月に降る雨と懺悔





 山中の久我の家は、場違いなほどに大きく立派だ。元は大名家筋というだけあって、無骨で圧力を放つ。町の人間が近づきたがらないのも、遠慮をしてしまうのも分かる気がした。
 この土地と関わりをもたない人間にとっても、その威力は十分なものだった。とはいえ、奏はそもそも身分だとかそういうものを気にしない性質だから、他の人間とは比べられないのかもしれない。それでもこの門からは強さを感じる。他者を圧しようという、抑圧を感じる。容赦なく、他者と切り分けようとした意志が、確かにあった。砦のようだ。
 一人で久我家を訪れた奏は、木と鉄で出来た重圧な門を見上げ、少し考え、結局拳を持ち上げた。
 どんどんと、強く叩く。傷口に響いたが、仕方ない。
 最近、慎司も綾都も町にも姿を見せないというから、突然押しかけても出てきてくれるかどうかわからなかった。だからこそ、遠慮よりも、呼ばわり続けないと駄目かな、という意識があって門を叩き続ける。
「誰かいるか」
 それでも、反応が無い。
 傷の痛みがひどくなってきて、拳も痛みだしたので、奏は眉をしかめながら門から離れた。拳をさすろうにも、空いた腕も怪我をしているので、思うようにならない。
 お前は騒ぐから、と蓮を置いてきてしまったが、来てもらったほうが良かっただろうか。わざわざ機嫌を損ねてまで言い聞かせたのに。
 やれやれ、と大きく息を吐く。
 日は高く上っていて、太陽の光は暑いくらいだ。久我の家は強固にそこにあるが、周囲は草木に満ちている。木上にも、根元にも小さな花が咲き、のどかな風景が広がっている。
 昼になってしまえば、陽があれば、夜の恐怖など、幻のようだった。
 自由が利くほうの腕を腰に当て、そびえる門を見て、どうしたものか考える。真正面から正攻法で行くつもりだったのだが、やはり、どうしたものか。
 もう一度声をかけてみようか。そう思い、再び門に近寄って拳をあげようとしたときだった。
 がたん、と向こう側で音がした。
 大きな門の下、出入りのための戸が小さく口を開ける。あげかけた拳を下ろし、様子を見ていると、身を屈めて少年が姿を現した。
 少しまぶしそうな顔をして、中天の太陽を見上げる。その顔がいやに青白い。
「驚いた」
 ひと月しか経っていないとは思えないくらいの変わりようだった。少し髪が伸びたせいもあるかもしれないが、以前よりも頬がこけ、顔に落ちる影が濃い。
 慎司は奏を見て、少し考えるように目をさまよわせ、ああ、と声を出した。
「お久しぶりです」
 眩しそうに目を細め、茫洋な笑みをうかべる。曖昧な表情に、奏は不安を抱きながらも、普段通りに「おう」と軽く応えた。
「迷惑かなと思ったんだが、やっぱり放っておけなくてさ。戻ってきたんだけど」
「そうですか。それは、気にかけていただいてありがとうございます」
 丁寧な物腰は変わらない。だが、以前と何かが違う。――覚えている姿よりも、痩せたように見える。そのせいだろうか。
「大丈夫なのか。随分痩せたな」
「そうですか。あまり、気にしていないので」
「看病する側が倒れないように、気をつけろよ」
「ええ、まあ」
「綾都は」
 問いかけに、慎司はぴたりと口を閉ざした。奏を見ているのに、視線は結ばれていない。
 聞いているのかと不審に思い、奏は再び問うた。
「先に町を通ってきたら、誰も最近綾都を見ないって言うから。どうしているのか、心配になって」
「それは、ありがとうございます。心配されていたと伝えておきますから」
「うん」
 以前は、見知らぬ彼らを気軽に家へ招き入れたのに、彼の口ぶりからだと、門から中に入れるつもりはないようだった。別に期待していたわけではないが、態度の豹変振りが気になる。
 それとも、外部の人間を入れたくないくらい、綾都の病が悪化したということだろうか。――それとも。
 慎司は奏の着物の襟から覗く包帯に気づいたようで、驚いたように声をあげた。
「その傷は」
「ああ、昨夜ちょっと」
「ちょっと、というものでもないでしょう。どうされたのですか」
「町の方で騒ぎがあって。知ってるかい」
「――ああ」
 嘆息のような声で、慎司はただ声を出した。曖昧で、明確に答えない。手応えのなさを感じながらも、奏は続けて言った。
「死体を狙った盗人が出ているのを知っているかい」
「ええ、騒ぎくらいは耳に届きます」
「ここのところずっと、町も人が襲われているそうだな」
「恐ろしいことです」
「お前さん、この町の名士なんだろう」
「ええまあ、名目上はそうですが」
「把握していないとまずいんじゃないのか」
「ぼくが、何から何まで、面倒を見ないといけないのですか」
 少し憂鬱そうに彼は言う。
 綾都のことであれだけ必死になっていたから、他が疎ましくなるのは仕方が無いのかもしれない。けれど以前見た慎司は、町の人間に対して丁寧に接していた。久我と町の人間は同じ土地に囚われながらも、違う位置に座していたが、慎司は同じであろうとしているように見えたのに。彼の言葉とも思えないことに、奏は驚きを禁じえない。けれど同時に、妙な納得があった。先刻からの、気だるそうな様子を見れば。
「綾都は、生きているのか」
 言葉を口にした途端、横をすれ違うようだった慎司の目が、奏を捉えた。
「無遠慮に過ぎませんか。どういう答えがほしいのですか。あまりにも不躾ではありませんか」
 すがめられた目が、敵意を孕んだ視線が真っ直ぐに向かってくる。以前、綾都を背負って現れた奏を見たのと同じ目だった。害するものを見る目だ。
「ああ、悪い」
 奏は朗らかに、素直に謝った。
「最近誰も、綾都の姿を見ないって聞いたから」
 心配になって、と言うと、慎司は表情を和ませた。微笑むのとは違う。以前は悲痛に眉を寄せていることが多かったが、そうではない。悲壮感の漂う、そのくせ悠然とした笑みだ。
「安静にしているからでしょう。今までの方が、おかしかったのですから」
「綾都に会えないかな」
「いえ、それは」
 間をおかずに拒絶が返る。
「無理させるつもりはないんだけど。そんなに悪いのか」
「そういうことではありませんよ。綾都もやっと、ぼくの言うことを聞いてくれるようになったというだけで」
「家で雇っていた人間に、暇を出したのだって聞いたが」
「ひとりですることに慣れてきましたので、必要ないかなと」
「前までは医者が多く出入りしていたのに、その様子もないと聞く」
「もっと良い医者を雇っただけです」
「言うね」
 奏も笑みを返す。
「だけど、その医者だってここに来るには、町を通るだろう。町の人間は、誰も知らないみたいだけど」
「噂話ばかり好きで、困った人たちですね」
 哀れむような吐息がひとつ。
「そう、変な噂話が流れてるよ」
 慎司は、何ですか、とは問わない。興味がないということなのだろうか。以前なら、お愛想でもそう尋ねたと思うのに。
「人を食う鬼が出るって」
「何が、おっしゃりたいのです」
「用心しろよってだけ」
「ご忠告、痛み入ります」
「あんたや綾都が姿を見せないから、町の人間が不安がってるんだ。綾都の様子が落ち着いたら、少し散歩でもさせてやれよ」
「そうですね」
「お前さん、様子がおかしいぞ。大丈夫なのか」
「ええ」
 何を言っても、慎司は淡々と相槌を打つ。水面をたゆたうように、頼りない笑みをにじませたままで、あやふやに。迷惑がられているのはあからさまで、奏は少し困ってしまった。
 それでも、再び問いかける。何よりも、気にかかる問いを。
「綾都は本当に、ここにいるのか」
 慎司はもう、過敏な反応を見せることも無かった。風に揺れる花を見遣り、少し睫毛を伏せたまま応える。
「何をおっしゃっているのか分かりません」
 考えては、いけない。
「綾都はいつだって、ぼくのそばにいます。ぼくらはもう、別の者ではなくなったのだもの」
 少年はしあわせそうに、やわやわと微笑んだ。
「何をした」
「ぼくは、何も」
 ――――何も。


 お大事に、と言った奏に慎司は、あなたも、と返して、道を下っていく背を見送る。のどかな風を感じ、大きく息を吸い込んでから家に戻り、門を固く閉めた。軽い足取りで広い家を渡り、自室に戻る。
 家の中で、ここだけ異質な空間だった。和風にしつらえられ、無骨な空気を放つ家の中で、ここだけが西洋のものにあふれている。切り取られたように。切り離したように。
 キャンバスの前に座る。筆を手に取り、パレットで絵の具を捏ねて混ぜて、画面に押し付ける。何度も何度も。塗りこめていく。鮮やかな血の赤。空の青。夜の藍。繁る緑。灯火の色。どんどん、厚さを増していく。
 もはや画面には、何の形も残っていなかった。何の造形も。
 ただ、感情だけが押し付けられて。



「待って」
 唇から声がついてでた。絵筆を放り出し、いつの間にか眠っていた慎司は、床の上で伏していた顔をあげて身を起こす。瞳を開き、瞬いて、目の前を確認する。うつらうつらとしていた眼差しのまま。
「待って、綾」
 ゆらゆらと、まどろむように現実と夢を行き来する。ただよって、ただよって、目覚める気もないまま、ただ揺られている。
 男ならしゃんとして武術を学べ、とやかましく言う祖父もいない。久我の次期当主が絵だなんて、と叱る祖母もいない。父も母も、始めから記憶には遠い。そして。
 慎の絵は奥が深いな、と悟ったような、半分おどけたような口調で言ってくれた綾都も、もういない。幼い頃からずっと一緒に育って、助け合いながら生きてきた綾都は。
 彼はもうあの頃のように笑ってはくれない。
 深く深く病の底に眠るだけで。
「綾?」
 ぼんやりとした声を出しながら、立ち上がる。仕草が危うく、歩くことを覚えたばかりの赤子のように、ぽてぽてとした動きで、歩を進める。
 嫌な、夢をみた。
 綾都がいなくなるなんて、とんでもない夢だ。
「綾都」
 そして庭を眺めて、少年はふわふわとした笑みを浮かべる。嬉しそうに笑う。
 綾都は寒椿が好きだった。雪の中に、緑と赤の花はとても鮮やかによく映えた。静謐の中にも、綾都がとても華やかだったように。けれど決して賑々しくはなかったように。精悍でも、存在を強く教える強い花。だから、慎司も好きだった。
 今、その花はもうない。
 変わりに、別の季節を告げる色とりどりの花が、むせ返るような匂いを振り撒き、満ちている。
 先陣を切る沈丁花。淡い色合いとは真逆に、香りを撒き散らす花。艶やかな寒緋桜。つぼみをつけた鶯神楽。家を出れば、蒲公英たんぽぽや菫が咲き始めているはずだ。命が沸き返る季節。
 だけど、少年の姿は。


 すこしずつ、ひとつずつ、壊れていく。
 ゆるやかに。

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