まがことのは




第十章







 現象は誰の目にも見えなかった。何が起こったのか、それを知っているのは少年と、凌霞だけだった。
 捕らえていた少女が反乱を起こして魔族を追いだしたときのように、魔族はびくりと大きく震えた。瞬間、その目から、口から鼻から耳から、体の内部が弾けたかのように血を吹き出させた。その飛沫に、真正面にいた奏は幾分か目を細める。そして同時にまた手を伸ばす――が、やはり届かない。再度止められた。腕を、掴まれてしまった。
「侮るな」
 血をぼたぼたと垂らしながら短く吐き捨てて、魔族は奏の腕を掴んだのとは反対の手を、彼の胸にあてた。それは正に死刑宣告の瞬間。相手は傷を追っているとは言え、奏自身もそれは変わりない。
 短い爆音。逃れられない距離で激しく胸を突かれ、奏は痛みを堪える様に、音をたてて息を吸った。魔族が腕を離すと、血を吐きながら後ろに倒れ込む。口からも胸からも、どくどくと生々しい血を、夜の暗い中にあってどす黒く見えるその血を流して動かなかった。
 けれども足場を次々と切り崩され、いい加減に苛立ちはじめた魔族の、その後ろ――
「物事には限度ってものがあるんだって、言わなかったっけ?」
 玲瓏な声が、魔族の耳元で告げた。月の光そのもののような、冷たさとやわらかさを併せ持つ声音。声の主は、魔族が振り向く前にその頭を掴んだ。そして口を開く。
 魔族の白い首筋に、獣のような鋭い牙をたてた。噛みつくなんて生易しいものではない。食らいつく。しぶきをあげて吹き出す血に顔を赤黒く染めながら、蓮は肉を喰い千切るような勢いだった。正に鬼の姿にふさわしく。常軌を逸した光を宿す、その金の瞳にふさわしい。
 凌霞が悲鳴を上げた。痛みではなく、怒りのようだった。
「おのれ、離せ……!」
 魔族は顔をしかめて蓮の手を掴む。だが、彼を引き剥がすことは出来なかった。
 倒れたはずの奏が、未だ口の端からぼたぼたと血を流れ落としながら起きあがり、魔族が捕らえていた少年の方へ手をのばしていたから。
 そして少年自身が動く。身動きとれなかったはずが、自身の力と、数々の抵抗の攻撃のお陰で消耗しだした魔族の腹から、手を伸ばした。血に濡れた手で奏がその手を掴む。しっかりと掴んで、懇親の力を込めて手繰り寄せる。少年の肩が見え、体がずるりと引きずり出されてくる。
「おのれ……!」
 悔しげに魔族が声をあげる。
「離れろっ」
 それとほとんど同時、魔族が何らかの行動を起こす前に叫んだのは都雅だった。だが奏はそれ以上動けない。雅牙を庇うように抱え込んだまま身動きとれなくなっているのを見て、蓮は大きく舌打ちをする。
「まったく、なんでこのぼくが、こんなに、力使わなきゃいけないんだっ!」
 悪態をつきながら蓮は魔族の襟首を掴んで、自分たちが離れるかわりに、魔族を空中に放り投げた。魔族はそんな扱いを受けながらも何かの気配を感じたのか、消えようとする。だが、都雅の方が早かった。
 手を伸べて声を上げる。
「すべて形あるもの、形なきもの。
 すべて命あるもの、命なきもの。
 すべて名のあるもの、名もなきもの。
 我はここに命ず。ここに汝に命ず。
 我が力となりて、ここに来たりて――」
 その言葉を聞いて、校庭の隅で、美佐子と菊と共に成り行きを見守っていた崇子は、驚きの視線を都雅に向けた。
 黒マントをなびかせ、堂々とそこに立つ少女の唱えている呪文は、最高魔法。使える者など魔道士の中でも一握りと言われるほどのものだ。この世のすべて、ありとあらゆる存在に力を貸すようにと命じる呪文。
 まさに神さながらの、人としての枠を超えるとも言えるほどのもの。彼らの技が悪魔の技と、「魔道」と言われる由縁。
「破壊せよ」
 対象を手で指し示す。
 都雅の声が命じた途端、一瞬時が止まったようだった。すさまじい光が弾ける。夜の闇を消し飛ばした光の中、空気がゆがむ。突然生み出された巨大な力に、もの凄い勢いで脇へ押しやられた空気が豪風を巻き起こした。爆風が弾ける。
 力の塊は風を引き連れながら、魔族の方へ向かって空を翔ていく。吹き返す風に人々はその場に留まるのが精一杯だった。



「このバカっ。もうちょっと他人のこと考えて攻撃しろよっ」
 魔族の至近距離にいた蓮の抗議が聞こえる。爆風の名残に髪を遊ばせながらも、堂々と直立して腰に両手をあてて悪態をついていた。頭に角を生やした鬼の姿のまま、牙や唇から血をたらしたままなので、高飛車ぶりに磨きがかかっている。
「もうサイアクー。服が汚れたあ。奏、弁償してよねえ」
「だから、なんで俺が弁償しなきゃならないんだっつの」
「ぼくに不愉快な思いをさせたから」
「だからそれはケーキで手を打つって言っただろっ。この上なーんで、洋服まで」
「いい鴨だからに決まってるだろー?」
「ああっ。それが本気ならひどいっ」
 げほげほと血を吐きながら奏は、倒れて腕に雅牙を抱えたままで泣き真似をしていた。
 いつでも陽気なそんな彼らに構わず、都雅は上空を見上げる。天は暗く満点の星があり、月が白く冷たく輝いている。それだけだった。君臨していた闇そのもののような女性は消えていた。
 しかし、始めから力を失っていたとは言え、自分の内側から破壊されたとは言え、切り札だった雅牙を奪われたとは言え、目の前からいなくなったとは言え。
 倒したと考えていいものか。攻撃をよけられた様子はなかったし、間違いないはずだ。そして雅牙は取り戻せたのだから。これでいいはずだが。
 それなのにどうして……。どうして、こんなに違和感があるのだろう。まだ何かに圧迫されているような、閉じこめられたままのような息苦しさがある。結界が消えていない。
 都雅は違和感を拭えないままに、空を睨みつけていた目をそらした。奏の腕でぐったりとしている少年に近寄ろうとした、その向こうで叫ぶ声がした。
「みなさん、まだです!」
 気にかかっていたことを他人にも言われて確信する。
 先刻は見遣ることの出来なかった相手の方へ、問うように視線を向けた。運動場の隅、校舎の前に影が三つあった。都雅を援護した崇子がいて、その横に美佐子と菊が立っている。崇子を見ると、害意に敏感な彼女は厳しい表情をしていた。
 そして都雅が見ている中で、崇子が慌てて何かを唱えるのが聞こえた。けれども術が結ばれる前に、違和感の正体は、大きな存在感と共に現れる。
 足を止めて振り返っていた都雅の視線の先で空気を割いてそれが現れたのは、美佐子の目の前だった。この場にいて一番の弱者。労苦もなく、少し引っかけるだけで死に絶えるもの。魔族の餌食となり得るもの。






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