「もう何回目だ、この葉っぱ」
「五回目」
「色も出ねえよ」
「味もしないかもな」
でも、贅沢品だぜ、味わえよ。
笑いながら差し出されたスチールのマグを受け取る。案の定、中の湯は大した色もついていなく、味も予想がついた。ただ、受け取った掌にじんわりと熱が広がった。
「珈琲がいい」
「手に入ればなそのうちな」
「お湯で薄めたのじゃなくて、一杯目の濃いやつがいい」
「お前、牛乳と砂糖がないと飲めないだろ。そこまで全部手に入らないよ。出がらしでも飲めるだけありがたく思えよ」
友達だから飲ませてやるんだぞと、陽一は軽く笑う。こんな世界なのに、こいつの笑いはいつも軽くて、時々腹が立つし、時々気が軽くなる。
大きな隕石が降ってくると恐慌が世界中を満たしていたのは、ついこの間のことで、本当に隕石が落ちてきた。
映画みたいにくじ引きがあって、俺は運良くそれにひっかかった。だけど映画みたいに五十歳以上は選別からはじかれて、父親は地下シェルターに入ることが出来なかった。老人は殺してしまえなんて、昔話みたいだ。そして知恵が必要なときになって、困るんだ、きっと。
母親と妹と三人で、皆が肩を寄せ合っている暗いシェルターで二年過ごした。
シェルターはちゃんと空調も完備で、あの状況から考えれば快適と言っても良かっただろう。地震とか台風とか、色んな被災者の様子をテレビで見たけれど、皆が体育館なんかに押し込められて、暑くて寒くてひもじい窮屈な思いをしているあれに比べれば、災害が分かっていてちゃんと用意されて準備されていたところに迎えられた俺たちは、よほど恵まれている。
動物もいる、植物もある。空気もある。水もある。寝るところもある。
ただ、空だけがない。父さんがいない。
あの日から時計は止まったままだ。父さんにもらったアナログの腕時計はもう回転しない。動いていれば金になったのにな、と言われたが、売るわけがない。
外に出ると、何もかもが崩壊していた。
逃げ惑った人たちの死骸と、その人たちがとにかく逃げようとまとめた荷物を見ていると、酸っぱいものがこみ上げてくる。吐きそうだ。だけど、吐くようなものはない。そんな場合じゃないんだ、そんな余裕はない。悠長なことはやってられない。
二年生き延びたけど、その先は誰も保障をしてくれない。
そして人々の家に取り残された様々な道具をめぐって、略奪が繰り広げられた。
外の様子はあまり耳に入ってこないけど、多分、日本は少しマシなんだろうと思う。平和だった頃に、外国で起きた災害から、一日で略奪が始まっていたのを見て驚いたものだった。基本的に、お行儀が良いのが遺伝子に組み込まれてでもいるんだろう。
今俺の目の前に座っている陽一が、いつか言っていた。
ノアの方舟だって、水がひいて陸地を見つけるのに百五十日かかったんだぜ、と。大雨の後で百五十日だ。隕石が降れば二年なんて短いものだとか。
さすがに、情報屋みたいなことをしてるだけあって、変な知識が多いヤツだ。陽一が、インパクト前に何をやってたのかはしらないけど、俺と大して年は変わらないように思う。話しているうちに気があって、いつの間にかヤツは俺を友達だと言うようになった。
そもそも人間は少ないから、それは俺もすごく嬉しい。飄々としたヤツだが、陽一も陽一なりに、寂しいのかもしれない。家族の話など聞いたこともないし。
微かなお茶の香りを味わって、ゆっくりと一口飲んでから、マグを離す。
「何か仕事ある」
「あるぜー。お前みたいな、若くて力のある男に出来る仕事はそこそこあるぜ。ラッキーだったな」
そう生まれついて。
ハイテクは死んだ。必要なのは、這いずってでも生き延びる意志、そしてそれを形にする力だ。
本当に、俺はラッキーだった。
「空が暗いね」
しっかりと手を繋いだ妹がつぶやいた。
空が赤いね。
腕時計をした俺の手にすがりつくようにして、歩いている。危ないから本当はずっと住処にいてほしいんだけど、今までずっと押し込められて窮屈な生活をしていたのだから、それもかわいそうで、たまに一緒に散歩する。
空が赤い。あれは夕日の赤さだけじゃない。燃えているんだ。どこかが。何の騒動も聞こえてこないから、きっとそんなに近くはないのだろう。ちょっとホッとする。
だけど、静かな道を歩いていると、時々降るように昔のことが頭に満ちる。朝学校に行って、先生に文句を言って、テストに悩んだ日々が。
「地に満ちよ」
そう言うなら、守ってくれればいいのに。それは都合のいい考えなんだろうけど。
そもそも、地球を守っていたオゾン層なんかを破り始めたのは人間だ。あれが隕石をどけてくれたわけもないだろうけど、だけど強烈な日の光から守ってくれるものを、共存していくべきものを裏切ってきたのは、人間なんだ。
――ああ、陽一のせいで、変な受け売りが思い浮かぶ。
沈んでいく夕日を見ていると、そういう気分になる。今日が終わる。明日もまた生きていけるだろうか。明日も目覚めるのが当たり前でないと知ってしまった今では、一日の終わりは、ひどく心が静穏になる。
このままだと、いつか世界は終わるかもしれない。
季節は狂っているし、雨は酸のようだ。
だけど人間は存外しぶとくて、黒い大地にも、なんとか種を植えようとしている。
ハイテクは死んだけど、それまでの知識は生きている。築き上げてきたものは、無駄じゃないんだ。人の頭の中に、生きている。だから、なんとか伝えていける。おばちゃんの知恵袋は頼れないけど。忘れたものもたくさんあるんだろうけど。
だけど無くしたものを泣いているだけじゃ、生きていけない。今あるものを生かすことを考えないといけない。
父さん、約束だから。
俺が守るよ。
終わり