花腐はなくたしの雨にうたれている。
 大きな窓にもたれて彼女が言った。
 卯の花腐し。
 なに、それ。耳慣れない言葉を問い返すぼくに、彼女は、ガラス越しに眼下を見遣り、唇だけで笑う。
 知らないの。花を腐らせる雨のことよ。
 ぼくは、彼女の方へ行こうとして、足にまとわりついていた猫を抱き上げた。細い鳴き声が耳をくすぐる。
 窓ガラスを雨が叩いていた。三日前から、降ったと思ったらやみ、やんだと思えば降るような、だらだらとした天気が続いていた。雨は陰鬱で、空を雲が覆い、あたりは湿り気に満ちている。
 彼女の住む、ホテルのようなエントランスとロータリーを持つ高級マンションは、手入れされた中庭まで携えていた。彼女の視線の先、遠い地面の上には、雨に打たれて項垂れる花がいた。
 水の重さに俯いて、けれど倒れずに、揺れている。見えるわけもない遠くのものなのに、はっきりと見えるようだった。疑いもなく頭の中で咲いている。
 あの日の彼女のように。

 5年前だった。
 ぼくはまだ小学生で、そのときも猫を抱いていた。雨の中を公園に捨てられていた子猫を拾って帰ったぼくは、母親に怒られ、元いたところに捨ててくるように言われて、泣きながら歩いていた。片方の手で傘をさし、もう一つ別の傘をぶらさげて、反対の手で小さな猫を抱き、ぐずぐずと鼻をすすりながら。
 通りかかった橋の上に、女が一人で立ち尽くしていた。
 彼女はさわさわと降る雨の中、傘も差さずにじっとそこにいた。空を雲に覆われた、暗い夕方だった。
 雨は決して強くなかったが、長い髪や洋服が、重く体にまとわりつくほどに、濡れそぼっていた。橋下を見るでもなく見て、ただそこに佇んでいた。
 猫を捨てに行きたくなかったぼくは、彼女の横で足を止めた。同じように立ち尽くし、橋下を眺め、時間を稼ごうとした。両手がふさがっていて涙を拭くことも出来ないまま、しゃくりあげ、後ろを時々車が走り抜けていくのを聞きながら、しばらくそうしていた。
 誰かを迎えに行くのじゃないの。
 そう、かすれた声が降ってくるまで。
 傘を二本持ったまま時間をつぶしている子供を妙に思ったのか、ただの気紛れなのか。束の間、誰が誰に言ったのか分からず、ぼくは驚いてあたりを見回した。改めて隣に立つ女を見上げる。そして彼女がずぶ濡れだということに、改めて気づいた。
 おねえさん、これあげる。
 開いた傘を首と肩で支えて、閉じたままのもう一本を差し出す。
 重く濡れた睫毛を瞬き、彼女は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになったぼくの顔を見た。そんな、みっともないものなど少しも見えていないように、表情のない、色味のない顔で。
 誰かを迎えに行くのでしょう。無駄なことはやめなさい。
 表情のない女は、声にも音がないようだった。
 違うよ、こっちの傘は猫にあげるんだ。ぼくの家はすぐそこだから、もう一本は、おねえさんにあげる。
 ぼくが子供用の少し小さな傘を差し出すと、彼女はまた重たそうな睫毛を瞬かせた。
 そして彼女は笑った。雨に打たれ続けて、青ざめた唇で笑った。唐突に、何かが剥がれ落ちたようだった。濡れそぼって立ち尽くして、誰もが避けて歩いていたような不気味な女は、笑うと途端に艶やかだった。
 いらないわ。もうこんなに濡れてしまったから、意味がないもの。
 言われてから、ぼくの提案が確かにおかしいものだったことに気づいた。彼女に必要なのは、屋根とタオルだ。そして出来ればお風呂で温まること。
 猫を捨てに行くのね。
 悪魔のように美しい女は、蠱惑の眼差しで笑ったままだった。手の中の弱々しいぬくもりに、ぼくが何も言えずにいると、彼女は楽しそうに唇を動かした。
 その猫、わたしが飼ってあげてもいいわ。
 あの出会いからずっと、ぼくは猫の世話をするためにこの家に通っている。戯れに、気紛れに、命を拾った彼女の元へ。
 いい加減に、ここへ来るのやめなさい。
 彼女は楽しそうに言う。こんな女のところに来たって、何にもならないわよ、と。
 でも、ここには猫がいるから。
 ぼくが応えると、彼女はただ、そうね、と言う。猫がいる間は、わたしもここにいないといけないわね。
 ふわふわとした白い猫の頭を撫でる彼女に、ぼくは続けた。
 ここには、アナタもいるから。
 意味のない言葉をつぶやく。
 そうね。
 彼女の言葉も変わらない。
 ただひとりだけ愛した男を失ったときから、彼女は笑いながら腐れているのだ。

 その花は、人を贄にして咲く。
 微笑みながら、人を贄にして咲き誇る。人を踏みつけて生きる女。彼女は出会った頃から変わらず強く美しく、そして脆く弱い。言い寄る男を振り回し、従えて道連れに、生きていく。
 やがて腐れ落ちるのを待ちながら、雨の中を生きている。




終わり

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