日が遠く建物の向こうに沈み、西の空は余韻を残して寂しげな紫色に染まっている。その中に、ちらほらと勇気づけるように星が瞬き始めた時刻だった。
冷たい冬の風にさらされながら、少女は横断歩道の前で、信号が変わるのを待っている。小学校の一年生か二年生か、小さな体に見合わない大きな手提げかばんは、母親の手作りなのだろう。きれいにとかされた髪が後頭部の高い位置で結わえられ、肩先でゆれていた。
「おじょうちゃん」
声がしたが、少女は自分にかけられたものだと気がつかないようだった。さらに間近でもう一度声をかけられ、ようやく驚いたように振り返る。
「こんな時間にどうしたの?」
黒い学生服を着た少年が、少女をのぞきこむようにして横に立っていた。
「こんな時間?」
言われたことを確かめるように、少女は少年の言葉を繰り返した。夕日はもう沈んでいる。冷たい風の吹くこの季節、日が沈むのは当然早いが、それでも完全に沈んでしまった時間に、少女のような年頃の子供がひとりで外に立ちつくしているには珍しい。
――そう思ってから少年は、でも、最近はそうでもないのかな、とちらりと考え直した。けれども、子供を狙った犯罪が多発しているのは周知のことだ。
「ひとりでいると危ないよ。送ってあげるから、一緒に帰ろうか」
穏やかに笑って少年が言っても、少女は考えるように首をかしげた。ちょっとだけ目を少年の後ろにずらして、それから何かに思い至ったように言う。
「これってエイリユウカイっていうのじゃないの?」
こまっしゃくれた返答に、少年の笑みは驚きに変わり、それから苦笑になった。
突然現れて、にっこり笑いながら「一緒に帰ろうか」なんて言う少年自身が、確かに怪しいかもしれなかった。
「まさか、ぼくみたいな小心者には、そんな大それたことはできないよ。ついでに言うと、今のところ小学生の女の子は僕の女性の好みには入ってなくて」
少女は、弁解するというよりはのんきに世間話をする口調の少年に、ふうん、と相槌を打つ。特に疑っている風でもなかったが、少年はさらに付け足した。
「もし本当に営利誘拐だと思ったら、返事をする前に逃げないとダメだよ」
知識を持っていても、対応の方法を知らなくては意味がない。やわらかな口調で言う少年に、興味なさそうな目で青に変わった信号を見ながらも、あわてた様子もなく言った。
「いいの。わたしが危ない目にあったら、騎士が助けに来てくれるの」
「王子様じゃないの?」
「どうして?」
「女の子って、白馬の王子様に憧れるものだと思ってたよ」
「王子様なんて、強いかどうか分からないもの。騎士はね、お姫様に忠誠を誓って、守ってくれるの」
少女はませた口調で、つんと顎を上げて言った。
「あたしが危ない目にあいそうになったら、絶対現れて助けてくれるんだから」
何か、そういう物語でも読んだのだろうか。自信たっぷりに彼女はそう言い切った。
「なるほど」
それとも、最近の女の子はとてもシビアだということだろうか。
「お兄さんはなかなかかっこいいし、優しいみたいだから、騎士候補にしてあげてもいいわ」
なんとなく感心していた少年に、その女の子は精一杯胸をはって、おごそかに指名してくれる。
「光栄だね」
少年は、ちいさく笑みを落とした。
「でも、優しいかどうかなんて分からないよ?」
「だって、こんなにかわいい女の子がこんなところで立ってても、誰も心配して声かけてくれたりしなかったもの」
彼女の視界の先で、歩行者用の信号が点滅を始める。まわりを歩いていた人が、ばたばたと走って横断歩道を渡っていく。自転車が風をまきおこしながら通り過ぎて、冷えた空気が少年と少女をあおった。行き交う人々は誰もが不思議そうに、不審そうに彼らに目をやって、けれども何も言わずに通り過ぎていく。
「ここは、こんなに寒いのに」
どこかぼんやりとしたまなざしと声で、少女がつぶやいた。
「……そうだね」
少し愁眉を寄せて、少年は相槌を打つ。腰を落として少女と目線をあわせると、続けた。
「一緒におうちに帰ろう。お父さんもお母さんも、待ってるよ」
再度そう言った。声に出して言われた言葉で、ようやくそのことを思い出したかのように、少女はうれしそうに顔を上げた。けれどすぐにすねた表情になる。
「待ってるの? 今まで、ずっと一人でここにいたの。誰も迎えに来てくれなかったわ」
「待っていないわけがないよ。君に会いたいからこそぼくに、君を探しに行ってって頼みに来たんだから」
何食わぬ顔で声をかけてきたはずの少年がそんなことを言い出したので、少女は更に不機嫌な顔をした。だまされている、と思ったのかもしれない。
「うそよ。あたしがいるところ、知らないわけない。ピアノのお稽古に行ってきたんだもの、どこに行ってたかママは知ってる」
ピアノの稽古に行った先生の家か、その通り道か、少女を探そうと思えばまずそこを探せばいいはずだった。彼女が立っているのはその通り道で、探すのに困難な場所ではない。
そうつぶやいて、少女はさらにある事実に気づく。
「どうして探しに来てくれないの。どうして、自分で迎えに来てくれないの?」
母親が彼女を探しに来てくれれば、当然彼女自身も母親に気がついたはずだった。なのに、会わなかった。
「僕は詳しい話は聞いていないけど、もしかしたら、ここに来たくなかったのかもしれない。君の両親にとってはつらい場所だから。もしかしたら、ここに来ていたけれど、君が気づかなかったのかもしれない。君は僕が声をかけるまで、多分、ぼんやりしていただろうから」
「ママとパパが来てるのに、気がつかないわけない!」
少女は、とうとう怒りに任せて大きな声を上げた。
けれど少年は、そんな少女に対して穏やかに、厳かに、そうだね、とつぶやいた。
「でも、仕方なかったんだ。きっと、あまりに唐突なことだったから、君はわけが分からなかったと思うんだ。びっくりして、自覚がないままここにいたんだよ」
なるべく驚かせないようにと、少年はなだめるような口調で続ける。――多分、少女自身、気づきつつあることを。
「もし君のお父さんとお母さんがここに来ていたとしても、ふたりはもう、君を見ることができないんだよ」
ようやくその事実に気がついたかのように、少女は泣きそうな顔をした。少女の近く、ガードレール脇に、供えられた花束が乾いた風に揺られている。
東京都庁近く、大勢の人が行き交い、人の目も多い夕方、交通事故が起きた。
ふらふらとした運転で、そのくせ大変な速度で道を走っていた車は十字路を曲がろうとして、歩道に立って信号待ちをしていた人々の方へ正面からつっこんだ。ほとんどの人は間一髪で逃げたが、転倒して怪我をした者が数おり、足を轢かれた者がおり、そして一人がぶつかった。
ブレーキ音を響かせたが車は止まれず、そのまま車道に戻り、少女を引っ掛け血の帯を引いたまま数メートル走って行ったという。
ようやく止まると、運転手はふらふらとおりてきて、何を考えたか血まみれで動かない少女を抱え上げ、運転席側から助手席へ押し込むと、騒然と――もしくはあまりの出来事に呆然とする人々を取り残し、再び車を発進させた。
結局運転手と車は、近く東京湾へ車ごと飛び込んだところを目撃され、引き上げられた。運転手はすでに溺死していて、たくさんの人の目撃証言や、現場の遺留品、血痕などから、事故を起こした車だと特定された。相変わらずスピード違反のせいの事故死なのか、自殺なのかすら判明していない。
けれども少女の遺体は、車内にも、海底にも見つからなかった。潮に流されたのかもしれないと言う警察を、両親は泣きながらなじったが。
少女は見つからなかった。
そのことにしびれを切らした両親が救いを求めたのは、弁護士でもなく探偵でもなかった。
――悲痛な決断だっただろう。
我が子の無事を祈っている。けれども状況からして、生きている可能性はほとんどない。それでも我が子を探し出したい。その願いの末に、人のうわさを頼りに探し出して、子供を捜してくれるよう頼んだのが、彼ならば。
「あたしを探して来てって言ったの?」
「そうだよ。ぼくは、ちょっと普通と違うから、ぼくなら君に会えるかもしれないと思ったんだろうね。本当に信じていたのかどうか分からないけど」
彼らを、行きかう人々はやはり不審げな目で見ている。会話をしている少年と少女。何の不審もないのに――だがもっと注意をして観察していれば、人々が見ているのは彼らではなく、悲しげに笑う彼であるのがわかる。
「あたしに会いたいって、言ってたの?」
そうだよ、と少年は再びうなづく。
「ご両親にとっては、日食が起きたようなものだからね」
「日食?」
「月の向こうに太陽が隠れちゃって、太陽がいなくなることだよ」
けれども日食は永遠に続くことなどない。
昔の人は日食を恐れたというが、現代に生きる人間にはそれが何の災いのしるしでもないことを知っている。
けれども親にとっての太陽は、永遠に月の影からあらわれることはない。
太陽の亡骸を手に入れたから、どうだというのだろう。二度と輝きはしないのに。
――けれども、きっと無残な姿をしたまま放り出されているのを、無視することができるだろうか。たとえもう以前と同じように、笑って話して、元気に走り回る姿を慈しむことができなくとも。
取り返したいと思わずに、いられないものだろう。
「でも、ここから動けないの」
悔しそうに泣きながら、少女はつぶやく。帰りたいのは、会いたいのは、彼女自身だって同じだ。
「大丈夫だよ、君は気づいたから。帰りたいだろう?」
少女の頬に手を伸ばして、少年は少し微笑んだ。普通とは違う、と言った少年の手は、彼女の涙をぬぐっていた。手のひらは、そこに暖かな温度を感じることはなかったが。
「君の体を見つけて、一緒に帰ろう。君は多分、もう感じることはできないだろうけど、お父さんとお母さんは抱きしめてくれると思うよ」
たぶん、君が眠っているところよりは、ずっと暖かいと思うよ。
少年の言葉に少女の返答はない。泣きじゃくる彼女には、応える余裕などなかったのだろう。――帰りたくないわけがない。
再び彼らのいた交差点の信号が変わり、人々の流れが動き出した。かつて彼女が、家に帰ろうと待っていた信号が青く光っている。
「さあ、お姫様」
少年はうやうやしく手をさしだした。
呼びかけられた少女は濡れた目で少年を見て、信号を見てから、視線を戻して少年の手を見る。
そしてようやく、彼の手を強く握り締めた。
終わり