月に降る雨と懺悔




「は」
 少年からの唐突な提案に、奏はぽかんとした顔をして、少し間抜けな声を出してしまった。
「なんだよ」
 ぶすっと脹れた顔をして少年は不機嫌な声を出した。茶店の主人に向けたような表情ではなく、思い通りに物事が進まなかったときの少年そのものの顔だった。くるくるとよく表情が変わる。
「不満なのか。子爵様の家だ、そこいらの高級旅館など足元にも及ばない。お前ら、飯だって部屋だって寝具だって、一生できないような贅沢だ」
「いや、そういうことではなくて」
 困ったように奏が言う。
「人とあんまり関わりあいになるのは、困るんだ。覚えられちゃったら、あと五十年はここに来られないから」
「なんだそれ」
 綾都が眉を吊り上げて、奏を睨み付けた。奏が、しまった、という顔をする。少年には冗談が通じなかったらしい。その横で、蓮が飄々と言い返す。
「駆け落ち中だから、人に顔覚えられるの歓迎できないんだよねえ」
 断る口実とも冗談とも、本気ともとれない、得意満面だった。
「いや、だから蓮は、人に誤解されるからそういうことを言うなって、いつも言ってるでしょう」
 奏は困ったように、小さく息を吐く。
「それはともかく、お前さん無用心だろう」
「なんだよ、遠慮しているのか。俺が言っているのだから、気にする必要ない」
「いや、そうではなくて……」
「うちの財産なんて勝手に持って行けばいいし、俺だって慎司だって、勝手に殺して逃げればいい」
 まるで分かっていないような綾都の言葉に、無用心だ、と重ねて言おうとした奏の先を制して、少年は言った。その危険性に気がついていないのかと思っていたが、そうではなかった。相変わらず高飛車で、陽気な表情のままだったが。
 こうなると、その危険は知っているが、理解はしていないのではないかと思えてくる。
「いちいち説教じみたことは言いたくないけどね、命は大事にしなさいよ。先が見えててもね」
 病弱だ、という、小耳に挟んだ程度のことだったが、嫌味でもなく親切めかしてでもなく、忠告を口にする。言われた少年は、少し驚いた顔をした。
「あのな」
 怒るかと思った。けれど少年はにやりと笑う。
「そんなこと、お前に言われなきゃならないことか」
「俺に言う筋合いがなくても、俺は言います」
 何せ、お節介だそうだから、と奏は言う。
「お前さん自身の命を秤にかけるのもあまり、歓迎はできないが、それに増してあんたの従兄弟も勝手に乗せたらいけないよ」
「いいんだよ、それは」
「あんたのそれは、人を殺すのと変わりないよ」
「そうかな」
「正しいこととか、悪いこととか言うものは、最低限、どんな事情があろうとも、許されるものと許されないものがあるだろう」
「慎司を振り回すなっていうことか」
 自嘲気味に、少年は問う。先刻までは楽しげに笑っていたくせに。
「お前に、何が分かるって」
 その声音は、憐憫のようだった。


「綾都」
 後ろから突然声をかけられて、綾都が振り返る。奏が綾都の肩越しに見遣ると、少年が駆け寄ってくるところだった。
 綾都が、大げさに舌打ちをする。
「綾、やっと見つけた」
 辿り着くと、慎司は肩で息をしながら、顔をそらした綾都の前に回りこむ。荒い呼吸で声がはねている。
「綾、お願いだから、戻ろう」
「そんなの、お前が決めるな」
「でも綾、朝より顔色が悪いよ。安静にするようにって、医者に言われてる」
「綾、綾ってうるさいな!」
 容赦のない声が、相手を怒鳴りつけた。人々が、遠巻きに見ている。特に町の人間の視線が、集まっている。嵐のようだ。くるくると表情が変わる。笑い、疲れ、自嘲し、怒り、思わぬところから風が吹き付ける、気ままな嵐のようだ。
「俺の命だ。どうしようと俺の勝手だ」
「でも綾、それだったらもっと、大事にして」
「お前が言うな」
 再び吐き捨てられる。
「俺にないものを何もかも持っているくせに。何もかもお前が奪ったんだ」
 怒気を向けられ、慎司が声をなくしてしまう。
 言葉を無くし、ただひたすら悲しい表情で、口を閉ざす。苦しそうに呼吸をして、それが更に彼の悲しみを物語っているようだった。
 なんとか唇を開き、喘ぐように、声をだす。
「綾」
「うるさいなあ」
 綾都は顔を背け、さえぎるような大声をあげた。くるりと踵を返す。遠巻きに彼らを見ていた人々を、無言で睨みつけた。
 人々は慌てて目をそらして、そ知らぬふりをする。わざとらしいくらいに、最前までの行動を再開する。その間を縫って、綾都が大またで歩き出した。ハッとした様子で、慎司が彼の背を見る。
「すみません」
 取り残された慎司が、奏と蓮に言う。そして、誰にとも無く頭を下げた。
「すみません。お騒がせしました」
 それから、慌てて綾都の後を追う。


  ※


 黒い沼に水を擦り合わせる。水は滲み、黒が染み出し、濁りを帯びた光りを放つ。
 硯に満ちた黒い波に、まろい手が握る筆が浸された。丁寧に筆先に墨を含ませ、白い紙の上に降ろす。柔らかな紙に触れると、黒い染みが落ちた。迷いのない曲線は形を成していき、ましろな世界に命を吹き込んでいく。
 その軌跡を横から見ていた少年は、形作られていくものに、感嘆の息を吐いた。
「椿」
 紙面に、墨だけで描かれた椿の花。色彩のない世界に鮮やかさはないものの、ぱきりとした椿の、清涼な佇まいが静かに描き出されていた。
「うん。ちゃんと、椿に見えるかな」
「当たり前だ。うまいな、慎司は」
 幼い少年の顔が華やかに笑う。
「綾、椿が好きでしょう」
 うん、と今度は綾都が笑って応える。
「これ、すごく好きだ」
「もっとたくさん、色が使えたらいいのに」
 慎司は、小さく嘆息してつぶやいた。
 鮮やかな、赤。花弁に色を添えたい。そうしたら、もっと綺麗に咲いてくれるだろうに。色見のない自分のようではなく、命の明るさに溢れた綾都のように。
「俺はこれも好きだけど、確かに、色があっても綺麗だろうな」
 絵の道具がほしいな、と悔しそうに綾都が言う。
 外には雨が降っていた。開け放した戸から、さざめく様な音が忍び込んでくる。降りしきる紅雨に、庭に満ち満ちた緑が、花が、土が、煙るような香りを漂わせていた。湿り気を帯びた、匂い香のように閉じ込められた空気だった。
 軋む廊下を歩く足音が聞こえ、絵を描いていた慎司は、ぎくりと顔を上げる。筆を置き、座卓の上の紙を隠そうとしたが、失敗した。慌てたせいで筆を置き損ね、黒い墨を吸った筆は、白い紙の上に咲いた花の上に落下した。無残な染みを残し、転がっていく。
 姿を見せた人物は、その物音に、眉根を寄せた。
 動きを止めた筆を見て、慎司の前に置かれたものを見た。
「慎司さん。またそのような」
 少し癇の強さを滲ませた声が降る。老いた女は、少しの姿勢の歪みもなく、背筋を伸ばして立っている。佇まいは品に溢れ、仕草は優美だ。だけども彼女の姿は、気の強さを、折れ曲がることを知らない、許せない性格を感じさせる。声そのままの、神経質さの表れた顔立ちだった。
「すみません」
 でも、と続けると、祖母は更に顔を顰めた。不快、というわけではなく、不機嫌と言うわけではなく、ただつまらないことを耳にした、と言う顔だった。
「慎司さん。そのような、はしたない物言いをなさるものではありません」
 少年は、ますますうなだれて、はい、と応える。
「あなたは、久我のお家を担って行かなければならないお人です。絵など描いて遊んでいる間に、たくさんやらければならないことがおありでしょう」
「……はい」
「書き取りは」
「終わりました」
 隣に広げた論語の書籍と、ずっと続けていた書き取りを見せる。祖母はそれを認めても、良いとも悪いとも何も言わず、ただ、つと手を出した。
「お貸しなさい」
 問うように、窺うように、そっと慎司が見上げる。相手の目線は彼の手元を見ている。
 慎司は再び目を落とし、もう、すでに命を無くした椿の花を、祖母に渡した。細く骨筋ばった手で、祖母はつまらなそうに受け取ると、そのまま紙を二つに切り裂いた。何の感慨もない表情で、無慈悲に。簡素な音が空気を細く乱す。
「せっかく、慎が描いたのに」
 高い声が上がった。
 背筋を伸ばし、座卓に手を突いて半ば膝立ちになった綾都が、鋭く続ける。
「きちんと、言われたことは終わらせていました。慎司は悪くありません」
「終わったなら、次にすべきことがある筈です。怠けてよろしいなどと言ってはおりません」
「でも、慎司には折角、才があるのに」
「そのような小才、役には立ちません」
「おばあ様に、小才かどうか、分かるのですか」
 はきはきとした声で、綾都が言い返す。さすがに言い過ぎだ、と慎司は色白な頬を更に青褪めさせた。綾都の袖を引く。けれど綾都は少しの怯んだところもなく、歪みない眼差しで祖母を見上げていた。
「綾都さん、あなたは黙ってらっしゃい」
 祖母の眦が釣り上がる。
「どうしてですか」
「綾都さん」
 声が乱れる。辛うじて、甲高く喚き散らしたものにならないのは、彼女の誇り故か。
「あなたは、久我の家の者であって久我の家の者ではありません。泥の血の混ざる子は、お黙りなさい」
 慎司の顔がますます蒼白になる。対して、綾都は怒りに頬を染め、強く相手を睨みつけた。更に言葉を口にしようとするのを、慎司が必死に袖を引いて止める。それにようやく気がついて、綾都は慎司を振り返った。そこにある怯えた、そして悲しそうな顔を見て、瞳に篭っていた怒りが引いた。腰を落とし、座り込む。
「口答えの罰です。二人とも、廊下に出て正座していらっしゃい」
 しかしとうとう、祖母の勘気に触れてしまったようだった。雨の吹き込む渡廊を指して、彼女は言った。いつまで、とは言わない。以前も、数刻もの間、同じように座らせられていたことがあった。冬の寒い最中に、凍えて立てなくなる程。
「お爺様にもお伝えしておきます。明日には戻っていらっしゃいますから」
 祖父は、武士が刀を挿して歩いていた頃の、武家の人間だ。今は貿易などの事業を主に人間を動かしているが、元は武断の人だった。厳格で、融通の利かない、そして弱いものが嫌いな人だった。絵を描くのも教養のうちとは認めず、子供たちが自分の許容の内にないことをすれば、容赦なく打ち据えた。
 慎司の肩がびくりと震える。それを見て、今度は綾都が、悲しそうに、そして再びの怒りを込めて唇を噛み締めていた。


「綾都、ごめんね」
 青褪めた唇を震わせながら、慎司は揺れる声で呟いた。
 しとしとと、雨が膝を濡らしている。ぬるい香りの中に、冷たい雨が降る。目の前の庭の草木が、しずくの重みに揺れている。
 並んで木の床の上に正座した綾都は、首を振って言う。
「口答えしたのは俺だから、ごめんな」
「ううん、ありがとう」
 慎司は頭を振り、笑みを滲ませて綾都を見る。綾都は、安堵したように笑みを返した。それから、強く怒気を孕んだ息を吐いてから、顔を前に向けて言った。
「どうせもう少し大きくなったら、東京の学校に行くことになるんだ。こんな家、出て行ける。もう少しの辛抱だよ」
「家を捨てるの」
「別に、捨てなくたっていいよ。いつかは慎司のものになるんだから、今だけ頑張って我慢していれば、いつかたくさん、楽しいことができるから」
 それも決して、遠い先のことではない筈。そればかりを思い描いて、耐えている。
「いつか、一緒に、外国に行こうな」
 二人で痛みを分け合って、先の楽しみを語ることでしか、歩んでこれなかった。
 だがそれは、何にも勝る楽しみだった。現実になることが難くない、絵空事ではない物事のはずだから。今さえ耐え抜けば。
「うん」
「たくさん、色んなものを見て、色んなことをして、お前は、色んな絵を描くんだ」
 それが俺の楽しみでもあるから、と綾都は笑う。
 慎司は、素直に頷く。
 閉じ込められた世界。歪められた、押し込められた世界だった。
 それでも、明るかった。例え淀んではいても、痛みばかりでも、明るかったのだ、本当に。