月に降る雨と懺悔






 ※


 綾都が倒れました、と伝えたとき、祖父はいつもと変わらず大きな机の前に座していた。夏の日差しは強く、風も凪いで、頭の中までもが茹で上がりそうな日だった。
 洋風に設えられた東京の本宅で、英国から取り寄せた家具に囲まれて、彼はいつも書類を見ている。もう、無表情でそうなのだとしか思えない、厳しい顔で。
「霍乱か」
 顔も上げずに、積みあがった書物の向こうから言葉が返る。
「違います」
 いつものことだから、普段は少しも気にしないのに、慎司もこの日ばかりはそんな祖父の態度に苛立った。話をしているのは、他でもない孫である綾都のことなのに、倒れたと言っているのに、このいつもと変わらない様子は何だろう。
「医師に見ていただきました。自分では難しいと」
 嫌がる綾都を無理に引っ張って、あちらこちらの医師を訪ねた。誰もが申し訳なさそうに首を振る。今の日本では難しいだろうと。
「そうか」
 淡々と応えが返る。
「どこにいる」
「部屋で休んでいます」
「手立てはないのか」
「独逸に行けば、あるいは」
「洋行は構わん。お上も薦めておられるし、いずれはその必要もあるだろう。だが今その必要は無い」
 変わらない口調で言い切られ、慎司は愕然とし、今度は一気に血が引いて、体が冴えた。上下する感情の変化に、体が驚いて、眩暈がする。
 この人は、何を言っているのか。
 すぐには言葉を返せなかった。何を言っているのだろうか、目の前の老人は。
 必要ならある。否、海外に行くことが必要かどうかの話をしているのではない。綾都のために、何をすれば良いかという話をしているのであって、単に外へ行きたいわけではないのだ。
 何を履き違えているのかと驚き、同時に怒りが湧き上がってくる。慎司は、顔に血が集まるのを感じていた。熱い。夏の熱気のせいだけではない。顔が高潮している。
 本当に、分かっていないのか。慎司が単に、綾都と外へ出ていきたいだけだと思っているのか。ただの勘違いなのか。それともまだ、綾都を軽んじるつもりなのか。
 何を考えているのか分からない。どういう経緯で、祖父がそんな結論に辿り着いたのか分からない。理解できず、分からないということが気持ち悪かった。
 わざとでもない限り、病だ、治療のために海外に行かなければと口にされて、「必要ない」などと言うだろうか。財が無いわけではない。手立てを持っていないわけではない。彼自身は座っているだけでも手配することが出来る、それなのに。
「今でなければならないんです。早ければ早いほど良いことです」
 驚いたまま口にしたので、言葉に力が無かったかもしれない。
 そのようなことより、と祖父は言う。
「お前は、こちらに出てきてから、身元の卑しい人間とよく会っているようだが」
 言われて、また慎司は驚く。東京に出てきて、色んな人に会った。人伝に、絵描きに会う機会もあった。そういった物事についてたくさん語り合うことのできる知り合いも出来たが、勿論、家の人間に知られないようにと、気を配っていたはずだった。隠れてこそこそとやっていた事だった。もし知られれば、こんな風に言われるのが分かっていたから。そして慎司がそういった物事に触れられるように、家の人間に知られないように、誰よりも気を配ってくれたのは、綾都だった。
 けれど驚いたのは、それを相手が知っていたことにではない。今、そんな話はしていない。そんなことは、別のときにいくらでも責めればいい。
 何を言っているのだ、この人は。何を考えているのだ。
「その話なら、あとでお聞きします。今は綾都のことです」
 怒りを誘うのを承知で、慎司は強く言った。
 少しの間が空く。紙が触れる音と、祖父が何かの書付をする音が、微かに沈黙を彩っている。
 重く言葉が落ちた。
「自分の管理が出来ていないからそういうことになるのだろう」
「ぼくはともかく、綾都は、こちらに来ても、武芸の稽古を欠かしてはいません。決して、自堕落で倒れたわけではないのです」
「十分では無かったと言うことだろう」
 ゆっくりと、昂ぶっていた気持ちが引き始める。底知れない恐怖が胃の腑に重く蟠り始める。
 この数歩の距離が、あまりにも遠い。同じ部屋に立っているとは思えない。祖父との間に、薄く、けれど強い膜が張っているかのようだ。その向こうとこちらに温度差を感じる。
 言葉が、意志が通じない。僅かの、血の通った情意も感じられない。
 ずっと疑ってはいた。けれど形を持って、事実が迫ってくる。
 父も、病で死んだと聞いていた。その時もこの人は、こんな風に言ったのだろうか。少しも慌てずに。
「あきらめろ」
 顔も上げずに告げられた言葉だった。
 噴出すように、殺意が沸いた。
 ――だから今の表情を見られなかったのは、幸いかもしれなかった。どす黒く、醜い形相をしていただろう。
 けれどそれも束の間のことだった。
 祖父の手が止まる。ペンを握るその手が震えていた。皺の刻まれた顔が険しくなる。束の間、怒っているのか、何をお前に怒る権があると思い、様子が違うのに気がついた。
 祖父の眉間の皺が深くなる。苦しそうに眉根を寄せて、祖父はうめき声を上げた。
「おじい様」
 問うように、慎司が声を上げる。
 片手で胸を押さえて、祖父は、何でもないというように逆の手を振った。ここのところ、祖父も具合を悪くしていることが多いようだった。けれどいつもの厳しい表情に押し隠していることが多く、長く武士であった祖父は、体の不調を人に訴えない。時折堪えられないのか、こうして表に出るが、祖父は大袈裟に取り合うのを嫌った。慎司も、老人の体に夏の熱気は堪えるのだろうと思っていた。このときは。
 誰か、と大声を上げると、慌てて駆けてくる幾つかの足音が聞こえる。



 日差しが目を射る。容赦の無い光に焼かれて、思考が黒く濁る。
 祖父の部屋を出て、勢いのまま玄関を出た慎司は立ち眩み、煉瓦造りの壁にもたれて、顔を俯けた。
 酷く泣きたい気持ちだった。怒りと悲しみが同時に襲ってきて、ただ感情が昂ぶって、何を考えればいいのかも分からない。ぐるぐると、千切れたような感情がひたすら逆巻いている。
 ――守らなければ。
 唱えるというよりは、誓うというよりは、ただ実感を持って、その意識が心を浸す。分かっていたことだ。だけど、心のどこかで期待していたのかもしれない。いつも自分は、どこか甘いのだ。だけど今回ばかりは許せなかった。彼らが生きている限り、何も出来ないと痛感した。その事実が改めて体を縛った。
 あの人たちがあのままである限りは、本当に何一つ出来はしない。だからこそ他に何も無い。綾都以外には、何も無いのに。
 いずれは開ける道だから、耐えていればいいと思っていた。少しの辛抱だと思っていた。
 だけど今は待っている余裕が無い。



 悲鳴のような声が門前に響いた。奏の背中に負ぶわれた綾都を見て、慎司が駆け寄る。
 真っ先に、不審の、敵意の目が奏を捕らえる。奏が驚くよりも先に逸らされた刹那の間のことだったが、込められた力は、気のせいだと言うには強すぎた。
「どういうことですか。綾都、どうしたの。外に行ってたの」
 奏に言い、綾都に、縋るような目で問いかける。綾都は目を閉ざして答えない。眠っているわけではなく、答えることを拒絶していた。紺藍の色に満ちた空気では、顔色から、彼の体調を推し量ることもできない。
 背中の少年からは身じろぎすらなく、奏はかわりに、困ったように答える。
「ちょっと、通りがかりに拾ったんだ。疲れていたみたいで、外でへたっていたから、連れてきた」
 細く、息を呑む音がした。惑う視線が奏の元へ戻ってくる。
「発作とか、何か、苦しそうな様子は」
「いや、うん。そういう風には見えなかったな」
 必死な様子の慎司に、憂苦した顔のまま少し笑みを浮かべて、奏は言う。
「頑固に自分で帰ろうとするんだけど、危なっかしいから、無理に俺が運んできたんだ。迷惑でないといいけど」
「いえ、迷惑だなんて、こちらこそ」
 たいしたことは無いのだ、と悟って、慎司は大きく息を吐いた。病のせいで体力の衰えてきた綾都のことだ。慎司へのあてつけで家を抜け出そうとして疲れてしまったということも、当然ありえることだった。ただでさえ、今日は昼にも騒ぎを起こしたばかりだ。
 そして慎司はほっとすると同時に、動転していた自分に気づいたのだろう。慌てて頭を下げた。
「助けてくださったのに、失礼をしました。ありがとうございます。本当に」
 そのまま綾都を引き取ろうとするが、それを奏が断った。
「ああ、あがるのが迷惑でなかったら、このまま俺が運ぶよ」
「ですが」
 真意を測るように、奏を見る。奏の後ろにいる蓮を見遣る、彼は不機嫌な顔で黙り込んでいた。
「知らない人間が急に来て、怪しいと思うだろうけど」
「いえ、そういうわけではなくて。ご迷惑ばかりおかけするわけには」
「多分あんたよりは俺の方が力あると思うから、その方が綾都も楽だろう。病人に迷惑も何もないさ」
 慎司は、再度窺うように綾都を見る。少しの応えもないのを認めて、悲しそうに眉を落とした。奏の言うことも確かに正しく、慎司はそのまま引き下がった。
「何から何まで申し訳ありません。助かります」
 再び深く頭を下げた。
「どうぞ、こちらです」
 奏と蓮は、案内されて久我の家へ足を踏み入れる。
 冠木門を抜けて敷地に入ると、式台付き玄関があった。いくつもの棟が、渡廊で繋げられた大きな屋敷だった。玄関を過ぎると正座敷、更にその奥へ広々とした空間が続いている。壁を多く設けずに建てられた古い家を、行き止まることのない隙間風が、冷や冷やと通り過ぎていく。ところどころきっちり締め切られてしまっているが、それでも空虚さを拭えない。歩いた廊下の長さを思えば、どれだけの広さか窺えた。
「そちらに、床がありますから」
 慎司が足を止め、障子を開けたのは、庭に面した部屋だった。
 差し込む月明かりに照らされた部屋の中は、思いのほか綺麗に整えられている。人の手がきちんと入っているのが分かる。埃などなく拭かれた畳の上、書物が、真中に敷かれた寝具の脇に積み上げられていた。
 人を背負った重さを感じさせない軽さで奏が部屋に足を踏み入れる。綾都を布団に横たえて、慎司が丁寧に上掛けをかける。
 慎司が最後に部屋を出て、障子に手をかけた。
「おい」
 後ろから、声が追ってきた。先程までされるがままに目を閉じて黙っていた綾都が、こちらを向いていた。開かれた黒い瞳が、月を照り返して明るく光っている。白い手がひらひらと手招いていた。視線は、蓮の方を向いている。
 それを見て、どういうことかと、立ち尽くした人々は束の間考え、慎司が思い出したように言った。
「どうぞ、よろしかったら、寄っていかれてください。お茶くらいしかありませんが」
「いや、でも」
「お願いします」
「本当に、ただ通りかかっただけだから、気にしないでくれ」
「病人の願いでもですか」
 笑みと共に言われて、詰まってしまう。
「ずるいなあ」
 先程の言葉を逆に相手に利用されてしまって、苦笑した。それから、相手は蓮に用があるようだけど、と視線を向けると、蓮は奏を見上げ、放るように言った。
「後でもらいに行くから、とっておいて。お茶」
「え」
 あからさまに驚いた奏に、蓮は蛾眉を顰めた。
「なんだよ」
「いや、なんでも」
 これ以上つついて怒られるのは勘弁、と奏は慎司をせかす。蓮は、少しむっつりとした顔で、彼らを見送った。