月に降る雨と懺悔





 警護の詰め所に使っている建物の一室を借り、もらった包帯を巻きつける。
 首元を覆う白い包帯は痛々しいが、当の本人は変わらず、にこりと笑いながら、出された茶に礼を言っていた。茶を運んできた若い男は、怪我人とも思えない暢気な笑みに面食らったようで、驚いた顔をして下がっていった。
「本当に、休まなくて大丈夫なのか」
 奏に声をかけた茶店の店主は、自分が無理に引っ張ってきたものの、やはり心配そうだった。狭い畳の部屋の中、座卓を挟んで向かい合う視線が問うようで、奏はそれにも笑みを向ける。
「俺の方はね。別に、まだなんとか」
 奏よりも蓮の方が余程興奮していた。怪我をしただけでなく、厄介事に関わろうとする奏に大憤慨で、別の部屋でお茶をすすっている。話を聞くつもりなどさらさらないということだ。奏が何をしようとも、自分はそれを許容したわけじゃないという、意思表示だった。
 機嫌を損ねると後が大変なんだけどなあ、と奏は内心苦笑してしまう。
「お前さんは、どうしてまたこの町に戻ってきた」
 湯飲みから口を離して、奏は相手の不安そうな顔を見た。
「往路と同じ道を復路に選んで、何か問題があるかい」
「いや、そういうわけではないが」
 珍しいことでもないし、同じ道を通ってくれたほうが、町にとってはいいはずだ。そんな分かりきったことを尋ねるのは、勿論他に言いたいことがあるからだ。
「言いたいことがあるのなら、はっきり言ったほうがいい」
 遠まわしな話は好きじゃないんだよ、と奏は人の好い笑みのままで、意地悪く言った。相手は少し逡巡し、視線をそらして畳の目を追い、そのままで言った。
「久我様のことで、頼みがある」
「久我の家に何かあったのかい」
 問いかけに、相手は再び躊躇いを見せる。ゆっくりと、自身で確かめるように口にした。
「何もない」
 あれだけ思わせぶりに、何かある風を臭わせていたくせに、店主は目を上げて言った。
「何もないのが、おかしい」
 奏は苦笑してしまう。
「それは、決め付けってやつじゃないのかい」
「お前さんは土地の人間じゃないから、そう言っていられる。何かあるはずなのに、何もない」
 言いたいことが、要として掴めない。
 蓮ならば、思わせぶりに人を引っ立てておいてその言い草はなんだ、と怒ったところだろう。だが奏は茶を飲み、大きく息をついて、苦笑を微笑に変えて言った。
「まあ、土地の人間じゃないからと言われてしまったら、その通りだし、何にも言えないけどね」
「まあ、な」
 責められるよりも、相手は申し訳なさそうに下を向いた。それに、と続ける。
「綾都様を、最近見かけない」
「病が深くなったってことじゃないのか」
「そうかもしれない」
 息をつく。
「そうじゃないかもしれない」
 なんだ、と奏はまた笑う。
「慎司はどうした」
「お姿が見えない」
「はっきりしないな」
「はっきりしない。したくない部分もある」
 土地の者にしか分からない、窮屈で、そして訴えるに訴えられない事情と心情。
「久我様は、この土地の庇護者だからな。久我様のおかげで、こんな辺鄙な場所でも人の出入りがあって、町も栄えている。誰もが感謝している。ここはそういう土地なんだ。昔から」
 感謝、と言うがそれはただの礼ではないだろう。自分たちよりも力あるもの、まったく違う階層、世界を生きている者への畏怖。そして、打算。
 だから、何か不審に思うことがあっても、誰も問いただすことが出来ない。叩き込まれた身分の壁はそう簡単に取り壊せるものじゃない。
「慎司様はとてもいいお人だし、綾都様も、最近はあんなだが、とても気さくで屈託の無いお人だった。だが、もともと久我の家は、町の人間とは遠く離れたものだ。先代は町の人間と自分たちは別の生き物だと思っているかのようだったし、代々がそうだろう。実際我々もそう思っていたよ」
「あちらのお家は、よくない噂も多いと聞いたけど」
「ああ、慎司様と綾都様のお生まれのことか」
「まあね」
「ああいうお家の人には、側室の一人や二人いるもんだろうし、とかく決まりが新しくなって煩い世になったものだから、余計に裏で色々おありなのだろう」
 簡単に言う店主の言葉からは、自分たちには関わりのないことだ、という臭いと、そういったことはどうでもいいのだという意識が見える。それは、どうでもいいことであるくらい、相手を盲信しているのか、相手が与えてくれる利潤が大事なのか。
「慎司様が、綾都様に毒を盛って、病を装って亡き者にしようとしたのだとかも、誠しやかに言われてもいるな」
 その話は初耳だった。だが、そういう話が出てもおかしくはないのだろう。彼らに触れること出来ない、名家の囲いの中を、人々は好き勝手に想像する。
「慎司が間違いなく家督を継いだのなら、わざわざ綾都を殺す必要はないだろう」
「さあ、人の噂なんてものは無責任だしな。お二人は昔からこの土地で過ごされていたから、土地の人間はお二人が親しくされていたのを知っているが、都の人間はどうかな」
「確かに、形式だけ聞くと相続争いのようなものがおきてもおかしくないように思えるけどね」
 都の人間は、それは楽しそうに、噂話を捏造し、語ることだろう。
「今問題なのは、そんなことじゃないが」
 店主は、大仰にため息をついた。疲れきっているのがよく分かる。町の誰もが、同じように暗い表情をしていた。
「お前さんには悪いが、上に届け出るのは、少し待ってもらえないか」
 奏は、小さく笑みを落とす。
「揉み消す気か」
 決して、珍しいことではない。こんな辺鄙な町なら。
「全部が解決してからでも、遅くは無いだろう」
「遅いとは思うけどね」
 なじるではなくただ事実を言う奏に、店主は再び息を吐いた。空気が重く澱む。冬を越え、花が賑わう季節にさしかかっているというのに、この町の人はまだ、捕らえられている。
「この町には異変が起きている。ここのところ、ずっと。何人も襲われている。あんたに、運がいいと言ったのは、今まで襲われた人間で生き残った者がいないからだ」
「目撃者がいないということか」
「姿を見た者はいる。だが、動転してしまって、しばらくろくにもしゃべれなかった。落ち着いてきた頃には、相手の顔も何も覚えていないと言うし、すっかり自分で記憶を封じてしまったようだ」
 人は、自分に都合の悪いことは、意図的にであろうとそうでなかろうと、簡単に捨ててしまえる。そう都合よく出来ている。そうでなければ生きていけないほどに弱い。
「それなら、尚更届け出て、政府に動いてもらった方がいいんじゃないか」
「それだけじゃない。ただの人殺しならさっさと届け出ている。だが、殺されるよりも酷いことが」
 店主は言い淀んで口を閉ざした。奏はただ視線を向けて、相手が口を開くのを待っている。真っ直ぐ向かってくる眼差しに店主は再び目を落とし、口にするのを躊躇い、結局言った。
「人を食う鬼が出ている」
 放たれた言葉に、奏は眉をあげる。
「それは、何かの例えか。言葉通りの意味なのか。野犬とかじゃないのか」
「言葉通りだ。最初は人の死体が盗まれていた。生き残りの男が犯人を見たのは、その警護の時だ。うわごとで人だ鬼だと言っていた」
「それで鬼だと皆が信じたのか」
「こちらだって、本当はこんな話したくもないし信じたくもない。だが、動物は刃物を使わない。人は人を食わない。もし人だとしても、もう人じゃない者の仕業だ」
 食う、という言葉については、問わなかった。沈黙した奏に、店主は自嘲気味に言う。
「笑えるだろう」
「いや」
 否定しながらも、奏は密やかに苦笑する。
 信じないも何もない。人々が示し合わせて、大掛かりな行事でもしているのでなければ、これだけ悲痛な空気が満ちていることがおかしい。だがこの宿場の町で、わざわざこんな時間に、旅人を脅かして楽しむ意味がない。
 奏が否定もせず笑いもしなかったことに、店主は少し安堵したようだった。
「こちらだって、本当はこんな話したくもないし信じたくもない。だが、犬は刃物を使わない。あまりな醜聞と恐怖に、皆が口を閉ざしていたい」
 分かる気がした。表立って話にしないことは、認めていないことだ。何が起きているか知っていても。でも言葉にして、人とそれを交わしてしまえば、現実になる。都合よく消し去ることが不可能になる。
「随分あっさりと話すね」
「誰も口に出さないが、皆、久我様を怪しんでいる。だが、我々は近づけない」
 外の人間の手が必要なのだ、と相手は言った。
「生き残った者なんて、いないのだろう」
 どうしてそこに行き着く。予想はしていたが、実際に口にされると違和感がぬぐえない。
「確証は」
「何も」
 はっきりと相手は言った。
 違和感があるということ。怪しむ理由なんて、人にはそんなもので十分なのか。
 自分たちと違う、というだけで。散々今まで助けられていても、異質なものは、真っ先に疑われるのか。ただ、確かに、久我の家には危ぶまれる要素が潜んでいるのも事実ではあった。
「綾都か、慎司か」
 疑っているのはどちらだ、と問う声に、店主は首を振るだけだった。
 綾都か、慎司か。綾都なら、人を襲った挙句、走って逃げていく力がまだ残っているだろうか。今までの放蕩ぶりから怪しまれるのは彼だろうが、しかし。
 店主は答えない。口にしてしまいたくないのか。ゆるゆると逃げ、ただ欺瞞に満ちている。
「で、俺にどうしてほしい」
 苦笑気味に訪ねると、相手は顔を上げて、すがるように見てくる。
「本当に、同じ道を選んだだけか」
 どう言ってほしいのだ、と蓮なら答えただろう。だが奏は、苦笑気味に言った。
「久我の家を訪ねるつもりだった。そう答えてほしいのだろう」
 もともと、そのために戻ってきたのは事実だった。復路に同じ道を選ぶ必要などなかったのだ、本当は。戻ってくる意味がないのだから。行く当てのない旅路には、戻る場所もない。
 奏の言葉に、相手は、そうだ、と頷く。
 真意はもはや、尋ねるまでも無い。
「視察して来いってことか」
「……言い方は悪いが、そういうことになるな」
「自分たちでは行かないのか」
「わたしたちには、あのお家は、あまりにも遠くて親密なんだ」
 真逆の言葉を言うが、それはどちらも真実だろう。疎遠だが、頼っていたいもの。真正面から弾劾はしたくないもの。
「どっちにしても、様子は見に行くつもりだったけど」
 奏は、やれやれ、という調子で言った。言外に、承知したと伝える彼に、店主はあからさまに安堵の息を吐く。そして続けて言った。
「お前さんたちには申し訳ないが、事件がおさまるまで、ここに留まってほしい」
 外聞か。
 無言の問いかけに、相手は自嘲の笑みを浮かべた。
「分かってくれ。我々には生活がある」
「それで被害者を増やしていたら世話無いよ」
「分かっている。だから、助けてくれ」
 声音はもう、哀願するものになっている。
「生き残ったのはあんた一人だ。相手を見れば、あんたは分かるのだろう」
 困ったな、と奏は苦笑を浮かべる。
 いくら奏が平気そうだからと言って、危うい箇所を切りつけられた怪我人であることも、すっかり忘れてしまっているのだろう。だからと言って相手を責める気は無かったが、やはり少し苦笑はしてしまう。
 どうせ放っておけなかったし、断るつもりもなかったが、蓮がどう言うかな。
 考えるだけで、少し気が重い。

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