多少戸惑うものだ。
「普通は、気味悪がるもんだからね。あの協会のお嬢さんみたいに」
「魔族だからとて悪であるわけではないだろう。神族が絶対の善ではないように」
「何それ?」
「お前ら、長生きなんだろ? そんなことも知らねえのか。ったく、最近の魔族はどうなってるんだ」
 菊と言い、こいつらと言い……。都雅は口の中でぶつぶつ文句を言っている。
「神でも「たたる」と言われるし、そもそも神と魔の区別は難しい。伝説とかにあるようなのでは、人でなしな行為をした人間を鬼と呼んだらしいし。鬼が神と呼ばれることもあるように、人は力有るものを神と呼び、ある場合は魔と呼んだんだから。人間の都合なんだよそいうのは」
 いとも簡単に、彼女は言って捨てた。
「もともと鬼ってのは高位魔族に分けられるが、どっちかってえとあの魔族とは違うだろ。あの化け猫みたいな妖怪と近い」
「それって結局、俺らとあいつの差ってあんまりないってことじゃないのか? 魔族っぽい精神性においては」
「知ったことか。あたしはどうしてお前らが人間の味方して、人間のふりして生きてるのかも知らないんだ。だがお前らは、人間のふりをやめるつもりはないんだろう」
「まあね」
「それなら、自分が人ではないからって、あいつと同等はれると考えるのはやめたほうがいい。あいつとお前たちの決定的な違いは、力の差じゃない。魔物は物事の負をあらわすもの。お前らが人のふりしている限り躊躇することをあいつは平気で出来る。あいつにはそういう枷がない。だからああやって、命あるものを盾にして平気でいられる。人間が魔族に対して弱いのは、そう言う理由も大きいんだ。結局、生まれよりも、育ちの問題だと思うがな」
 彼女はぶっきらぼうに、嬉しいことを言ってくれる。
 結局何より、彼女は彼女なりに判断して、あの非道な魔族と奏たちは違う生き物だと結論したということだろう。種族ではなく、彼らを見て。
 だからこそ、奏も――それでなくても最初から断るつもりはなかったが、都雅の頼みに対して快く応える。
「ま、努力してみましょ」
 軽く、のんびりと言った。その彼に蓮が毒づく。
「お人好し」
「うん」
 素直に笑って言う奏に、蓮は苦い顔をしたが、それ以上は何も言わなかった。



 都雅が無防備にすら見える動きで前へ踏み出したところで、魔族は憎々しげに声をあげた。
「近づいてきたところでどうする気だい」
「そんなことお前の知ったことじゃないだろう」
 立ち止まらずに、都雅は不機嫌に応える。言われなくても、自分から近づこうなんて無茶な事など分かっている。でも、近づかないことには何もできない。
「今のわたしに害を加えることができるのなら、お前はそれでも自分を人間だと言えるのか」
「そんなこと、お前に関係あるか?」
 さらに一歩踏み出す、彼女の方へ風が動く。ぶつけられる害意の塊に、都雅は両手を伸ばして、結界を張って身を守っていた。踏みとどまるのが精一杯なくらいの力を叩きつけられながら、さらにもう一歩。
 守りの結界を張っていると言うのに、びりびりと空気が震える。前へ進む意志をあらわすかのように、結界を支えて突き出していた手が、力負けして痙攣し始めている。また、折れるかも知れない。思いながらもさらに一歩。
 下がろうとしない魔族の至近距離にまで近づいた、都雅の身の回りが急に軽くなった。都雅自身の力の膜の上から、誰かが結界をはってくれている。誰がその力を使ったのか見遣る余裕などなかったが、問うまでもなく分かった。先刻と同じ祝詞だ。
 苦笑しながら踏みとどまる都雅の方に、今度は魔族の方が踏み出してきた。以前に、真族の腕の軽い一振りは、都雅の腕をへし折った。同じように突き出してくる。けれども、闇の塊のような魔族の後ろに月を見ながら、都雅は下がろうとしなかった。ここで退いてしまったら手が届かない。
 逃げようとしなかった。その彼女を守っていた力を魔族は素手で振り払い――雅牙をさらったときのように、二人分の力ですら簡単に引き裂いた。そして都雅の右肩を刃のような魔族の爪が掴む。
 痛みも、血が吹き出るのも気に止めずに都雅は踏みとどまっている。肉をもぎ取られそうになりながら、反対側の手を伸ばした。彼女の意に反して、懸命にそうしているとしか見えない震える指先は、弟を解放するまでにはいかない。ただ少年の頬をかすめる。触れたか触れないかも分からない。感触も残らなかった。
 けれどその意志は、無駄ではなかった。
 女の腹にあった雅牙の顔の、その瞳が見開かれる。
 力強いその瞳は、月を宿してやわらかい光を帯びていた。けれど黒い瞳は、しっかりと世界を見ていた。目覚めにまどろむことなく怯えることもなく、しっかりと前を見据えていた。
 そして少年は、唇を開く。
「お姉ちゃん」
 しっかりとした声は、間違いなく少女を呼んだ。






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