「それはそうと」
再び中年女性に声をかけられて、奏は苦笑しながら、問うような眼差しを返す。なんですか、と。
「わたしの肩も揉んでくれると嬉しいわねえ」
にっこり笑った、どこか媚びのある顔で言われて、二人ともきょとんとする。更に、彼女が言い出すといつの間にか彼らに注目していた他の女たちも次々に名乗り出てきて、奏はぽかんとしたまま、どうすればいいものか困惑してしまった。どうやら彼女たちはずっと、声をかける機会を狙っていたようだった。慎司が姿を現す前から。
蓮は不満そうに女たちを睨みつけるが、奏は断るという行為があまり得意ではない。相手は客だったし、蓮の機嫌を気にしながらも、それじゃあ、と女たちの輪に飲み込まれてしまう。
蓮はふてくされて、先刻の団子を頬ばり始めた。その目に、突然少年が飛び込んでくる。
苦しげな呼吸で駆けてきた彼は、蓮の隣りにどすんと音をたてて座ると、奥に声をかけようと首を伸ばして、やめた。今気がついたという様子で、不機嫌な蓮を怪訝そうに見る。それから女性に囲まれて困っている奏を見比べる。何が分かったというわけではないだろうが、にやりと笑うと、奏に向かって飲み物を注文した。
「恋人にすっぽかされでもしたのか」
首を傾けて蓮の顔を覗き込むようにして、からかう口調で声をかけて来る。
「うるさいな。あんなの恋人じゃないって」
「へえ、図星だ」
けたけたと笑う、という形容が最も合うだろう。そういう、相手を不快にする声の調子だった。
「違うね。そんなものじゃないね。ぼくと奏は一心同体なんだから」
「だからそう言う事を、人前で言うなって言っているだろう。誤解されるから」
いつの間にか、手に湯飲みを持って奏が後ろに立っている。蓮に小言を言ってから少年に湯飲みを渡した。すると少年はすぐに渋面になった。
「なんだよ。走ってきて暑いところに、こんな湯気の立ったもの出さなくてもいいだろ」
「残念ながら、暑いものしかなくてね。冷えたものより、あったかいものの方が体にいい」
「年寄りくさい」
「小言もらいに来たんじゃねえよ」
もったいぶって言ったところに、蓮と少年と両方から非難の声があがって、奏は少しやれやれというように肩を持ち上げた。
「それはそうと、少年。緑の着物に、烏の濡れ羽色の髪、きつめの顔。久我綾都かい」
「呼び捨てにするなよ。偉そうに。俺を何だと思っているんだ」
少年の返答は、疑うまでもなく肯定だった。慎司とはまるで態度が違う。
先刻まで奏に構っていた女たちが、困惑顔、もしくは不安そうな、迷惑そうな顔で遠巻きに見ている。それは現れた少年だけにではなく、奏にも向けられていた。頼むから、やっかいごとを起こしてくれるな、という類の眼差し。
それらを尻目に、奏は少し腰を折り少年と目線が近くなるようにすると、いたずらをした子どもを叱るような口調で言った。
「さっき、君のとこの人が探しにきていたぞ。あんまり家の人を心配させていないで、とっととおウチに帰りなさい」
名前を当てられた時点で、表情に不穏なものを混ぜていた少年の顔から、瞬時にすべてが消えた。それから、不機嫌と言うのでは簡単すぎる、高慢さと侮蔑の入り混じった顔で奏を見た。そうして他人を見るのが、当然だと思っている顔だった。
生意気だなどと怒ることなど出来ない、こちらが怖気づいてしまうような豹変と、慣れた態度だった。奏は少し驚いた様子を見せたくらいだったが。
「おい」
少年が、後ろへ向かって声をかける。ちょうどそこには、店の中にいたはずの店主が蒼白になって立っていた。
軒先の様子がおかしいのを見て事態を察し、慌てて出てきて、少年につられて振り返った奏を黙らせようと拳を上げたところだった。少年の声に一拍おいて、ゴツンと硬い音がする。
「アイテッ」
「申し訳ありません。これが何かしましたか」
明らかに動揺しているはずなのに声は揺れているというより、ただ硬い。むしろ緊張の方が強いようだった。何事かと見ている奏を、少年の視界から締め出そうとするかのように強引に脇へ押しやってから、所在なさそうな手を落ち着きなく前掛けで拭っている。濡れてもいないのに。
そんな、誰が見ても様子がおかしいと言える店主を、その点に関しては少しの疑問も浮かべていない顔で見上げて、むしろ当然だという態度で、少年は言った。
「お前のとこの、この生意気なのはなんだ」
今度は奏が何かを言うより早く、更に奏を押しのけるようにして、店主が口早にまくしたてる。
「先頃、食事にこちらへ立ち寄った旅の者でございますよ。食事をした後で、財布をすられたと言ってきたもんですから、代金がわりに手伝いをさせていまして」
「なるほど、余所者か。道理で、見ない顔だと思った」
少年の顔に、にやりと笑いが戻っていた。
「間抜けなのは面だけじゃないみたいだな」
その声と同じように、卑下するものが強く含まれたものだったが。
少年の態度が少し和らいだと、人々は肩に入った力をほんの少し抜いたようだった。そんな中奏は、少年の隣に座る蓮が、不穏な空気を振りまき始めているのに気づいてしまった。内心焦りが満ちる。
それを表には出さず、まったく大したことではないというのを主張するように、人のいい顔でにっこり笑った。
「これが中々、直らないものでね」
さすがに、少年は少しばかり怯んだようだった。険を含んだ物言いと態度をした自分に、これだけ邪気のない対応が返ってくるとは思わなかったのだろう。けれどそれに余計腹がたった様子で、ごまかすように眉間のしわが深くなった。更に何かを口に出す前に、今度は店主の方が素早く言った。
「これでも、そこそこ役にたっておりましたのですが、今日はもうお客も少ないもので、そろそろ開放してやろうと思っていたところだったのですよ。まだ代金には足りませんがね」
なんとか穏便に事を運びたい店主の心の内など完全に読みきっているような顔で、少年はふうん、と喉の奥でつぶやいた。
「じゃあこいつ、解雇か」
たったそれだけ。その一言で、自分が経営しているわけではないこの店のことを、自由にできるのが分かっている口調だった。
街道を北上しながら、奏は盛大にため息をついた。荷物を背負う背が丸くなって、力なく肩が落ちている。
「嫌われちゃったな」
唐突な出来事と店主の態度に、奏は半ば呆然と、半ば悲しそうにつぶやいた。追い出されるというよりは、追い払われたも同然だった。要因になった少年を恨むでなく、庇うような素振りを少しも見せなかった店主や、周りにいた人間たちへの文句を言うでなく、彼が気にして落胆しているのは、そんな生易しい一点だけだった。
少年だけでなく、きっと店主にも、確かにいい思いは抱いてもらえなかっただろう。店主の場合、厳密に言えば嫌われたと言うよりも、迷惑がられたのだろうが。
「だから、お節介もいい加減にしなっていつも言ってるだろ」
蓮は容赦なく言い放った。どうやら彼は大層不機嫌なようだった。言うまでもないことだが。
「奏のせいで、どうしてぼくがこんなに不愉快な思いしなきゃならないんだ。あんな小僧、高貴なお血筋か何か知らないけど、もっと厳しく教育してやれば良かったんだ」
奏のために怒っている、というよりは、少年の態度に腹が立ったのに、そのことへの文句も言わず制裁もせず、簡単に追い払われた奏に腹をたてているようだった。傍若無人ぶりで言えば、蓮も少年も大差ない、と奏は思う。
「一応、きちんと家に帰るようには言ったし、部外者が口をはさめるのはその程度だしねえ。別に悪口言われたわけでも、危害加えられたわけでもないし、逆にこちらがいじめる理由はないだろ」
「危害ね」
ぶつぶつと愚痴を言うような口調での奏の言葉に、蓮が大声を上げて立ち止まった。彼らの近く、街道にいた人たちが何事かと視線を向ける。
夜が来る前に山を越えてしまいたい旅人たちは、ほんの少し顔を向ける程度、近くの店の軒先にいた人間は、少し迷惑そうな表情で、身近にいた人と何事かをつぶやいている。
蓮は、そんな人々の反応など、まったく視界に入っていないようだった。ただ奏が、まわりの過敏な反応に、困ったような顔をしたのには気がついて、それが余計に彼の怒りを煽っている。
「あれが悪口でなくてなんだって言うんだよ」
「でも、普段から蓮に言われ慣れてる単語だったから」
「それは、ぼくだからいいんだよ。他の奴に許可した覚えはない。だいたい普通に考えて、あれを悪口じゃないなんて言う人はいないだろ」
許可が必要だったのか、とのんびりと思った直後、蓮の口から「普通」という言葉が飛び出して、奏は顔中の筋肉から力が抜けるのを感じた。ぽかんと口が開いて、はあ、と呼応ともため息ともつかない声がもれる。
「なんて顔してるんだよ、間抜け」
当然のように、再び叱責が飛ぶ。さすがに、何事かと振り返る人の顔が多かった。
けれども、火に油を注いだ状態の奏がハッとしするよりも先に、彼らの後ろで笑いが弾けた。唐突な、そして無遠慮な高笑いに、奏は純粋に驚きで、蓮が怒りの表情で振り返る。
邪気のない笑い声をあげているのは、真っ黒な髪をした、痩身の少年だった。きつめの顔だちは、楽しげに笑っているせいで色を変えていた。とても愛嬌の良い、明るい少年に見える。
「やっぱ、馬鹿だなお前ら」
嫌味でなく屈託なくあっけらかんと言われて、奏はやはり怒るでなく、一緒ににこりとする。蓮の眉はきりきりとつりあがる一方だったが、少年は構わずに続けた。
「おい、感謝しろよな。あの調子で一日働かされるところを、俺が解放してやったんだからな」
見方を変えれば、そういうことになるのかもしれない。
「うん、でも、あれは俺が金を払えなかったから仕方ないと言うか、当然の労働だったんだけど……。うん、でも、あの調子だったら蓮が退屈して大変だったろうから、とりあえず、ありがとうな」
少年に吐かれた暴言のことはすっかり忘れた様子で、奏はにっこり笑いながら応える。すんなり礼が返ってくると思っていなかった様子の少年は、少し拍子抜けした様子で、おう、と言った。
「おかげで、思ったより早く発てそうだし」
「腹ごしらえしてからね」
苛々しているのを隠しもしない声で、蓮が奏の後を継ぐ。奏は目を丸くして、会話をしていた少年から、蓮の方へ視線を移動させる。
「まだ食べる気か」
「甘いものとご飯は別腹。だいたい、山越え終わるまで、食料調達なんて出来ないのに、しっかり食べもせずに行くつもりじゃないよねえ」
奏の不幸を楽しみながら散々食べていたはずの蓮は、何の文句があるか、と胸を張って言う。しかも、その後半の言葉には一理あった。
「まあ言われてみると、俺も腹減ってる気がしてきたから、その辺は後でじっくり話し合うとして」
宥めると言うよりは、とりあえず半分納得の声で言ってから、奏はくるりと少年の方へ向き直った。
「それで」
会話の流れから、自分に再び話題が戻ってくると思っていなかった少年は、今度はきょとんとした顔で奏を見上げた。
「何か用があったんだろ」
「別に、用なんてないけど。変な奴らだなと思っただけで」
「ふうん」
それでついてきたのか、と奏の相槌には言外に含まれている。放蕩、と噂されてしまうのも仕方ないかもしれない。
綾都は少し中空に目をさまよわせ、考えるような仕種を見せると、唐突に奏へ視線を戻して言った。
「泊まるところあるのか」
問われて、奏はきょとん、とした顔をする。その表情を見て、少年の方も、ぽかんとした顔をした。奏が何か言う前に、呆れた声を出す。
「もしかして本当に、今から腹ごしらえをした後で、山を越えるつもりなのじゃないだろうな」
「何か問題でもあるのか」
問いかけに対して逆に、何の不思議も抱いていない質問を返されて、少年は更に力の抜けた表情になった。
「こんなに間抜けな旅人がいるとは思わなかった」
「そんなにまずいかな」
「今日中に山を越えたきゃ、腹ごしらえなんてのんきな事言っている間に、さっさと出発するのだな。今からなら、ぎりぎり夜が更ける前に向こうっ側に辿りつけるかも知れない」
「この山って、そんなに大きかったかな。あまり覚えてないけど」
「前にも来たことがあるのか」
「随分と前にね」
自分と変わらない年頃の奏に、随分と前、などと言われたからか、綾都はいぶかしげな表情をした。
「なら、知っているだろうが。この町を囲む山はどちらも、結構険しいことで有名で、夜になってからの移動は命取りだ。山で一夜過ごすにしても、ここの所有者が言うには情けないことだが、そんなに治安がいいとも言い難い」
山に囲まれた町のこと、人々が先を急ぐ理由を知ってはいたが、「命取り」とまで言われるほど深刻だとは思っていなかったのだろう。さすがに奏は少し困ったようだった。
「うーん、そうかあ。ちょっと難儀しそうだなあ」
宿かあ、と声を出す。問うように蓮を見るが、蓮は会話に興味を失っている。
別に急ぐような用事も無いが、山の中で夜を過ごすことになっても、別に頓着しない。それ以前に、奏には財布が無いが。
「なんだったら、うちに泊めてやってもいい」