沼の水は美しく、時に醜く泥に覆われ澱んでいます。
澱んだ沼の底は暗く闇に覆われ、それは寂しいものでしょう。
「こんばんは、お嬢さん」
後姿に呼びかける。
くるくると巻かれた長い黒髪が、風にあおられて踊る。
喪服のような黒を着た少女が振り向いた。レースとフリルに覆われた黒。ふわふわと踊る服には少し場違いなレースアップのブーツが音を鳴らす。甘さを否定する、ピンヒール。人形のような白い顔の少女は、人形のように表情がなかった。
「こんばんは」
呼びかけた相手を見つけて、赤い唇がひらめく。真円の月に照らされて、艶めいて光る。能面のようだった顔が、途端に華やいだ。
人気のない山道を通る国道の、アスファルトの上に唐突に立っていた黒い少女は、少しも怯まずに相手を見返した。
「こんな時間、こんなところで何をしているのですか。危ないですよ」
「夜の空気を吸いに」
少女は当たり前のように言う。
彼女の周辺に物はなく、当然自転車やバイクや車のたぐいも見当たらず、人の姿もなく、何かに乗ってきたとは思えず、そして近辺には民家もなく、ふらりと出てきたというには怪しい。ここは決して田舎ではないが、少し車を走らせれば町は途切れる。唐突に広がる田畑がある。更に進むと、山ばかりだ。
その中を、木を倒し山を削り、横たわるアスファルトの道路。冷ややかに流れる灰色は夜の色に染まり、暗い。その上で月に照らされて立つ少女は、やはり唐突だ。
こんなところまで歩いて来たのか。それは、空気を吸いに来た、と気軽に言えるものではないだろうと、彼女の言葉を少し疑う。この風景で、彼女の履物で、散歩というにはあまりにも無理がある。それとも、誰かが少し離れたところで待っているのか。
しかし、否定をすることでもない。
「月のきれいな日は、夜に会いに来るの」
戸惑う相手に、ヒールをしっかりと地面につけて立つ少女の涼やかな声が、何事でもないように言った。
「迎えに来たのね」
当然のように言われて、驚き、少し息を呑む。
「私を食べるの?」
続けられた言葉には、笑みが落ちた。
「それは何かの比喩ですか」
問い返すと、少女は、あら、とつぶやいた。そして逆に問う。
「どういう意味かしら」
言葉が分からなかったのかと思い、言い直そうとすると、少女は再び言った。
「何の例えでもないわ。私を食べるの、と聞いたの」
くすくすと彼女は笑う。
おかしなことを言っていると思うでしょう。いいのよ、わたしだってそうだもの。夢の中にいるの。
ねえ、知っている?
田舎の町には伝承がある。その土地の人間だけが知っている物語があるの。
子守唄がわりに聞いていた物語があるわ。
言いながら彼女は、先刻まで彼女が見ていた方向へ顔を戻した。周辺は木々が影を作っているが、そこだけ切り取られて闇が広がっている。
アスファルトの間近い場所には、朽ちた木の枝と朽ちた蓮の葉が横たわる、黒々とした沼が広がっている。
昔この土地にいた長者の娘は病弱で、いつも寝床にいた。書物と、家人の物語だけが彼女の楽しみで、
だけど、それだけじゃなかった。彼女の楽しみは、夜の間だけ訪れる闇。
黒い着物のきれいな男の人が、彼女に会いに来るの。
そしてふたりで、沼に沈んだのよ。
くすくすと忍び笑いが、夜に吸い込まれて消える。
それは、随分とロマンチックな話だね、と返した。でも、それは物語なんでしょう。
そうよ、と少女は笑う。
「でも、こんな月の夜に、黒いコートのきれいな男の人がこんな辺鄙なところにいるなんて。ねえ、これだって物語みたいじゃない。あなたはなあに」
長い睫毛が瞬く。
同じ血が、同じ言葉を問う。
「ねえ、私を食べるの」
白い指が、沼をかき回す幻影が脳裏を踊る。
始めて訪れた夜、少女はひとり、寝床の上に座っていた。肌寒い季節だと言うのに、障子を開け放ち、月の光に照らされて座っていた。白い顔と白い着物が、浮き上がるようだった。黒い髪だけが重たく肩に落ちている。
寝静まった静かな山間の村で、長者の娘に生まれた少女は、働く苦しみも痛みも知らず、くるまれてそこにいた。
誰もが眠っているものだと思って庭先に足を踏み入れた私は、少女の黒々とした目に捕らえられて、動くことができなくなってしまっていた。
しかしながら、悲鳴を覚悟した、その私に向けられたのは邪気のない笑みだった。
「あら、こんばんは」
突然の侵入者にも、彼女は動じることなく言った。
「どうなさったの、迷い人かしら」
疑うことを知らない言葉は、守られて生きてきた彼女の生を思わせる。
去るべきかどうか迷った。だけど、この相手ならば騙せると思った。何かつまらない誤魔化しでもなんでもいい、それを信じるだろうと。
考えを巡らせる。だけど、何かを思いつく前に、彼女は無垢な笑みで言ったのだった。
「ねえ、あなたはなあに。盗賊かなにか? それとも、人でないもの?」
「どうして、人でないものだと」
「だって、人は夜には出歩かないものだと、父様が言っていたわ。夜は人の領分ではないから。夜にいるのは、人を捨てて道に外れた者か、はじめから人でないものだって。危ないから気をつけなさいって」
知らないわけではないのだ、と思った。余計に戸惑いが深まる。知らないわけではない、だけど怯えない。自分を害するかもしれないものを。
「ねえ、あなたは鬼なの? わたしを食べるの?」
言葉には、やはり少しの怯えも見えない。
「……私が、恐くないのですか」
驚き、紛らわそうとしたのも忘れ、私は問うていた。少女は、白い顔をただ笑ませて、無邪気に言う。
「だって、わたしも、もう少ししたら人でなくなるのだもの」
「それはどういう」
「生まれたときから体が弱いの。もうすぐ死ぬのよ。だから人でなくなるの。だから食べられても殺されても平気だわ」
そして、少し考えるように首を傾ける。
「もしかしたら、強くない心臓はおいしくないかしら。食べても力にならないかしら。血は毒になるかしら」
ねえ? と無垢な顔が笑う。
「どうせなくすのなら、誰かの命になるわ」
水底には、美しいお宮があるのですって。
ある日少女は、夢を語るように言った。私はあれから何度か彼女の元を訪れていて、夜の来訪にも彼女は頓着なく私を迎え入れた。
何故だか分からない。
「ねえ、近くに沼があるのを知っている?」
「知っていますよ」
「わたし、あの沼が好きなの。時々外に連れて行ってもらえるときは、あの沼によってもらうのよ。父様も母様もいやがるけれど」
その沼の底に、美しい宮があるのだと言う。
「誰が言ったのですか」
「さあ、誰に聞いたのだったかしら。母様だったか、おばあ様だったか。覚えていないわ」
彼女自身が思い描いた、ただの幻なのか。夢うつつをさまようような彼女の笑みには、それが不思議ではなかった。
「沼の底には、きれいな鳥がいるのですって」
「水の中なのに、鳥なのですか」
「鳥なのよ、きれいなとりなの。白くて優美で長い首の鳥なの」
「魚ではなく?」
「魚もいるわ、銀色の鱗を輝かせて、泳いでいくの。水底のお宮から見ると、まわりのお水は空なのよ。空を魚が泳いでいくの」
「水の底は暗いのではないですか。闇に覆われて何も見えないように思います」
「そうかもしれないわ。だけど、水の底から見上げると、水面に揺れる光がきらきらときれいだわ。膜を通して、底に光が遊ぶの。その中で遊ぶの」
だからね、と少女は笑う。
あの沼を見ていると、沈みたくなるの。
言葉に詰まった。
守られてきた。それはただ、その命の儚さ故に。弱いものだから、庇護されている。
ただただ弱い。
世界を知らないが故に、ただ憧れの中に生きている。
「ねえ、今あの沼はどんな風かしら」
家からあまり出ることが出来ない彼女は、私が語る風景や物事をとても楽しそうに聞く。
夏には、白い花がたくさん咲き、緑の葉に覆われる水面が、今はただ黒いゆらめきを見せている。月を照り返し、ただそこだけが明るく、墨を流したような底知れぬ何かがそこにあるようだった。
白い花が咲く頃は、それは美しいのだろう。清らかな空気に満ちていることだろう。
話して聞かせると、少女はやはり楽しそうに笑う。
だけど、枯れた季節も美しいわ。
寂しいけれど、空気が澄んで美しいわ。
「人を好きになったことがある?」
問いかけは唐突で。
「鬼を愛すると、どうなるの」
どちらも知らない。
「ねえ、私を食べないの」
彼女は言葉を繰り返す。
「壊したいのですか」
問うと、やはり少女は無邪気に笑う。
壊したいの。
壊されたいの。
捨ててしまいたいの。
「逃げるのですか」
違うわ、逃げるのじゃない。
出かけるのよ。
そこへ行くの。
「あなたと行くのよ。先の世でも、地底でも、水底の世界でも」
ねえ、私を食べて頂戴。
私はあなたの血肉になって生きていくわ。
それが駄目なら、一緒に沼に沈んで頂戴。
白い花と緑のかわりに、夜霧に包まれて消えてゆくの。
そしていつか私も人でなくなるのよ。
肌の下まで透けるような白。
墨を流したような沼。
月に照らされる夜の藍。
あのときの彼女の、白い着物。
そして、夜霧にとける、少女の黒。
同じ光景と、まるで違う存在が混じる。
「何故君はここに立っていたの」
出てきた言葉は人が沈む伝承の残る場所に、魅入られたように立っていた彼女を問いただすようだった。でも、問われた彼女は猫のような顔で笑う。
「あなたも、どうしてここにいたの」
「特に、意味などないけど」
「わたしも意味などないわ。ただ、月のきれいな日は、夜に会いに来るの」
夜の空気を食べに。夜の空気を纏いに。夜の空気を。
夜に会いに。
「鬼が来るかもしれないから。鬼に会いに来るのよ。私、生まれながら心臓が弱いのですって。二十まで生きられないかもしれないの」
「投げやりになっているのですか」
「違う。生きられるのなら、生きられる限界まで生きるわ。だけど、ただ死ぬのなんてごめんだわ」
同じ血の少女。
あの時の少女には、確か姉か妹がいて、その血縁はこの地に生きている。
「だけど、あなたはなあに。どうしたいの」
「鬼だと言ったらどうしますか」
子守唄のかわりに聞いていたお話よ。物語の主に会うなんて、光栄だわ。夢みたいだわ。
彼女は笑いながら言う。
「恐くないのですか」
「だって、わたし死ぬのだもの」
あの日の少女と同じことを、彼女は言った。
そして強く続ける。でも、と。
「だけど、私は沼には沈まない。せめて誰かの血肉になって生きるわ」
私は、だから鬼に会いにきたの、と彼女は遊びごとではない顔で言う。
「あなたは、何をしに来たの」
あの儚い少女とは真逆に、黒を纏う少女は、鮮烈な目で彼を見返す。
「投げやりなひとに食べられてなどあげないわ。もう一度沼に沈むのなら、許さない。私を食べて、生きていくつもりなのなら、食べられてあげる」
夜に沈む色、あきらめたような、悼むような黒の服。だけど、死という言葉も命運すら裏切る苛烈さ。
あの少女にはなかったもの。
「この沼は、まだあるのですね」
私は、わだかまる色を見遣ってつぶやいた。
鎮まる山中を道路が横暴に貫き、人の手が入っても、あの沼はまだ埋められずにそこにある。
沼の水は冷たくて、体を切るようだった。
白い指が、泥に浸されてかき回す。冷たいわ、と嬉しそうに笑った。
我々の命が簡単でないことなど、分かっていた。
水に沈んだくらいでは、この永の命は朽ちない。
だけど、彼女と彼女の語る美しい世界にならば、いくことができると思ったのに。
それは夢でしかなかったのだ。
少女はひとりで沼に沈み、今でもあの泥の深い闇の底に眠っている。
きっと彼女の体はあの底で朽ち、泥に埋もれ蓮の根に絡まり、花を咲かせている。この身の血肉にはならなくとも、あの沼で白い花を咲かせている。黒の中で、未だ白く咲いている。
蓮華の花に包まれた浄土。
ひら、ひら。
大きな花びらが、小船のように水面を泳ぐ。
かつてあの日に、同族はあきれはて、怒った。
そして再びこの地を訪れようとした自分に、硬い声が問うた。
お前はそれで満足なのか。
夜のような髪を風に流して、上着のポケットに手を入れて、仁王立ちの女は無慈悲な顔で見ていた。
永の命に飽いた。血肉を食らう卑しさに飽いた。
だから少女と沈むことが出来ればと思ったのだ。でも、できなかった。
でも、と再び思う。せめて、あの水底で眠りにつくことができればと。
だけど、あの日と同じように、思いも寄らぬ出会いがあった。
命を奪い、それをもらい、生き延びていく。
満足だ。
終わり