実に鬼といふものは昔物がたりには聞もしつれど。
現にかくなり給ふを見て侍れ。
濃い花の香が、闇の中を絡みつくように漂っている。熟れた女のような香りだ。沈丁花。この花が香りを振りまくようになると、次いでさまざまな花が開き始める。春を告げる使者。けれど、明るい春を連れてくるには、濃厚に過ぎる香りだ。じっと佇んでいると香りに酔い、軽い眩暈を起させる。
闇に沈んだ町は、深く寝静まっている。周りを山に囲まれた町は、海の中にあるのと変わりない。閉ざされ、沈んでいる。
明かりを灯す燃料は高価なもので、人々は早いうちに床につく。日が長くなり始めたとはいえ、冷え込む夜は身を寄せ合って。
けれども、宿を台所としてある町は、普段ならば夜が更けても、華やかに賑わっていた。一部ではあっても、町の中心には
瓦斯灯が燃えているし、闇は
掃われ、夜道を歩くのにもほんの少しだけ、頼れるものがある。
表に旅人の眠りを守る宿があれば、裏には花街がある。政府によって、遊女を奴隷のように扱うことを禁じられたが、認可さえもらえば堂々と営業することができる。もちろん、それは町の体面にも関わることだから、密やかに、けれど公然と、営まれていることだった。湯屋、銘酒屋、飯盛旅篭、幕府が倒れる前からあったものは、多少形を変えながらも残っている。そういった、ある種の華やかさも遊びも、旅人を町に引き止める道具ではあった。
しかしながら、町は寂寞として人影がない。天上から光を投げかける月と、わずかばかりの瓦斯灯に照らし出されたものは、ひっそりと沈む町の閑寂さばかりだった。
「もっと、賑わっていそうなものなのに」
静寂の中に、少年の声が落ちる。荷を背負い旅装の少年は、無理をして山を越えて来て、辿り着いた町の様子に驚いたようだった。
宿は閉まっていたとしても、身を落ち着ける場所はそれなりにあるだろうと思っていた当てが外れてしまった。
「前に来たときよりも、寂れている気がするんだけどな。暖かくなってきたから、もっと人が増えているものだと思っていた」
花も賑わいだすこの季節にしては、閑散としすぎている。
「帝都じゃないんだし、田舎なんてこんなもんだろ。もともと派手な場所でもないんだし」
並んで歩いていた道連れの人が応えるが。
「田舎って言ったって、瓦斯灯がちゃんとあるし、名家のお膝元なのにさ」
「設備が整っているから、しゃんとしてるって訳でもないだろ」
つまらないことのように、相手が言い捨てる。確かに、そうだ。少年は妙に納得し、それから首を傾ける。
「何かあったかな」
「あまり治安も良くないみたいだけど」
「それは、山の中の話だろう」
「ぼくには細かいことなんて関係ないね」
興味なさそうに、切り捨てる。まあ、そうだろうな、と少年はつぶやいた。
決して大きな声ではないはずなのに、未だ冷える夜の中、彼らの声はやけに響いた。人のざわめきが無いだけで、昼と夜の違いだけで、町の様相は随分と変わるものだ、と思った。人の作った明かりなんて、太刀打ちできない。
風が吹いた。
ふと後ろで空気が揺れた気がして、奏が振り返る。
後ろに、人が立っていた。
「え……」
誰何の言葉すら出なかった。いつからそこにいたのか、いつの間にそこに来たのか。話していたとはいえ、音に気づかなかった。
気配にすら、気づかないなんて。
何よりもそのことに驚愕して、初動が遅れた。鋭く光がきらめいて、それを認めたときには遅かった。
静寂の中を悲鳴が響き渡った。赤い潮が吹く。空気が
温く熱を持つ。鉄錆の臭いが花の香を乱す。雨のように降りかかるものに目を細め、気づいて、再び悲鳴をあげた。奏が、ではない。
迫ってくるものに蓮も気づかなかったのだろう。斬りつけられ、傷口を抑えて後ずさった奏を見て、そして相手を見た。
「この……!」
小柄な人影が、照らし出されて立っている。血塗れた刃を持って。刀というには短い。そのくせ拵えがちゃんとしている。脇差だ。滅多な人間はあんなもの持たない。特に、町の人間は。
――まさか。
奏は再び驚き相手を見る。けれど頭上を照らし出され、俯く人の顔は見えない。ざんばらに顔にかかった前髪が、濃い陰影が、縁取って隠している。
そしてそれは、無造作に、再び刃を振り上げた。刃に付着していた赤い飛沫が散る。
蓮が奏の前に出ようとして、これをまた無頓着に、奏が傷口を抑えていない側の手で押しのける。よろめいた蓮は驚きに目を開いて、それからムッとした顔で奏を見た。その間にも、凶刃は奏を襲う。
首から溢れる血を抑えていた手を解いて、迷い無く腕で刃を受けた。骨に当たって固い音が響く。再び血が重吹いた。
「この、大馬鹿」
蓮が叫ぶ。割って入ろうとするのに気づいて、奏が、駄目だと言葉を返そうとしたが、目の前の相手が動く方が早かった。唐突に刃を引いて後ろに下がる。その動きには、やはり執着のようなものが見えない。
人を襲いながらも、傷つけることへ躊躇いや、逆に獲物を逃がすことへの躊躇や、そういうものがまるで感じられない。何か、希薄で。――だから、気配に気づかなかったのか。
けれど、何故いきなり身を引いたのか分からない。思った耳に人の声が聞こえた。途端に、締めきられたようだった意識が開ける。足音が聞こえる。一つや二つではない。
誰か駆けつけてくる。思ったときには、人影は、くるりと背を向けて走り出していた。蓮はその背を、苛立たしげな舌打ちひとつで見送り、奏の元に駆け寄ってくる。奏は首元の傷をきつく抑え、立っていられなくて地面に膝をついた。
さすがに目の前が揺らいでいた。血が溢れていくのと一緒に、目の前が暗くなっていくようだ。
「この大馬鹿」
立ち尽くしたままで蓮が再び、奏に向かって怒鳴りつける。奏が押しのけたとき、自分の血に濡れた手は、身なりに気を使う蓮の着物を汚したが、蓮はそれに気づいた様子も無い。思わず笑ってしまった。
「何笑ってんだよ、本当に、頭おかしいんじゃないの」
「いや、その」
「怪我してなかったら、ぼくがぶちのめしてるのに」
「いや……ごめん」
「あんたがやられてんのに、ぼくを庇ってどうするのさ。意味分からないよ」
烈火のように怒鳴りつけてくる。平静であれば、こんな時間にやめなさいと叱るところだが、この時ばかりは奏に分が悪かった。愁傷にしていると、細いため息が落ちてきた。
「傷は」
眉をひそめて蓮が問う。奏は痛みをこらえて傷を抑えた手元に目を向け、それから軽く笑った。
「大したことない」
「その血の量で」
「いや、ほんと」
「ばっくりやられてただろ」
「ああ、うん、確かに、一日くらいは休まないとまずいかもしれないけど」
「世話が焼けるよ、本当に」
ああ、蓮に言われてしまったな、と心の中で笑う。だがこれも今日ばかりは仕方ない。蓮が顔を上げて、少し先へ目を向けている。
ばらばらと人が駆けてくるのが分かった。先程まであんなに静かだったのに。
「用意のいいことで」
唇をゆがめて、蓮がつぶやく。
「町の人間か」
「他に考えられないけどね」
吐き捨てるような声に、変に騒ぎ立てないでくれよ、と心の中で頼み込んでいた。蓮だって分かっているだろうが、普段でさえ少し過激なところがあるのに、これだけ怒っていては、どうか分からない。
少しふらつきながら立ち上がる。必要以上に干渉されたくなかった。
「おい、あんた。大丈夫か」
最初に駆けつけてきただけでも、四人はいる。本当に、待ち構えていたかのようだった。かけられた声に奏は笑みで応えた。本人は弱々しいつもりなどないが、よりによって首筋を切りつけられ、血まみれでその様子では、人々の方が痛ましそうに眉を寄せた。
「生きてるか」
「俺は、頑丈な
性質でね」
傷口は手で押さえていて見えないはずだ。だが、血の量からしても、押さえている場所からしても、そう能天気に構えていられるようなものではないことは、町の人間も気づくだろう。分かっていたが、そう応えた。案の定、町の人間は彼の言葉を信用した様子もなく、口々に声をかけてくる。
「おい見せてみろ」
「いや、手を離したらまずいのじゃないか」
「とにかく医師を」
言い合う人々に少し困った顔で、奏は応える。
「そんなに大げさに騒ぐほどのものじゃないよ」
顔に飛び散った血が、顔を斑に染めているが、本人はそれにも傷にも頓着した様子も無い。
「だが、その血の量は」
「さっき確認した。血の量の割には、たいした傷じゃないよ。そんなに深くもなかった」
横から蓮が口を挟む。不機嫌な麗人の通りの良い声に、人々は少し気を取られた様子で、騒ぎ立てるのを止めた。
「そうやって騒いで邪魔される方が、ぼくは苛立たしいけどね」
冷ややかに言い放つ。顔立ちが整っているだけに、見遣る眼差しの冷たさが際立っている。人々は、そこに潜む苛立ちと怒りに、束の間口を閉ざし、顔を見合わせた。
それから今度は、腫れ物に触るように、そっと言ってくる。
「本当に大丈夫なのか」
「いや、平気だよ。どこか場所を貸してもらえば、包帯くらいは自分で巻けるし」
「そういう問題じゃないだろう。消毒とか」
「一通り応急用の道具は持っているし、平気だよ」
「いや……でも」
妙に、町の人間は食い下がってくる。単純に親切心とは到底思えない。今までの町の様子と、この人たちの様子を見ても。
「本当に、なんとかなるから」
奏が笑顔で押し切ると、人々はとうとう口をつぐむ。取り囲んで、立ち尽くして、どう出ればいいか迷っているようだった。その間にも、次々に人が集まってくる。
「怪我人に無理させる方が体に障るって、分からないかな。いい加減に」
再び蓮がいらいらと吐き捨てて、周囲の人間は、ハッとした様子で顔を見合わせる。その中から、ぽつりと言葉が落ちた。
「そうか。まあ……運が良かったな」
途端に、蓮の蛾眉がつりあがる。
「それどういう意味」
振り返り、町の人間を見回す。中から、先の言葉を放ったのだろう、蓮の間近にいた人間がうろたえて少し後ずさった。
「あ、いや。不幸中の幸いというか」
「いきなり襲われて、よりによってあんなとこ切りつけられた人間に言うことか」
怒りに染まった目が、相手を睨みつける。眦がつりあがる。凄味の増した美貌に、町の人間がたじたじとなっている。奏は苦笑して、蓮の前に出る。
「蓮、少し落ち着け」
「あんたが、そういうこと言うわけ」
「いや……すみません」
薮蛇だったか。苦笑が深くなる。自分が割って入ったくせに、誰かに助けを求めたくなって、奏は蓮から目をそらした。後から駆けつけてきた人間と目が合う。
「坊主」
相手が、何か気づいた様子で声を上げた。
「お前の顔、覚えがある。ひと月程前にも、ここに来ただろう」
「確かに、来たけど」
「覚えてないか」
束の間奏は迷い、それから思い出して声を上げた。
「ああ、お
店の旦那さん」
ひと月前、綾都と会った店の店主だ。相手は頷き、ゆっくりと言った。
「お前、久我の若君と親しくしていただろう」
その言葉に初めて、奏が眉を寄せた。人々の間にざわめきが生まれる。奏は目線だけで周囲を見回して、再び茶店の店主に戻す。
「どういうことだ」
「あとでゆっくり話す。その前に、手当てだろう」
「だからそれは」
「わたしらの手がいやなら、場所だけでも貸す。いいから、一緒に来てくれないか」
「ここと、犯人を放置してか」
「頼む。警官隊を頼むのはそれからでも遅くないだろう」
遅くない、はずがない。
だが奏は、あきらめたような笑みと共に、頷いた。