「もしかして、町でお会いしましたか」
盆で運んできた湯飲みを奏の前に出しながら、慎司が言った。奏は少し驚いた声を出す。
「よく覚えていたね」
奏は町で会った慎司のことを覚えていたが、通りすがり程度だった彼のことを慎司が覚えているとは思わなかった。あれだけ動転して、綾都を連れ戻すのに必死だったのに。
「綾都があんなに笑っているのをみたのは久しぶりで」
少し憂いを含んだ顔で、慎司が笑う。
そうかい、とこちらも少し困った顔で奏が応じた。薄い湯気の立ち上る、擦れた濃緑の器を両手で包むようにして持ち上げる。抱えるようにして、じんわりと掌を浸すような温もりを少し味わい、奏はくすくすと笑いをこぼした。
「楽しそうですね」
向かいに座した慎司は、問うように首を傾ける。ああ、と奏が頷く。あんたと一緒だよ、と。
「蓮はあんまり、他人に興味持ったりしない奴だから」
めずらしいなと思って。奏の言葉を受けて、慎司は微笑んだ。
「仲がよろしいのですね」
「まあね。俺たちも、他に身寄りがないから」
ああ、と慎司は納得した様子で目を伏せた。奏が彼らを気にかける理由が分かったと思ったのだろう。親近感のような。
目を上げると、彼は不思議そうに問う。
「どうして、こんな時間に、こんな場所におられたのですか」
「いや、別に不審なことをしようとしていたわけじゃないんだけどさ」
奏は少し言い淀んだ。
「まさか、今から山を越えようと」
「そのつもりだったんだけど」
「それは無用心すぎます」
驚きを含んだ声が返る。
「君の従兄弟にも言われた」
また言われるだろうから、言いたくなかったんだけど、と苦笑する。慎司は逆に、楽しそうに笑った。
「泊まるところがみつからなかったのですか」
「いや、そういう訳でもないんだけど」
無謀なのか暢気なのか、真意の見えない旅人に、慎司は頓着無く言った。
「よろしかったら、泊まっていかれませんか。部屋なら、たくさんありますから」
「無用心だなあ、君たちも」
「綾都もそう望んでいるみたいですから。ぼくは綾都の望みなら、かなえたいだけです」
綾都に何でもしてやりたいという彼の願いを断りきれず、奏は困ったなあ、とつぶやいた。
「何か、急ぐ予定があるのですか」
「いや、特に旅のあてはないんだけどな。この間立ち寄った村で、良くしてもらったおばあさんに、孫への贈り物を言付けられちゃってね。それくらいかな」
「郵便は」
「お年寄りは、そういうの心元ないんだって。新しい制度に慣れるのが大変だって言ってたなあ。俺みたいな他人に預ける方が心元ないだろうし、郵便の方が早いと思うんだけど。俺も、気持ちは分かるからさ」
まあ、そんなに大急ぎで届ける必要はないんだけど、と奏は笑う。
「それじゃあ、世話になろうかなあ」
「どうぞ、遠慮なく」
うん、と応えて、奏は天井を見上げた。
「それにしても、大きな屋敷だな。驚いた」
「ええ、古いだけですが」
「お金持ちとか名家の家ってのは、みんな対外向けに、洋風になったのだと思ってたよ」
「東京の本宅と、横浜に別宅があるのですが、そちらは洋風にしてあります。ご興味がおありでしたら、ご自由に出入りできるように手配しておきますよ」
「いや、そこまでしてもらう理由がないよ」
奏が慌てていうと、慎司は笑う。
「この家は、古くからあるものだから、祖父も変えたくなかったようで。ぼくらも幼い頃は、ここで過ごしたんです。祖父にとっても、意識の上ではここが本宅だったのでしょう」
「それにしては、人が少ないんだな」
「もともと、必要がないものですから。お食事の用意など、ぼくのような男手では行き届かない内向きのことをしてくださる方と、時々お庭を整えに来てくださる方がおられるだけで」
それに、と何でもないことのように、慎司は続ける。
「部屋も、ぼくと綾都がつかう部屋以外は、閉めてしまいました」
がらんとした空間と、閉め切られた部屋の連なり。空虚と閉塞。そういうことかと妙に納得する反面、驚きと、静かな悪寒が心の中に忍び寄ってくる。
「少しの人手で足りる家じゃないだろう。ということは、坊ちゃん、家事なんかもしたりするのかい」
「来てくださっている方だけでは手の足りないときもありますし、そういったときはもちろんぼくも手伝わせていただいています。綾都の看病をする以外には、ぼくはほとんど隠居のような暮らしをしておりますから」
「華族の若君とは思えない」
「家を継いだとはほとんど名目のお話で、ぼくのような若輩には祖父や父がしていた事業の事もよく分かりませんし」
「そんなこと言っていていいのか」
「以前から父の補佐などをしてくださっていた方々にお任せして、ぼくは時々現状や報告などを教えていただいている程度ですから」
それは、聞きようによっては、とても投げやりな言葉だ。
少年がよほど家業に通じていて、父の部下たちが何をしていようと見破る眼力がある、もしくは父の部下たちが彼を支えることを使命のように感じているような場合、そうでなくても、皆よほど誠実な人柄でなければ、家の事業も何もかも、掠め取られる危険性のあることではないだろうか。
上の人間は静かに構えて、落ち着いているのが一番かもしれない。すべて下の人間に任せて、動きを目で追っていれば良いものかもしれない。けれどそれをするには、人望やそれなりの経験が必要ではないだろうか。慎司はまだ若すぎる。
しかしそれは奏が穿った見方をしているだけで、実際には慎司と彼らは、とてもよい信頼関係に結ばれていて、慎司はこんなことを言いながらもきちんと経営のことなどの勉強に励んでいるのかもしれない。何一つ、部外者が横から口を挟む必要などないのかもしれない。実際、ほとんどの場合はそういうものだろうが。
けれども、どうしても、家の財産など、掠めとられたところでまったく気にならないのだと言われた気がしてならない。
そう、まるで昼間、綾都が露骨にそう言ったように。ただ単に、それが記憶にあるから、思ってしまうのかもしれないが。
「お家は今何を。たしか、商売をしているとか聞いたけども」
「ええ、祖母の家の縁で、海外との商売を。子爵家と申しましても、その程度の家なのですが」
新しい世に変わり、朝廷が都を移してから、さまざまなものが変わった。その一つが身分の変化で、四民平等を謳いながらも、族を分けた。四つのうち一つが華族。はじめは身分に煩く区分けしたが、維新の功労者や、国への貢献者を華族へ振り分けるうちに、彼らの数が増えたのも事実だった。だが、増えたと言っても、一握りであることに変わりない。
「そうか」
少し考える風にして、奏は言葉を紡ぐ。
「家を継ぐ、と言ったけど」
家督を継ぐために、学業を休んで、戻ってきていると町の人間も言っていた。
「本当に、爵位を継いだのかい」
「そうおっしゃいますと」
「身分は知らないけど、爵位を継ぐなら宮内庁に届出が必要だろう。きちんと手続きをしているのか」
「お詳しいですね」
「まあ、放浪も長いし、色々と知り合いも多いから」
そうですか、と慎司は少し不思議そうに言った。そういう人の生活が、分からないのだろう。
「あんたは、爵位にこだわっていないだろう。綾都が落ちつくまで、東京にも戻りたくないはずだ」
「それは、できればそうしたいと思っていますが」
「そうやって世俗のものを捨ててしまうのは、妙な覚悟があるように見えるよ」
やはり、綾都と同じように。二人とも。
「息が、つまらないか」
閉じ込められた、田舎の町。
思い出だけが鎮座して囲む場所。この家も。慎司は、それにすがり付いている。
「ええ、でも」
薄く、儚く笑う。
「綾都が、ここがいいと言うものですから」
「不便じゃないのか」
「医師ならば、いくらでも、お金を払って来てもらえますし」
「金持ちは言うことが違うね」
「それしか、ぼくにできることはありませんから」
医者を手配して、綾都が望むようにして。彼が、少しでも快適に過ごせるように。少しでも、回復してくれるように。
「一ツ橋の病院にも行きました。帝国大学の先生にも相談しました。日本にいらしていた、独逸の先生にも診ていただきました。できることなら、洋行してあちらで医者にかかりたかった。でも、まだ、あの人たちが生きていたから」
そして、その人たちが去った今はもう、海外に行く程の力が綾都に残っていない。
慎司の顔が急に歪められた。憎々しげに、白い頬に紅葉が散る。上品な佇まいで、いつも細く憂いを含んだ笑みを浮かべる彼からは想像も出来ないような、綾都を背負った奏を見たときのような、黒い感情の塊。
整えられた体裁と、その蓋で閉めてしまえない感情。押し込められ続けたものは、ふとしたことで噴出す。時折よぎる激情は、彼が危うい均衡の上にいるのを露呈していた。
「弄言が過ぎました」
ふと気づいた様子で、慎司は苦笑して、慎司は口を閉ざす。
奏はまったく気にした様子もなく、のどかな仕種で、湯飲みを持ち上げた。両手で抱えるようにしてすする。
「子爵様も大変だな」
「ええ、まあ。でも、ぼくには綾都がいますから」
灯された薄明かりの中で、彼の顔は微かな橙に染まっている。悲哀の色が濃い。縁取られた陰影が、何よりも悲しみを描き出している。
「綾都は走るのが得意だった。乗馬も得意だった。武道だってできた。ぼくなんかよりも、ずっと明るくて、優しかった。それなのに」
机の上で握られた手が震えた。
卑しくも、語られる噂がある。表沙汰にではなく、名家に隠された事情を楽しみ覗き見ようとする人の暗い意志によって、町の人間が囁いていたこと。
同じ年の従兄弟。同じ頃に死んだ父親たち。
どちらが長男の子供なのかなど、分かりはしない、と。
次男が長男の嫁に触れ、結果身篭ったのが慎司ではないかと。実は放蕩のあまりに死んだのは長男で、あまりにも外聞が悪いから理由を次男に押し付けのでは。入れ替えたのではないかと。そもそも長男に子ができたのかどうかさえ不明だと。
歪んだ家の主は、財力を、権力を使って事情を押し隠すこと、人の口を閉ざすことにばかり長けている。不都合なことは覆い隠す。だから余計に、真相は捻じ曲がる。
だがもう真相など分かりはしない。
とにかく、血だ。名家の血。大名の血。皇族の血。それだけは、成り上がっても決して手に入れることが出来ないもの。生まれたときにのみ、与えられるものだ。
綾都はずっと、祖父母の罵りを受けても、卑しいものを見るような眼を隠しもせずに、見せ付けられ続けても、決して項垂れることはなかった。顔を上げ、先を見据え、希望を湛えて笑っていたのに。
病に倒れてから、切り札のように、忌み言を繰り返すようになった。
自分たちはただ、家を守るための祖父たちの企みで、命運を切り分けられただけなのではないかと。その上、自分だけが更に失うのかと、暗に繰り返す。
決して、そんな感情を表にあふれさせる人ではなかったのに。近づいてくる暗い影が、綾都を追い立てている。精彩を放っていた存在が、霞かかったように遠くなる。
「どうして、こんなことになるんですか……」
痩せていく肩。青白い頬。少し歩いただけで、息を切らせて苦しそうにする。不甲斐ないとよく叱られた慎司よりもずっと体力もあったのに、町へ降りるのが精一杯のようだった。食欲旺盛でいつも食べすぎだと言われていたくらいなのに、もう、食べ物が喉を通らなくなっている。
あと、どれくらい生きてくれるのだろう。
どれだけ。
慎司は俯き、卓を見つめたまま、奏に尋ねる。
「あなたは、あなたの半身を失ったら、どうしますか」
「考えたくない事を聞くね」
ため息混じりに、けれども穏やかに奏は言った。
「できたらそれは、蓮に聞いた方が良いと思う」
「……どうしてですか」
半ば答えを予想しながら、むしろ理解していながらも、慎司は尋ねていた。奏も慎司がわかっているだろうということなど、予想済みだろう。
けれども――だからこそ、口にするのをためらうようにしながら、ゆっくりと答えた。
「これを言うと怒られるから、あんただけに教えてやるけど、多分俺は蓮より長生きをすることはないと思う。俺は盾だから」
「ずるいですね」
「そうだな」
ただ、奏は少しの後ろめたいところもなく、笑った。